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10.習作を書いてみた(その3)

「俺、なんでこんなとこに居るんだ? てか、ここはなんの部屋だ…?」

 瞼のような自由の無い耳を小夜子は呪った。そのために聞いてしまった一言が、紐帯を断つ最後の鋏となったのだ。最早、疑う余地はどこにも無かった。陽介は小夜子を、血を分けた妹を、この時に忘れ去ったのである。

「…」

 陽介は、それまで繰っていた本を急に放り出し、触れていた手を衣服で拭い始めた。そうして無言で辺りを見回す態度には、疑いと、今は抑えが利いている様子の恐怖とが見て取れた。その正直な行為のひとつひとつが、まだ放逐されたばかりで世界の周縁近くに漂う小夜子を、いち早く彼方へ突き放そうとするものだった。彼女は兄を呼ぼうとする、やはり叶わない。音も無く泣きじゃくる小夜子は、だだっ子のように身を捩りながら立ち上がった。彼女にはもう、直接陽介に触れるしか、自分の存在を知らせる手立てが無かったのである。ともすれば竦みそうになる足を、懸命に前へ出した。姿見の前を横切ろうとした。この時彼女は、無意識に、自分のこんな弱り切った姿は目の端でも見たくないと願っていた。ところがそうはいかない。彼女は鏡の前で、どうしても立ち竦むしかなかった。瞬きを忘れ、食い入るように姿見を見る。だけどそれなのに、鏡には彼女の姿が映っていなかった。今の彼女と同様、蒼白の頬を強張らせ、酷く怯えた目でこちらを見返す、左右だけが反転した少女。その少女の姿が、どこにも無かったのである。

 小夜子は不意に、両方の二の腕に鋭い痛みを感じた。知らず知らず自らを抱くようにしていたのだが、柔肌に血が滲むほど爪を立てていたのだ。彼女はこの痛みを果ての無い絶望と感じた。確かに、彼女は消滅=死に見舞われた訳では無い、見えなくなってしまっただけだった。だが今の場合、この不可視という言葉は、単に光と不干渉だという以上の意味を持つのである。陽介の態度が語るように、彼女は、誰かの記憶からも不可視になっていた。ごく端的に言えば、記憶は何かを生かし続ける、それは故人すら永くこの世に生かし続ける。つまり小夜子は、現に生きてここに在るのに、ここで生きているにもかかわらず、生かしてもらえなくなってしまったのだった。人は死を恐れるのでは無い、虚無を恐れる。然るに小夜子は、その虚無の口に、唐突に放り込まれてしまったのである。

 小夜子はいつの間にか姿見の前に座り込んでいる。心も空白で、自分でも自分が見えなくなりかけていた。すると、姿見が四角く切り取る画の中に、陽介の姿がぬっと入り込んできた。今はもう無いとされた少女が、未だに何かを在ると感じられるのはどんな皮肉なのだろう。だがこの皮肉によって、小夜子は今し方中断されてしまった衝動に、再び身を任せられたのだった。彼女は、兄に触れたいと切望したのであった。彼女は姿と影を取り上げられてしまったが、人としての温もりは失っていなかった。陽介の映った姿が鏡の枠外へ出ようとする、強く引き寄せられるように小夜子は立ち上がっていた。もつれそうになる足には、陽介の背に縋り付く僅かな間も、果てが無いように思われた。

「うおっ」

 突然のことに陽介は叫んでいた。腰の辺りを、後ろから激しく突かれたと思ったら、崩れた体勢を持ち直す間も無く重い音を立てて床に引き倒されていたのである。起き上がろうとする、胴を締め付ける強い力がある。もがいて振り解こうとすれば、更に締め付けが酷くなった。これまで制御し得ていた恐怖が、遂に爆発的に暴れようとした。だが、胴の戒めと格闘していた両手が寸前にそれに気付いて、彼は我を失わずに済んだのである。握った感じから察するに、それは小振りな拳であった。今の彼の肌と同様、かなりの熱量を持っていた。彼は自分の両手をまじまじと見詰める、指先は見当を付けた物の滑らかな手触りも感じる一方で、ただ虚空を包み、節くれ立つだけなのだ。このまま視線が縛り付けられるかと思ったが、意図せずに逸らされた。今度は彼の背に、何かが覆い被さるもののようである。陽介はそれからも、今も彼が掌で計るのと同じ熱を感じた。その熱は、意に反して背を曲げる不自然の中にあって、むしろ心安らぐ温もりであった。彼は更に不意打ちを受ける。背を押してくる、やはり不可視なその質量が、明らかな生のリズムを、テンポは平均よりも速かったが、彼の背に伝え始めたからだ。陽介は胸が痛むほどの感動を覚えた。やがてそこに、新たな熱が加わるようだった。小夜子が彼の背に頬を押し当て、嗚咽していることを元より彼は知らない。状況は理解しないのであるが、この熱さは知っている気がした。陽介は、何かを思い出しかけていた。

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