元カノが来るから友人の結婚式は欠席して」と言う婚約者へ。欠席するのは私たちの結婚式です
「玲奈も来るからさ。佳澄の結婚式、お前は欠席してくれない?」
亮介がそう言ったとき、私は姿見の前で紺色のワンピースを体に当てていた。9日後の結婚式に着ていくつもりで、昼休みにクリーニング店から引き取ってきたばかりの服だった。
振り返ると、彼はテーブルの上で招待状を開いている。1か月前に2人で受け取って、揃って出席に丸をつけた返信ハガキの控えが、今も棚の隅に立ててあった。
「私だけ?」
「うん。俺まで欠席したら、あいつらも寂しいだろ」
私がいなくても誰も寂しがらないと、5年付き合った相手の口からずいぶん平然と出てくるものだと思った。
新婦の佳澄は大学時代からの友人で、私と亮介が知り合った写真サークルでずっと一緒に過ごしてきた仲間だ。玲奈も同じサークルにいて、亮介と玲奈が別れたのは大学3年の秋だった。私たちが付き合い始めたのはそれから1年ほど経ってからのことで、今でも年に何度かは全員で集まっている。玲奈と私だって普通に話すし、佳澄の結婚相手の写真を最初に見せてもらった食事会にも、玲奈と一緒に顔を出していた。
「玲奈は最近、彼氏と別れたばっかりだろ。そんなときに俺たちが2人で揃って出席したら、あいつだって見ててつらいと思うんだよ」
「玲奈にそう言われたの?」
「直接言うわけないだろ。そういうのは、こっちが察してやるもんなんだよ」
亮介の視線が私の左手へ落ちた。半年前の誕生日に渡された指輪がはまっている。来年の春には式を挙げる予定で、2人で式場を押さえ、先週の夜には招待する友人たちの名前をメモ用紙に書き出したばかりだった。そのリストの中には佳澄の名前も、玲奈の名前も当たり前のように並んでいた。
「じゃあ、私の気持ちはどうでもいいの?」
「だから今こうしてお願いしてるだろ。頼んでるんだよ」
亮介は困ったように眉を下げて笑った。厄介な話を穏便に済ませたいときに彼が見せる特有の表情だった。付き合い始めのころは、その柔らかな笑顔に毒気を抜かれて私も一緒に笑っていた気がする。けれど今は、ワンピースを持つハンガーの金具が指の腹に食い込んで痛かった。
「私も佳澄のお祝いがしたいよ。ずっと楽しみにしてたの」
「七瀬なら分かってくれると思ったんだけどな。まあ、ちょっと考えてみてよ」
それだけ言い終えると、亮介は冷蔵庫を開けて残っていた麦茶をグラスに注ぎ、私の返事を待つこともなくテレビの音量を上げた。
こういう都合のいい頼まれ方をするのは、これが初めてではなかった。
今年の夏に6人で居酒屋に集まったときも、仕事で疲れている亮介から端の席で静かに飲みたいと言われ、私は遅れて来る後輩を駅の改札まで迎えに行き、彼に頼まれて2次会の店を手配して歩いた。席に戻ったときには、私の座っていた椅子に亮介の大きな通勤カバンが置かれていた。居場所を奪われて嫌だったと後から伝えると、気づかなかった、ごめんと軽く謝られたので、それ以上は責めずに飲み込んだ。
先月だって、失恋した玲奈を励ます名目で集まった飲み会に、私にだけ声がかからなかった。終電を逃しそうになった亮介から車で迎えに来てほしいと連絡があって初めて、そんな集まりがあったことを知った。翌朝、仲間内で飲むなら私にも声をかけてほしいと言ったとき、亮介は玲奈が気まずがるからと言い、七瀬は大人なんだから大丈夫だろと笑っていた。
そのときの大丈夫という判断も、私に相談された記憶は一度もない。
亮介が自分のアパートへ帰ったあと、私はワンピースをクローゼットの奥へ掛け直した。すぐ隣にはブライダルフェアでもらった披露宴会場のパンフレットが何冊も立てかけてある。それを引き抜いて捨てる気力も起きず、私は板戸を閉めた。
手元のスマホが短く震えたのは、その数分後のことだった。
