表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

錆びた羅針

作者: SuZumin
掲載日:2026/01/29

港町の外れ、古い骨董屋の奥に埃まみれの棚があった。

そこに置かれていたのは、真鍮の古いコンパス。針は赤黒く錆び、文字盤の北を示す文字は半分剥げ落ちている。


お爺さんは、ゆっくりと目を細めて言った。

声は低く、潮風にさらされた木の軋むような響きだった。

「千円でいい。ただな……失くしたものは、戻らん。心の欠片だけ指す。

未練が消えなけりゃ、針は回り続け……いつか、ピタリと」


カイは理由もなく――いや、最近毎晩見るようになった、あの青い目の夢のせいかもしれない――それを手に取った。

故郷を離れて十年。失くしたものは多すぎて、数える気も起きなかった。

でも最近、街に戻り胸の奥に蓋をしていた何かが、疼き始めていた。


家に持ち帰り、机の上に置いた夜。

突然、カチンと乾いた音が響いた。

錆びた針が、ゆっくりと回り始めた。

北でも南でもなく、町の外れ、崖の上に立つ古い灯台の方を、確実に指していた。


翌朝、カイは霧の道を登った。

灯台はもう使われておらず、鉄の扉は錆びついて半開き。

階段を上るたび、古い鉄の臭いと湿った埃の匂いが鼻を突く。

霧の向こうに、夢と同じ青が一瞬揺れた気がした。


灯室にたどり着くと、長い黒髪の女が立っていた。

背中だけが見え、風に髪が揺れている。


「……誰だ?」


カイの声に、彼女はゆっくり振り向いた。

目だけが、驚くほど青かった。海の底のような、深い青。


「……カイ。やっと来たのね」


リナだった。

十年前、カイがまだこの町にいた頃、幼馴染だった少女。

ある冬の夜、彼女は海へ消えた。

事故か、自ら飛び込んだのか、誰も確かめられなかった。

遺体は見つからず、「行方不明」のまま、町の記憶から薄れていった。


コンパスは今も、リナを指し続けている。


リナは静かに、しかしはっきりと告げた。

「私はもう、ここにいるだけ。

体は海の底に沈んだけど、あの夜、最後に見た灯台の明かりに、心の一部が取り残されたの。

あなたが持っているのは、私の『もう一度会いたい』という願いの欠片……そして、あなたの未練がそれを呼び起こした」


カイは喉の奥で詰まるものを飲み込んだ。

「なら、なぜ今になって? 十年も経って」


リナは目を伏せ、かすかに微笑んだ。

「あなたが、私を『行方不明』として片付けてなかったから。

忘れようと努力した日もあった。でも、完全に忘れられなかった。

その小さな火が、ずっとコンパスを動かし続けたの。

……今、あなたがここに来たことで、ようやくその火を消せる」


その夜、カイは灯台の灯室でリナと向き合った。

彼女の姿は透けていて、手を伸ばせば指がすり抜ける。

それでも、二人は昔話をした。


夏の浜辺で拾った貝殻のこと。

冬の夜、灯台の明かりを見ながら交わした約束のこと。

「いつか一緒にこの町を出よう」


カイは声を震わせて言った。

「あの夜、君を止められなかった。

一緒に逃げようって、強く言えばよかった。

……置いていかれて、怖かったんだ」


リナは首を振った。

「違うよ。

あの頃の私は、もう町にいられなかった。

海に飛び込んだのは、逃げたかったから。

あなたを置いて逃げたかったから。

……でも、今は違う。

あなたがここに来てくれただけで、もう十分」


彼女の声は、風のようにかすかだった。

「もう、探さないで。

私はここで、静かにいる。

あなたは、あなたの人生を歩いて」


カイはコンパスを握りしめた。

針が最後に一度だけ、強く震えてから、ぴたりと止まった。


その瞬間、文字盤の中心に、かすれた文字が浮かび上がった。

「ありがとう。さよなら」


文字が現れた直後、リナの姿が霧に溶けるように薄れていった。


カイはそれをポケットにしまい、灯台を後にした。

背後で、霧の中の灯台は静かに佇んでいた。

もう二度と針が動くことはないだろう。


失くしたものは、取り戻せない。

でも、忘れなければ――

海の底で、灯台の影で、胸の奥で、

かすかに、響き続けている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