僕たちは理解を拒む
常世というものをご存じだろうか。常世とは幽世とも呼ばれ、永遠に変わらない神域のことを指す。では神域とは何ぞや。神域とは山海や河川、大木、巨岩などの場の様相が変わる境目の先にある、現実世界と異なるもののことである。また、夕刻などの昼と夜の境目は現世と繋がりやすいとされ、その時刻を逢魔ヶ時と呼び、深夜などの静寂の夜は重なりやすい時刻、丑三つ時と呼び恐れた。
これはそんな常世の御話。
常世にはいくつもの里がある。水の中にあったり、山そのものだったり、果ては空飛ぶ巨大な船を里と称しているところだってある。そしてそれらは環境により大体住んでいる種族が決まっている。これから始まるのは雪の里に住む雪鬼たちの御話である。
兄と弟の仲が冷えて行ったのはいつごろのことだったか、そもそも発端はなんだったか。そんなことはもう忘れてしまうくらい前の話だ。ただ彼らの父が存命の時でさえ二人は一緒に過ごす時間などほとんどなかったし、父の亡き後、母と暮らしていた時も別段険悪な中というわけではなかったが、ほとんど会話をすることもなかった。だから特別兄弟喧嘩をしたというのはこの時が初めてだった。
「兄さんに僕の気持なんかわかるはずがない。」
吐き捨てるように言った。
「だって貴方は恋なんかしたことないでしょう。」
弟が捨てた言葉に言い返す的確な言葉が見つからずに、兄は一瞬言葉に詰まった。
「ほら、言い返せない。貴方はなんてつまらないんだろう。」
追い打ちをかけるような言葉に対して、何とか反撃の言葉を紡ぎ出したのは弟がもう一度口を開こうとした寸前だった。
「別に恋愛するなと言っているんじゃない。ただ相手が良くないと言っているんだ。」
「同じことだよ。人間に恋をして何が悪いっていうの。」
冷たい目で兄を見据えたまま、弟は続けた。
「そりゃあ、父様と母様の件に関しては未だに許せないよ。でもそれとこれとは別物だろう。二人が死んだのは半妖のせいであって、人間のせいじゃない。」
少し補足を加えると、彼らの父は以前里で起こった半妖と在来種の争いで殺害された。当時里の最高権力者であった父が死んだあと、その妻が後を継ぎ争いに終止符を打った。そしてその母も息子である兄、雪稀に全てを託した後に自害した。だから彼らの死は直接的、間接的の両方で半妖のせいであることは確かなのだ。しかし、あくまで半妖を恨みこそすれ、人間を恨むことはお門違いと言っても過言ではない。
「別に僕はね、彼女と結婚しようとか子を成そうとかいうわけじゃないんだよ。だって人間と妖怪じゃ生きる時間が違いすぎる。子ができたってどちらで暮らそうとも幸せな未来なんて望めやしない。だからね、せめて彼女の短い生の続くうちだけでも一緒に居たいと思っているだけなんだよ。」
それだけなんだ、と静かな声で復唱した。
「……それでも危険なことには変わりない。お前の身を案じているんだ。人間というものは自分たちと違うものに恐れを抱き、徹底的に排除しようとする生き物だ。正体が暴かれることになったら、如何に私たちでも無事に戻ってこられる保証はない。肉体的にだけではない、精神的にもだ。」
雪稀は悲しそうな目で言葉を紡いだ。しかし弟はそんな兄を尻目に、やっぱり貴方には分からないんだね、と一言諦めるように言って部屋を出て行った。
「お前こそどうして分かってくれない……。」
雪稀は誰にも聞こえないような声で呟いた。部屋から遠ざかっていく弟の足音が完全に聞こえなくなった頃、背まである白い髪を翻して彼もまた部屋を出て行った。
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