画面を見ると、大学の同期である奥村修吾からのメッセージだった。佳澄から七瀬が式に来られなくなるかもしれないと聞いたが、急な仕事でも入ったのかと書かれている。
考えてみてくれと私に言い残しておきながら、私の返事を聞く前に、もう新婦側へ欠席の話を回していたのだ。
指先が微かに震えるほどの苛立ちが湧き上がり、メッセージを打ちかけたものの、途中で消して電話の通話ボタンを押した。
「仕事なんて入ってないよ。亮介が、玲奈に気を遣って私だけ欠席しろって言い出したの」
「は? 玲奈が七瀬に来るなって言ったのか?」
「ううん。亮介が勝手に察して、玲奈のために私を外そうとしてる」
受話器の向こうで、修吾が深いため息を漏らしたのが聞こえた。
「七瀬本人はどうしたいわけ?」
「行きたいよ。普通に佳澄の晴れ姿を見たいし、直接おめでとうって言いたい」
「なら佳澄にすぐ連絡しな。本人は最初から七瀬に来てほしくて招待状を送ったんだから」
「うんそうだよね……。今から連絡してみる」
私がそう答えると、修吾は自分からは佳澄に何も余計なことは伝えていないと教えてくれた。それから、佳澄に貸す約束をしている一眼レフの充電器が見つからなくて部屋中を引っ掻き回している最中だと、わざとらしいほど気の抜けた声で愚痴をこぼした。
「探し物してる途中で電話に出たの?」
「そう。今は床に散らばった機材の真ん中で途方に暮れて座り込んでる」
「見つかるまで諦めちゃだめだよ」
「七瀬を呼んで探してもらうわけにもいかないからな。もう1回だけ棚を漁ってみるよ」
電話を切ったあと、喉の奥のつかえが少し取れて息が吸いやすくなっていた。私はすぐに佳澄へ連絡を入れ、予定はきちんと空けてあること、喜んで出席したいことを伝えた。そして、亮介からどのような欠席要請を受けていたのかも、誤魔化さずに短く書き添えた。
佳澄からの返信は早かった。絶対に来て、という短い一言のあとに、今すぐ電話していい? と続いていた。
翌日の夕方、私は亮介を駅前の喫茶店へ呼び出した。
佳澄に出席の意志を伝えたことを話すと、亮介はコーヒー用のスティックシュガーをちぎりかけた姿勢のまま動きを止めた。
「なんで俺に一言も相談しないで勝手に連絡するんだよ」
「私宛てに届いた招待状だから。佳澄も絶対に来てほしいって言ってくれたよ」
「そりゃ新婦本人に聞いたら、来ないでくれなんて言えるわけないだろ」
「佳澄は言いたいことをはっきり言う人だよ。私、大学のときからずっと友達なんだけど」
佳澄は嬉しいことも嫌なことも包み隠さず口にする性格だ。写真合宿の早朝に全員で日の出を撮りに行こうと計画したときも、朝日は任せたから私は朝ご飯から合流すると言って宿の布団で昼前まで熟睡していた。
そのとき亮介も同じ広間にいて、あいつらしいなと一緒になって腹を抱えて笑っていたはずだった。
「たった1日くらい我慢してくれよ。結婚したら俺たち、ずっと一緒に暮らすんだからさ」
持ち上げかけた水のグラスをテーブルに戻した。底のガラスがソーサーの縁に当たり、硬い音が周囲の雑音に紛れて響いた。
来年の春に挙げるはずだった結婚式。新生活のために2人で探し始めた賃貸物件の間取り。将来子どもは何人欲しいかなどと話し合った夜のことまで、記憶が次々に浮かび上がってきて、底冷えするような寒気を覚えた。
この人と何十年も暮らしていく中で、彼や誰かが都合を悪くするたびに、私は平気な顔をして身を引かされる側に置かれ続けるのだろう。
「結婚、やめよう」
亮介の手元から砂糖の袋が落ち、白い粉がテーブルに少しこぼれた。
「……は? 待てよ、なんで話がそこまで飛ぶんだよ。式に出たいなら出ればいいだろ」
「佳澄の式には出るよ。でも、あなたとの結婚はやめることにした」
「言い方が悪かったのは認めるし謝るからさ、落ち着けって」
