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1.発端

“この無いと述べるが凄い!”。これをテーマに、アンソロジーを編もうと考えておりまして。つきましては、是非先生のお力添えも願えませんでしょうか。

 普段から懇意にしている、ある総合出版社の文芸部長が思い掛けず我が家を訪れて、そう切り出したのがそもそもの発端であった。彼は危険なほど生気に満ちていて、その余剰が絶えず両目から迸り出ていた。彼がその小説集の成功のため、いや、恐らくは彼率いる文芸部そのものが、最早停止を知らない偉大な動力炉になっているものと思われた。そんな様子だったから、私は先ず、彼を宥めるところから始めなければならなかった。そもそも彼が口にしたテーマ、全く聞き慣れないそれは、一体なんなのか。そこから説明してもらわねばならない。

 無いと述べるですよ、通称ナノベ、元々は若者向け娯楽小説の一分野だったのですが、最近は中高年層にも愛読する人が増えましてね、ちょっとしたブームなんですよ、先生はご存じありませんか、ジャンルも恋愛からファンタジー、SF、時代小説まで、そりゃあもう賑やかなものなんです。彼はそう一気にまくし立てた。私は自身の覚めた態度で彼を感化しようと試みていたのだが、全くの無駄であったのだ。すると、無いと述べる、というのは小説の形式のことを言うのですか。そう問い返すのが精一杯であった。

 なるほど、これはこちらの説明が足りませんで、誠に失礼いたしました。ではナノベの定義を申し上げることにいたしましょう。しかしその前に先生、僭越ながらアクセントにはお気を付けくださらないと。無いと述べる、は、この場合いわゆる標準的なアクセントで読むものではありません、ナイトノベル、即ちノベルの一分野として発音するのが正しいのです。さて、そのナノベの定義でありますが、主に次の二点によって言い表せましょう。一つは内容が無いこと。もう一つは文字数が少ないことです。しかしながら、これら二点は必ずしも同時に表れるものではありません。内容が無いものを、やかましいほどの饒舌でベタ書きにし、大長篇をものすることも可能だからです。従って、研究者たちは、定義中の二要件を同時に満たすものを上質なナノベ、前者の内容が無いことのみを満足する作品を並みのナノベと呼んで、両者を区別しているのです。

 私は普通に彼の話を聞き、耳は役割通り音声を電気信号に変えたのであったが、それらの信号が脳内を勝手に這い回り始めると私はむず痒さに困惑した。目的の定まった信号が脳内で伝達路を踏み迷うなど前代未聞であるが、今はまさしく、それらが理解の中枢の周辺で遭難しているようなのだ。はたと気が付くと、私は文芸部長を阿呆のように見詰めていた。それでようやく言葉を押し出した。あなたは、私に駄文を書けと仰るのですか。すると文芸部長は平伏した。

 とんでもありません。本日私がお願いに参ったのは、まさにその逆を意図してのことなのです。研究者たちは、確かに先に申し上げたようにナノベを定義しました。しかし、小説とは本来何をどのように書いてもよろしいもの。ならば、むしろ文字数が少ないことをもってナノベとすることも可能なはずです。これ即ち、有意の小説を出来るだけ短い一文の積み重ねで書き表そうと試みること。先生、私共は、今度のアンソロジーで新しいナノベを読者に提示してみたいのです。そんな熱病に浮かされた憐れな我々を救ってくださるお一人として、先生はまさに相応しい。密度の高い細部を具えることで定評のある先生の語りを、より精選した言葉で、一つ一つ正確に的を射るように綴っていく…どれだけ小さくて、かつ内に豊かな広がりを包み込む小説が書き上がることか。この瞬間、我々は新しいナノベの誕生に立ち会うのです。と同時に、先生にとっては、それは新世界への到達を意味するでしょう。

 頭皮を掻きむしりたい強い欲求が、ここでようやく収まった気がした。確かに、一文が短い、言わば息継ぎの多い文体で物語を書くというのは、私にとって冒険であった。私は特に冒険心に富んでいるという訳では無いが、文芸部長の、巷間の常識に反逆したいという企てには気を惹かれた。これも別段反骨心に富んでいるのでは無く、子どもっぽく、単純に面白そうだと思ったのである。私は、その考えを文芸部長に告げた。彼は安堵の笑みを浮かべたが、直ぐに神妙な顔付きに戻った。少し身を乗り出し、若干声を潜めて、では私共の企画にご参加頂けるということでよろしいでしょうか、と聞いてきた。この時点で具体的なアイディアは何一つ無かったが、なんとかなりそうだという、職業人としての直感はあった。私は引き受けることにした。文芸部長は、今度こそ屈託無く破顔した。

