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光のもとでⅠ 第四章 恋する気持ち  作者: 葉野りるは
サイドストーリー
35/35

18~23 Side Akito 05話

 夕飯はすき焼きだった。栞ちゃんが作るのは関西風の少し甘めのすき焼き。

 彼女の前にはチーズタルトとハーブティーが置かれている。

 すき焼きの鍋を視界に入れた途端、彼女はばっと視線を逸らした。

 もしかしたら、今は食べ物事体をあまり見たくないのかもしれない。現に、チーズタルトも半分というところで持て余している。

 しばらくすると、「ごめんなさい」と一言口にして残すことに決めたようだ。

「何も食べないよりはいいわ」

 栞ちゃんがフォローを入れると、瞬時に彼女の表情が変わった。

 なんとも言えないような表情。自分を追い詰めいているような……そんなふうに見えた。そして、食べ物から逃げるように、早々に自室へ下がった。

「すき焼きの匂いはちょっときつかったかしら? 水炊きにすれば良かったかな」

 栞ちゃんが言うと、

「この時期はテーブルに食べ物が乗っているだけで部屋から出てこなくなることも少なくないので、気にしないでください」

 蒼樹が苦笑して答えた。

「拒食症気味?」

 俺が訊くと、

「そうとも言えなくはないんですが……。まず血圧が低すぎて身体を起こしていることすらがつらい状態だし、痛みがひどいと食べるどころじゃないって感じですかね」

「これからが正念場ね」

 珍しく栞ちゃんがため息をついた。

「俺、このあとは明日締め切りのレポート仕上げなくちゃいけないので、先輩、時間があるようなら少し翠葉の話し相手になってもらえませんか?」

「それは喜んで」

「でも、あまり動揺させるようなことは話さないでくださいよ?」

 しっかり釘を刺された。

 俺ってそんなに信用ないのかな?


「翠葉ちゃん、入ってもいい?」

 ドア口から声をかけたものの、ベッドの枕元には譜面台があるので彼女の顔は見えない。

 返事をもらってからベッドサイドへ行くと、俺はベッドを背もたれにし、入り口の方を向いて座った。

 部屋のドアは開けてある。そのほうが彼女も安心だろうし、俺も理性が働くだろうという判断のもと。

 譜面台を覗き込むと、そこには俺のノートが開かれていた。

「古典?」

「はい」

「なんとかなりそう?」

「不思議なんですけど、このノートを覚えるのは全く苦じゃないんです。もう、半分くらいは覚えたと思いますよ」

 嬉しいことを言ってくれる。

「お役に立てたようで何より。……ね、訊いてもいい?」

 体勢は変えず、視線だけを彼女に向ける。

「……何をですか? ……あ、あのっ、質問によりますっ。答えられるものは答えますけど、答えられないものに関しては黙秘権を行使してもいいですかっ?」

 くっ、さっきよりは頭の回転が良さそうだ。

「チーズタルトの効果ってすごいね? 頭の回転、もとに戻っちゃったかな?」

 そんなふうに答えると、急に蒼樹のことを気にしだす。

「蒼兄は……?」

「明日提出のレポートがあるとかで、今頃必死になってるんじゃないかな」

 彼女は「そうなんですか」と少し寂しそうに肩を落とした。

「話、もとに戻すよ」

 彼女は緊張にゴクリ、と唾を飲み込む。

「そんなにかまえないで? ……あのさ、面倒なことや余計なことは一切考えずに、翠葉ちゃんが恋愛に求めるものを訊いてもいい?」

「……恋愛に、求めるのも……?」

 彼女は不思議そうに首を傾げた。

「そう。たとえば、ドキドキワクワクジェットコースターみたいなものや駆け引き。色々とあると思うんだよね」

 戦略を考えるなら、まずはそこからだろう。

「ほら、カーペンターズの曲が好きって話したときみたいに、そんな感じで話してもらえたら嬉しいんだけど……」

 彼女は宙を見ながら考える。

「……あの、笑わないで聞いてもらえますか?」

 上目がちで見てくる子がこんなにかわいく思えたことはないと思う。こういうの、計算がないってある意味犯罪……。

 俺はベッドを背もたれにしていたのをやめ、くるりと彼女へ向き直り、マットに両腕と顎を乗せた。

 彼女も話しにくいと思ったのか、上体を起こすと背に枕を入れる。

「あの……ドキドキするのは嫌じゃないんですけど、でもやっぱり困ってしまうので……。たとえば、一緒にいたいのにドキドキしすぎて一緒にいるのすらよくわからない状態になっちゃったり、お話して笑った顔を見たいだけなのに、それすらできなくなってしまったり……。そいうのは困るので――ただ、普通に一緒にいられるのが希望です」