「先月、みんなの集まりに私を呼ばなかったときも言ったよね。寂しかったって。昨日だって、佳澄をお祝いしたいって伝えた。それでもあなたは、私に我慢させれば丸く収まるって思ったんでしょう」
感情を抑えて静かに告げるつもりだったのに、語尾がどうしても震えてしまう。
亮介は口を閉ざし、気まずそうに視線を泳がせてから、七瀬がそこまで根に持っているとは思わなかったと呟いた。
「根に持ってるんじゃないよ。ずっと一緒に生きていくつもりだったから、私の声もちゃんと聞いてほしかっただけ」
左手の薬指から指輪を引き抜いた。指の付け根には、半年間つけっぱなしにしていた細い締め付けの跡が残っている。鞄から取り出した小箱へ指輪を戻し、亮介の前に滑らせた。
彼が私の手首を掴もうと指を伸ばしてきたが、触れる寸前で手を引っ込めた。
「少し頭を冷やそう。日を改めてまた話そう」
「式場のキャンセルは私から電話しておくね。亮介も、自分の親には自分で理由を説明して」
伝票を持って立ち上がり、自分の分のコーヒー代をレジで払って店を出た。
改札の手前まで歩いたところで、バッグの中から定期券が見つからず、鞄の底を手探りしているうちに涙がぼろぼろとこぼれて止まらなくなった。
5年という時間は重い。合鍵の感触や歩く歩幅まで染みついていた相手との生活が、こんな形で終わる現実を受け止めきれず、私は改札の脇で立ち尽くして泣いた。亮介のもとへ引き返したい気持ちは微塵もなかったけれど、昨日まで疑っていなかった春からの日常が崩れ去った喪失感は、そう簡単には消えてくれなかった。
その夜、式場へ電話を入れて予約キャンセルの手続きをお願いした。新郎新婦双方の合意が必要だと言われ、亮介にも確認の連絡が行く手筈になった。
内金として納めた20万円は各自が10万円ずつ出し合ったものだった。契約書の規定通り1円も手元には戻らない。失った10万円のことを考えると胃のあたりが重く痛んだが、解約を取り下げる理由にはならなかった。
翌朝には実家の母にも婚約を破棄したと打ち明けた。母は絶句し、何度も言葉を詰まらせたあと、今度の日曜日に温かいものでも食べに帰っておいでと言ってくれた。
式場の見学を終えた記念に2人で買ったペアの北欧食器は、まだ箱に入ったまま棚の奥に眠っていた。私は自分のために選んだ深い青色の平皿だけを取り出して洗い、トーストを載せて1人で朝食を済ませた。
火曜日の夜、佳澄から頼まれていた結婚式当日の受付の打ち合わせを兼ねた食事会が開かれた。
集まったのは新郎新婦の2人と、私と一緒に受付を担当する友人の女性、当日のスナップ撮影を頼まれている修吾、それに披露宴の余興で流す大学時代の写真を集めてきた玲奈だった。
亮介も二次会の進行の手伝いとして呼ばれていた。私は事前に佳澄へ婚約を解消した経緯を話し、別々に向かうと伝えてあった。直前に私的な問題で余計な気を遣わせて申し訳ないと謝る私に、佳澄ははっきりと言い切ってくれた。
「謝るべきなのは、七瀬の席を勝手になくそうとした奴の方だから。受付、本当に七瀬がやって平気?」
「うん、やらせてほしい。一緒に組む子にも、私から事情を話していい?」
「もちろん。もし少しでもしんどくなったら、当日でもいいから言ってね」
居酒屋の個室に入ると、玲奈が合宿のときに撮った古い写真を掘りごたつのテーブルいっぱいに広げていた。当時みんなで使い回していた安価なデジカメの写真は、室内の光源を拾いすぎて全体が黄色っぽく濁っている。佳澄が、当時はこれでも綺麗に撮れたと思って満足してたよねと笑っていた。
私もその輪に混ざろうと席に着いた瞬間、向かいに座っていた亮介が口を開いた。
「七瀬、本当に来たんだな。俺と玲奈が顔を合わせるのが嫌で避けるのかと思ってたよ」
箸袋に伸ばしていた指先が止まった。