 有り難うございます、これで今回の企画は成功も同然です。では、本企画についてもう少し突っ込んだ説明をさせて頂きましょう。実は、このアンソロジーでは、もう一つ試みてみたいことがございまして、それが短い一文の積み重ねで書かれた作品に豊富に生じるであろう、余白の利活用なのです。具体的に申しますと、余白を広告スペースとして一般に売り出し、その収入を還元して冊子の価格を抑えようと、まぁこういう訳ですな。先例を申しますと新聞のテレビ欄があります、野球の試合がある時など、余白にビールの広告が小さく掲載されておりますでしょう。この方法で充分な広告収入が得られれば、本をフリーペーパーのように配布することも可能になります。馴染みのない人たちに文学をお薦めする、強力な手段ともなるでしょう。

 私は、今度は馬鹿のように文芸部長を見詰めていたらしい。私の表情に気付いた彼は、気の毒にもうろたえだした。そして、まるで自身の秘密の名前でも明かすかのように私に耳打ちをした、新聞のテレビ欄、ご覧になりませんでしょうか、と。恥ずかしながら、私は頷くしかなかった。私は若い頃に作家として生きていこうと決意して以来、以降はその通り、世間並みの常識人としては全く生きてこなかったのである。私の世間知らずが常軌を逸している様は、多くの人々が教示してくれたこともあって、今ではすっかり自他共に認める事実となっている。この文芸部長もそんな私の被害者なので、彼は根気よく、余白を売るという驚くべき商法について説明を繰り返してくれた。結局、その商法については完全に理解したとは言えないが、この仕事を引き受けたからには、なるべく余白を増やすような書き方を心掛けねばならないことは飲み込めた。ところで、そのような書き方に挑む際に、何か参考になりそうな作品はあるのだろうか。文芸部長に尋ねてみた。

 実は、そう仰るかもしれないと考えまして、作品を一つ持って来ています。これは先のナノベの定義に照らし合わせればいわゆる上質なナノベで、本来なら先生のお目汚しにしかならないものでしょう。ですが、余白を利活用したい私共にとっては、誠に都合の良い体裁を具えているので持参いたしました。こちらがそれです。いや、本当に。体裁のご参考程度に。

 そう言って、文芸部長は A4 サイズの用紙の束を差し出した。ちらっと見ただけでも確かに余白が多い。聞けば、データ入稿されたものを取り急ぎ出力しただけだそうで、そうすると組み方で後から調整したのではなく、最初からこんな書き方な訳だ。タイトルを聞いてみると “俺の体に部分的変身が起こって以来、妹の様子がちょっと変” だと教えてくれた。随分長いタイトルですね。通常は “ぶぶへん!” と略されるようです。元のタイトルには無い表記が、省略形になると表れるのですか。私は驚いて、速やかに!マークの出所を理由付けようとした。文芸部長は私の性癖についての予知を正しく閃かせて、慌ててその考察を押し止めた。相手が目の前にいようがお構いなしに孤独な考えに没入してしまうのも、私の世間知らずの一面なのである。まぁ要するに若者の軽薄な言葉遊びで意味なんて無いんですよ、なにせ上質なナノベですからねぇ。文芸部長は宥めるように言うと席を立った。先生、この度は急な申し出にもかかわらずお引き受け頂いて、本当に助かりました。では、私はこれから正式な出版契約書を用意いたしまして、整いましたら改めてお伺いさせて頂きます。深々と頭を下げて、彼は帰っていった。

 私は軽く息を吐き、首を回してこりをほぐした。さて、息継ぎの多い文体で余白を増やすとは、実際にはどのような技法なのだろう。息継ぎの苦しい文章ばかり書いてきた私には、目新しく楽しみでもあった。では早速、勉強のために “俺の体に部分的変身が起こって以来、妹の様子がちょっと変”、通称 “ぶぶへん!” を読んでみよう。今気付いたが、この作品はタイトルの通称すらも余白に貢献するものなのだろうか。それはともかく、この作品の冒頭部分はこのようなものであった。

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