 質問自体が漠然としすぎただろうか……。でも、彼女の言わんとすることはわからなくもない。

「翠葉ちゃんは安心感がほしいのかもね」

 蒼樹に与えられているような安心感――それが君の求めるもの? 実の兄が理想のタイプです、ってところかなぁ。

「因みに僕は……癒し、かなぁ……?」

 嘘でもなんでもなく。駆け引きやゲームのようなものは飽きたし、何よりも面倒だと思うようになってしまった。

「いや、し?」

「そう。すごい疲れてるおじさんみたいなこと言ってる気がするけど」

 自分で口にしておきながら少し気になる。

 九歳年上というのは「お兄さん」という枠に留まるのだろうか。それとも「おじさん」に属してしまうのだろうか。

 彼女の中の線引きはどうなっているのかな。

「また困らせちゃうかもしれないんだけど……」

 俺の言葉に彼女は身構える。顔は強張っているし、布団を掴む手にも力が入っている。

「そんなにかまえなくてもいいよ」

 声をかけたところで彼女の緊張は解けない。

「そんな緊張させるつもりはなかったんだけどな」

 言いながら、自分が口にした「けど」の多さに苦笑する。

 どれだけ言い訳じみた前置きを並べれば気が済むんだ。

 事実、彼女以前に自分がひどく緊張していた。

 九つ下の女の子と話すのに俺が緊張、か……。人生何が起こるかわらかないものだな。

 俺は目の前にあるものと対峙すべく口を開く。

「俺は、翠葉ちゃんの笑顔が見たいんだよね。で、声が聞きたい。だから側にいてほしい。本当にそれだけなんだ。何も難しいことはなくて、いたってシンプル。ただ、ほかの男には近づいてほしくないから『付き合ってる』って関係を欲する。もし、翠葉ちゃんが俺を好きだと思ってくれるなら、付き合うとかそういうの抜きでもいい」