テーブルを囲む全員の視線が一斉にこちらへ集まるのが分かった。私は声を荒らげないよう注意しながら、亮介をまっすぐ見据えた。
「欠席してくれって私に頼んできたのは、亮介の方でしょう」
「そんなつもりで言ったんじゃないって。ただ、お互いに気まずい空気にならないように配慮しただけだろ」
「玲奈が失恋してつらい時期だから私は遠慮しろ、亮介は出席する、そういう話だったよね。私は佳澄を祝いたいから行きたいって断った。違ってる?」
亮介は私から逃げるように視線を逸らし、隣に座る玲奈の顔を窺った。
「玲奈だってさ、人の幸せな話ばっかり見せられるの、今はしんどいだろ」
「私、そんなこと頼んでなんて一言も言ってない」
玲奈の声は低く、硬かった。手に持っていた合宿の写真をビニール袋へ丁寧にしまい、亮介を鋭く見つめ返した。
「自分が失恋したからって、友達の結婚式から誰かを締め出すようなみっともない人間に仕立て上げないでよ。私、2人の婚約が決まったときだって、心からおめでとうって言ったんだよ」
婚約を報告した夜、玲奈はサプライズでホールのケーキを用意してくれた。2人の名前がチョコペンで書かれたプレートを、私は今もスマホのアルバムに保存している。亮介だって、しばらくはその写真をスマートフォンの待ち受けに設定していた。
「気にしてないなら別にいいけどさ。俺はただ、お前のことを心配して」
「心配するなら、まず私に直接聞きなよ。七瀬を勝手に仲間外れにして、それを私のせいにするの、本当に迷惑だからやめて」
玲奈は深く息を吐き出すと、テーブル越しに私へ向き直った。
「七瀬、ごめんね。裏でそんな勝手な話が進んでたなんて全然知らなくて」
「玲奈が仕組んだことじゃないって分かってるから大丈夫。私も、玲奈にすぐ確かめればよかった」
亮介は居心地悪そうに背もたれへ体重を預け、腕を組んだ。誰も料理に手をつけない沈黙が流れる中、新郎が亮介の前に置かれていた披露宴の席次表を手元へ引き寄せた。
「亮介、七瀬さんの出欠を直接確認したのは俺たちだよ。来てほしいから招待状を送ったんだ。お前が勝手に間に立って断る権利はない」
「分かったって。もう本人が出るって言ってんだから、それでいいだろ」
「俺たちには最初、七瀬さんが出席を渋ってるみたいに伝えてたよね。その嘘はちゃんと撤回してくれないか」
亮介は唇を噛み締め、悔しそうに顔を歪めた。佳澄が席次表のコピーを広げながら、私に亮介とテーブルを離した方が過ごしやすいかと小声で尋ねてくれた。
私は迷わず頷いた。胸の奥が熱くなり、涙腺が緩みそうになるのを必死で堪えた。自分から席の変更を申し出るつもりでいたのに、新郎新婦の方から自然に気遣ってもらえたことが心からありがたかった。
「……俺が勝手に欠席してくれって頼んだ。七瀬が出たがらなかったわけじゃない」
亮介は新郎に向けて吐き捨てるように言い、それから私を睨みつけた。
「これで満足か? ちょっとした行き違いなのに大げさに騒ぎ立ててさ。1回頼み事をしただけで結婚まで白紙にするなんて、普通じゃないだろ」
玲奈が小さく息をのみ、佳澄の手が止まった。婚約を解消したことは、この場では佳澄にしか話していなかった。
私はテーブルに広げられた席次表へ目を落とした。
「亮介、その話は今ここですることじゃないよ。今日は佳澄たちの式の打ち合わせでしょう」
「皆の前じゃ都合が悪いってか?」
「佳澄たちに気を遣わせるから言ってるの。私たちの話はこの前二人でしたよね」
「だから、あんな頼み事一つで終わりにするのかって聞いてるんだよ」
みんなの前で、ここまで言えば取り消すと思っているのだろうか。
私は膝の上で手を握り、声が大きくならないように息を吐いた。
「前にも嫌だって伝えたよ。そのときに聞いてほしかった。結婚をやめる気持ちは変わらない。もういいでしょ」
亮介が口を開きかけたところで、玲奈が声をかけた。
