第10話(最終話) 「選べなかった私へ」
夜は、いつも通り来た。
何も変わらないはずの時間なのに、今日は少しだけ違って見えた。
スマホは静かだった。
誰からも連絡はない。
それなのに、やけに重い。
もう“選ぶ”という行為自体が、遠く感じる。
何かを決めるたびに、何かを壊す感覚だけが残る。
――私は、もう疲れている。
そう思ったとき、インターホンが鳴った。
優しい彼だった。
ドアの向こうに立っている彼は、いつも通り優しかった。
「ごめん、急に」
その声を聞いた瞬間、胸が少しだけ動く。
でも、それは“恋”というより“習慣”に近かった。
「話したいことあるって言ったでしょ」
彼はゆっくり頷く。
部屋に入る。
沈黙が落ちる。
その沈黙は、もう昔のようには優しくなかった。
彼が口を開く。
「無理させてたよね、俺」
その言葉で、何かが少しだけ揺れる。
でも、同時に理解する。
これは“終わらせに来た言葉”だと。
「正直さ、ちゃんと向き合ってくれる人といることにしたいと思ってて」
その瞬間、心が静かになる。
驚きも、悲しみも、もう順番がわからない。
ただ、事実だけが落ちてくる。
――ああ、これで本当に終わるんだ。
彼は続ける。
「お前はさ、悪くないと思う」
その言葉が、一番遠かった。
悪くない。
でも、選ばれない。
それだけが残る。
「一緒にいると楽だったし、助けられた」
楽。
助けられた。
その言葉は、恋の言葉ではなかった。
私はゆっくりと頷く。
「うん」
それしか言えない。
涙は出ない。
もう、泣く体力すら残っていない。
彼は立ち上がる。
「ありがとう」
その一言で、すべてが閉じる。
扉が閉まる音。
その音だけが、やけにはっきりしていた。
部屋に一人残る。
静かすぎる空間。
でも、不思議と崩れない。
むしろ、少しだけ楽だった。
スマホを見る。
通知はない。
もう、誰もいない。
その事実が、ようやく現実になる。
――私は、何を選ぼうとしていたんだろう。
ずっと選べなかった。
ずっと迷っていた。
ずっと誰かの間にいた。
でも、もうその場所はない。
ソファに座る。
何も考えない時間が流れる。
その中で、ふと浮かぶ。
あの人のこと。
もう終わった元彼。
でも、不思議と痛みはない。
代わりに浮かぶのは、もっと曖昧な記憶だった。
名前のない時間。
はっきりしない関係。
でも、なぜか笑っていた日々。
――あのときは、こんなに苦しくなかった。
その理由が、ようやくわかる。
あのときは、選ばなくてよかった。
期待しなくてよかった。
壊れない関係だった。
恋愛じゃなかったから、楽だった。
でも今は違う。
ちゃんと好きになって、
ちゃんと期待して、
ちゃんと傷ついた。
それでも。
私はゆっくりと息を吐く。
――これでよかったのかもしれない。
声には出ない。
でも、心のどこかでそう思う。
失ったものは多い。
でも、初めて“自分の感情”をちゃんと見た気がした。
スマホを置く。
画面が暗くなる。
その暗さが、少しだけ優しかった。
もう誰も選べない。
でも、誰かに選ばれる必要もない。
その静けさの中で、ようやく気づく。
――私は、恋に負けたんじゃない。
選べなかった自分と向き合う途中だっただけだ。
夜は続く。
でも、その夜はもう、前ほど怖くなかった。