 そこまで言うと顔を上げ、彼女と視線を合わせた。

「だから、側にいてくれないかな」

 実のところ、本当にそれだけでいいんだ。ただ、側にいてほしい……。

「翠葉ちゃん、今『恋愛』って言葉に振り回されてるでしょ?」

 返事はないものの、顔には「はい」と書いてある。

「だから、そんな難しい言葉は使わない。今までのことを一切忘れてくれてかまわない。今から俺が言う言葉だけを聞いて」

 真っ直ぐに彼女を見る。そして、

「翠葉ちゃん、ただ側にいてほしい」

 視線を逸らさずに答えを探しているかのような彼女。

「だめ?」

 久しぶりに心臓がフル稼働していた。返事を待つこの間すら、つらいと感じる。

「だめじゃないです……」

 小さな声が耳に届いた。

「それなら、困らないです。私も秋斗さんの側にいたいと思うから……」

 あまりにも純粋な目で見つめられたものだから、自分から目を逸らしてしまった。あのまま彼女の視線を受けていたら、彼女の目に吸い込まれるんじゃないかと思ったんだ。

「良かった……」

 そう口にするのがやっとだった。

「秋斗さん……?」

 こちらをうかがう声をかけられる。でも、まだ顔を上げる自信がない。視線を落としたまま、

「何?」

「あの、大丈夫ですか?」

 顔を覗き込まれそうになり、咄嗟にマットに額をつけた。

 ……格好悪……。でも、これも「俺」なのかな……。

 観念するように頭を上げ、彼女の顔を見る。

「たかがこれだけのことに緊張していたって言ったら信じる?」

「えっ!?」

 目を大きく見開き、びっくりしたって顔。

 そんなに驚くことかな? でも、俺は九歳も年上だからな……。

「秋斗さんが緊張してたって……今、ですか?」

「そう。年甲斐もなく緊張した」

 相当情けない顔をしていたのか、彼女がクスクスと笑いだす。

 でも良かった、困った顔はされていない。それが救いだ。しかし――。

「視線が痛い……」

 俺の言葉に彼女は再度声を立てて笑う。

「言葉を好きだと思うけど……。でも、型にはめすぎると見えているものが見えなくなることもあるんですね」

「……そうだね。ただ一緒にいたいってだけなのに、ものすごく大げさに難しく考えていたかもね」

 実際、言葉なんて独占欲の表れのようなものだ。

「翠葉ちゃん、シンプルにいこう。一緒にいたいから一緒にいる。それでいい?」

 確認するように訊けば、笑顔で「はい」と答えてくれた。そんなことが嬉しい、幸せだと思える。本当に、こんな感情は初めてだ。

「秋斗さん」

 彼女は微笑んだまま俺に声をかける。

「ん?」

 いつものように訊き返すと、意外な言葉が返ってきた。

「秋斗さんは私にとってとても大切な人です。だから……秋斗さんの側にいたいです」

 思わず絶句する。……っていうか――。

「翠葉ちゃん、このタイミングでそれを言う?」

「え……?」

 きょとんとした顔で見られる。

「……もう、本当にわかってないな」

 言いながら中腰になり、彼女の唇を奪う。

 ただ触れるだけのキス……。今はこれで十分。

「ただ側にいてほしいとは言った。でも、俺は女の子として翠葉ちゃんを見てるんだ。そんなこと言われたらキスをせずにはいられない」

 言い訳がましく口にすると、

「……あ、れ? 私、何か失敗しましたか?」

 ワンテンポ遅れて上気する彼女。

「何も失敗はしてないよ。ただ、俺が喜ぶことを言っただけ」

 真っ赤になった彼女を見つめ、思う。愛しい、と――。

 絶対に誰にも譲らない――俺だけの宝物。


 放心状態から帰還した彼女は枕元に置いてあった小さめのクッションを俺に向かって投げつけた。

「本当にごめんってば……。でも、今のは翠葉ちゃんも悪いと思うよ? 男なら誰だってあんなこと言われたらキスくらいするよ。キスだけで済んだことに感謝してほしいな」

 彼女の顔を覗き込むと、

「……もう、言わない。もう、言いませんっ」

 ぷい、と壁側を向かれてしまった。そんな仕草は幼くも見えるけど、かわいいことに変わりはない。

 今、家に栞ちゃんや蒼樹がいなければ抱きしめてもう一度キスをしていただろう。

 こんなにも自分の腕に閉じ込めておきたくなる相手がいるものなんだ、とまだ少し信じられない気持ちでいた。

「まだ怒ってる?」

 向けられた背に問いかけると、ゆっくりとこちらに振り向いた。

「怒ってないです……」

 むくれた顔は一変する。この瞬間に何が起こったのだろうか、と思うほど憂いを含んだものへと。

「なら、どうしてそんな顔をしているの?」

 彼女ははっとした顔をして「それは秘密です」とごまかすように笑った。

 そのときそのとき、何を考えているのか何を思っているのか、全部教えてもらえないだろうか……。

「つらいこと、我慢できないこと、楽しいこと、嬉しいこと――翠葉ちゃんが思ってることや考えていることを全部知りたいと思う。だから、俺にだけは教えてね」

 からかったりしない。だから、教えてほしい……。

「はい……そうできたら、嬉しいです」

 少し間を開けてから、「あの……」と遠慮気味に声をかけられた。

「何?」

「模試明けにお返事をするって話だったでしょう? でも、さっき全部なしって言ったから、だから、なしでいいのかなって……」

 この子ならでは、なのかな? 自分の目の前を少しずつ、けれども着実にクリアにしようとするのは。

「返事をするっていうのは『Yes or No』だよ? それは付き合う付き合わないって話になるけど?」

 笑みを深めて疑問符を投げかける。と、「あ――」と口にした次の瞬間には困った人の顔になった。

「翠葉ちゃん、付き合うっていうことは一緒にいるっていうことと何も変わらないよ。あまり言葉に惑わされないで?」

 彼女は一度唇をきゅっと引き結んでから、

「……はい。それなら、やっぱりちゃんとお返事はします。だから、模試明けまで待ってください」

「了解。じゃ、俺はこれで帰るね」

 俺は胸にあたたかなものを感じながら彼女の部屋を出た。


このお話で「光のもとで第四章恋する気持ち」は完結となります。

次は、別枠でご用意してあります「光のもとで第五章うつろう心」へお進みください。

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