「ちょっと亮介……今それ、ここで言うことじゃなくない?」
玲奈の声には、怒りを通り越した呆れが滲んでいた。
「佳澄たちの結婚式の打ち合わせだよ? 主役の2人の前で、なんで自分たちのプライベートな揉め事持ち出して、しかもみんなの前で七瀬を責めてるの? 空気読めなさすぎて信じられないんだけど」
修吾も眉をひそめて亮介から目を逸らし、新郎はテーブルの上のグラスを見つめたまま重いため息をついた。
周囲の冷え切った視線が亮介に向けられる中、私は彼から目を逸らさずに言葉を返した。
「もういいでしょ」
テーブルの上に両手を置き、静かに言葉を重ねた。
「みんなを巻き込んで私を説得させようとするのもやめて。私は佳澄をお祝いしたくてここに来たし、当日は責任を持って受付もやり切るよ。その打ち合わせをしに来たの」
佳澄が私の背中にそっと手を添え、新郎も席次表にペンを走らせた。亮介がなおも言い募ろうと口を開いたが、新郎がそれを手で遮り、結婚の話は2人だけで解決してくれ、俺たちは七瀬さんの返事を聞いたからと告げて話を打ち切った。
それ以降、亮介は食事の間ほとんど口を開かなかった。私たちは受付の集合時間やご祝儀の管理手順を1つずつ確認し、玲奈が持ってきた写真の中から、寝ぼけ眼で納豆ご飯を頬張る佳澄の姿を見つけて、これだけはスライドショーから外そうと笑い合った。
ここにいるのは私の大切な友人たちだった。亮介の顔色を窺い、彼の機嫌を損ねないように繋ぎ止めておくべき人間関係など、初めからどこにも存在していなかったのだ。
結婚式当日、私は予定通り紺色のワンピースを着て式場へ向かった。
一緒に受付を担当した友人は、佳澄の花嫁姿を見たら絶対に泣いてしまうと事前に宣言していたのに、チャペルの扉が開いて新郎が極度に強張った顔で入場してきた瞬間から早くも涙をこぼしていた。まだ早すぎるよと笑いながら手渡したポケットティッシュを、披露宴の終盤には私も結局使うことになった。
お色直しを終えた佳澄は、歓談の時間にわざわざ私のテーブルまで歩み寄ってきて、2人で並んで写真を撮ってくれた。本当におめでとうと伝えた私の声は少し震えていたけれど、後で見せてもらった写真の中の私は、佳澄の肩に寄り添って心から笑っていた。
引き出物の紙袋を持って式場のエントランスを出たところで、後ろから亮介に呼び止められた。
「式場から確認の電話が来たよ。本当に取り消すんだよな」
「そう言ったでしょ。解約の電話を入れるって、喫茶店でも話したはずだよ」
「七瀬が一時的に頭に血が上ってるだけなら、待ってもらおうと思ってたんだよ。内金の10万だって返ってこないんだぞ」
亮介はスーツのポケットから、あの小さな指輪の箱の角を少しだけのぞかせてみせた。
「もう1回だけ考え直してくれよ。今日みたいな式、俺たちも挙げたいねってずっと話してただろ」
確かに話していた。挙式の退場のときにどんな曲を流すか、お互いの両親への手紙で誰が真っ先に泣くか、休日の喫茶店で何時間もパンフレットを眺めながら語り合っていた。
亮介は今も、あの従順で都合のよかった頃の私を呼び戻そうとしている。
「私の10万円だって戻ってこないよ。それでも、あなたと結婚するよりずっといい」
「俺ばっかり悪者になって、玲奈にも愛想を尽かされてさ。みんなも明らかに七瀬の肩を持ってるだろ」
「その状況を、私が周りに頼んで元通りにしてあげるとでも思ってるの?」
亮介は黙り込み、ポケットの手を引っ込めた。私がここで折れれば、誰にどんな言い訳をして回るべきかまで細かく指示してくるに違いなかった。
「自分の後始末は自分でして。あなたの代わりに誰かに頭を下げたり、集まりに呼んであげるような根回しは、もう絶対にしないから」
私は踵を返し、振り返らずに駅へ向かった。
翌週になって、亮介から式場の予約を正式に解除したという短いメッセージが届いた。自分の親への説明がひどく難航したこと、七瀬からも一度実家へ来て一緒に説明してほしいという身勝手な要望が添えられていたが、私は自分の親には自分の口から全て報告を終えたとだけ返信し、それ以上の連絡を絶った。
佳澄たちの新居へ遊びに行く計画も、私と修吾、玲奈たちを中心にトントン拍子で決まった。亮介からも日程を教えてほしいとしつこく聞かれて困っていると相談してきた佳澄に対して、私は自分を言い訳に使わずに、佳澄たちの本心をそのまま伝えてほしいと頼んだ。
佳澄は少しの間を置いたあと、七瀬の出欠を勝手に決めて嘘をついた亮介の態度を思い出すと、新居には呼びたくないとはっきり断ることにしたと言った。
私は何もフォローすることはせず頷いた。その集まりの日程を亮介に横流ししたり、彼も仲間に入れてあげてほしいと誰かに取り成したりすることは、もう二度となかった。
修吾と2人で写真を撮りに出かけるようになったのは、冬の風が冷たくなり始めた頃だった。
きっかけは新居祝いの日にみんなで撮った写真だった。私の撮影したデータには、決まって誰かの手や肩が見切れて写り込んでいた。集合写真を撮ろうとしても、フレームの端に置かれた花瓶や家具を入れたくなってしまい、肝心の主役たちが小さくなってしまう。
大学の頃からまるで進歩がないと修吾にからかわれ、あなたの夕日の写真だって毎回同じ構図じゃないかと言い返したことから、お互いのデータを持ち寄って並べてみようという話に発展したのだ。
川沿いの遊歩道を歩きながら、私がレンズを向けて立ち止まるたびに、修吾も数歩先で足を止めて静かに待ってくれた。私の撮りたい被写体を聞いてくれるだけでなく、自分はあの橋げたの下に差し込む光の筋を撮りたいのだと、自分のこだわりも率直に話してくれた。
まずは修吾の目指す橋の下へ寄り道し、その帰りに私が見つけた駐輪場の赤い自転車を一緒に撮った。
「ここからだと、自転車が看板に隠れるな」
「もう少し右から撮ってみたら?」
修吾は二歩ほど横へ移り、カメラを構え直した。
「あ、入った。七瀬もここから撮る?」
屈み込んだ修吾の長いコートの裾が地面に触れそうになり、私が声をかける前に本人が慌てて飛び退いた。手袋をしたまま裾の埃を払い、何事もなかったような顔でファインダーを覗き直す姿が可笑しくて、私は思わず吹き出してしまった。
昼食は、私が前から行ってみたいと言っていた中華の定食屋へ入った。2人とも初めて訪れる店で、メニューの写真を見て適当に頼んだ麻婆豆腐は、想像していたよりもずっと辛かった。
「七瀬、辛いのは平気な方だっけ?」
「平気じゃないよ。さっきから水ばっかり飲んでるの見てたでしょ」
「俺はスープを3口飲むまで水に手をつけなかったけどね」
「何の勝負をしてるのよ」
他愛のない軽口を叩き合いながら、自分で選んだ出来立ての料理をゆっくりと味わった。
修吾は大学時代、サークルの全体合宿に1人だけ日程が合わなかった後輩のために、私が別の撮影会を企画して声をかけていたことを今でも覚えていた。亮介との別れを引きずっている私を励ますための作り話かと思ったら、当時その合宿で後輩から借りた望遠レンズを返却し忘れて私が催促の連絡を入れた一件があったため、鮮明に記憶に残っているのだという。
「あれ、後輩が先輩に直接言いにくいからって私に泣きついてきたんだよ」
「知ってる。七瀬からものすごく事務的で丁寧な催促メールが届いたもん。あの文面、怒ってた?」
「ちょっとだけね。人の物を借りっぱなしにするのはよくないよって」
「深く反省しました。それ以来、借りた機材はその日のうちに返すように徹底してます」
修吾は苦笑いしながら、後日その機材を返しに行ったときに後輩へ奢ったケーキの話まで披露してくれた。私もつられて、その後輩が最近SNSに投稿している風景写真の話をした。
誰かをどこかへ誘うことも、みんなの都合をすり合わせることも、私は今でも好きだった。会いたいから連絡をするし、相手の喜ぶ顔が見たいから工夫をする。ただ、その誠意を都合よく利用され、自分の存在をないがしろにされることが耐えられなかっただけなのだ。
駅の改札前で別れる間際、修吾は次の休みに自分が見に行きたい写真展があるのだが一緒に行かないかと誘ってくれた。私が来月の土曜日なら空いていると返すと、彼はすぐにポケットからスケジュール帳を取り出し、第2土曜は出勤日だから第3土曜の午後はどうかと具体的に提案してきた。
お互いの空いている日をすり合わせるのに、5分もかからなかった。
桜が咲く頃には、写真を撮りに行くという口実がなくても、週末に2人で会うのが自然な日常になっていた。
亮介と挙式を予定していた日付が近づいたある日の午後、私のスマホに一度だけ亮介からの着信とメッセージが入った。あの日の予約枠はまだ空けてあるから、せめて2人で食事でもしながら話せないかという内容だった。
私はその誘いを短く断り、今後は個人的な連絡を一切受け取らない旨を告げてメッセージを消去した。画面を伏せたあと、下見のときに2人で眺めた式場の大きなステンドグラスの窓が頭をよぎったけれど、あの場所へ戻りたいという感傷はどこにも湧いてこなかった。
修吾と約束していたのは、その翌週の日曜日だった。
夕暮れ時の喫茶店を出て駅へ続く並木道を歩いていると、隣を歩いていた修吾が不意に歩調を緩めた。
「七瀬。来週のことなんだけどさ」
「うん。来週、どこか行きたいところある?」
「いや、来週だけの話じゃなくて」
修吾は足を止め、私の方へ向き直った。私も立ち止まり、肩から滑り落ちそうになったバッグのベルトを掛け直した。夕日を浴びた彼の耳の付け根が赤く染まっているのが見えて、私の心臓も急に激しく脈打ち始めた。
「俺と付き合ってほしい。七瀬のことが好きだ」
まっすぐな視線を受け止めた瞬間、胸がいっぱいになって言葉がすぐに出てこなかった。俯いてしまうと、視界の隅で修吾の指先が所在なげに動いているのが見えた。
この数か月間、私は週末の天気を毎日のように確認していた。街で見かけた面白い看板や綺麗な夕焼けを真っ先に修吾へ送りたくなり、美味しそうな洋食屋を見つけるたびに、今度は2人で何を食べようかと考えていた。
「私も修吾が好き。よろしくお願いします」
顔を上げて返事をすると、修吾は驚いたように目を見張り、それから安堵したように深く息を吐き出した。
「よかった。勢い余って来週の予定まで断られたらどうしようかと思った」
「そんな理由で断ったりしないよ。来週はどこに行くつもりだったの?」
「港の赤レンガの方。夕方に海沿いで写真を撮って、夜は美味い魚でも食べて帰ろうかって思ってたんだけど」
「行きたい。お昼過ぎから会えない? 海の近くに、ずっと寄ってみたかった定食屋さんがあるんだよね」
修吾が表情を緩め、どんな店なのかと身を乗り出してきた。
私はスマートフォンを取り出し、行きたい場所のリストに保存してあった港近くの古い食堂の写真を見せた。今回は辛い料理の店じゃないよと笑いながら付け加えると、修吾も声を立てて笑った。
駅の階段を上がる手前で、修吾の手が私の指先に触れた。そっと触れ合った手のひらに私から指を絡めると、温かな体温が力強く握り返してきた。
次の週末は、昼過ぎから出かける。小さな食堂で昼食をとってから港へ向かい、海風に吹かれながら2人で夕暮れの景色を撮る。帰りの電車に揺られながら、私は食堂の名物料理の写真を眺め、どれを頼むか修吾とメッセージを交わし続けた。
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