錆びた羅針
港町の外れ、古い骨董屋の奥に埃まみれの棚があった。
そこに置かれていたのは、真鍮の古いコンパス。針は赤黒く錆び、文字盤の北を示す文字は半分剥げ落ちている。
お爺さんは、ゆっくりと目を細めて言った。
声は低く、潮風にさらされた木の軋むような響きだった。
「千円でいい。ただな……失くしたものは、戻らん。心の欠片だけ指す。
未練が消えなけりゃ、針は回り続け……いつか、ピタリと」
カイは理由もなく――いや、最近毎晩見るようになった、あの青い目の夢のせいかもしれない――それを手に取った。
故郷を離れて十年。失くしたものは多すぎて、数える気も起きなかった。
でも最近、街に戻り胸の奥に蓋をしていた何かが、疼き始めていた。
家に持ち帰り、机の上に置いた夜。
突然、カチンと乾いた音が響いた。
錆びた針が、ゆっくりと回り始めた。
北でも南でもなく、町の外れ、崖の上に立つ古い灯台の方を、確実に指していた。
翌朝、カイは霧の道を登った。
灯台はもう使われておらず、鉄の扉は錆びついて半開き。
階段を上るたび、古い鉄の臭いと湿った埃の匂いが鼻を突く。
霧の向こうに、夢と同じ青が一瞬揺れた気がした。
灯室にたどり着くと、長い黒髪の女が立っていた。
背中だけが見え、風に髪が揺れている。
「……誰だ?」
カイの声に、彼女はゆっくり振り向いた。
目だけが、驚くほど青かった。海の底のような、深い青。
「……カイ。やっと来たのね」
リナだった。
十年前、カイがまだこの町にいた頃、幼馴染だった少女。
ある冬の夜、彼女は海へ消えた。
事故か、自ら飛び込んだのか、誰も確かめられなかった。
遺体は見つからず、「行方不明」のまま、町の記憶から薄れていった。
コンパスは今も、リナを指し続けている。
リナは静かに、しかしはっきりと告げた。
「私はもう、ここにいるだけ。
体は海の底に沈んだけど、あの夜、最後に見た灯台の明かりに、心の一部が取り残されたの。
あなたが持っているのは、私の『もう一度会いたい』という願いの欠片……そして、あなたの未練がそれを呼び起こした」
カイは喉の奥で詰まるものを飲み込んだ。
「なら、なぜ今になって? 十年も経って」
リナは目を伏せ、かすかに微笑んだ。
「あなたが、私を『行方不明』として片付けてなかったから。
忘れようと努力した日もあった。でも、完全に忘れられなかった。
その小さな火が、ずっとコンパスを動かし続けたの。
……今、あなたがここに来たことで、ようやくその火を消せる」
その夜、カイは灯台の灯室でリナと向き合った。
彼女の姿は透けていて、手を伸ばせば指がすり抜ける。
それでも、二人は昔話をした。
夏の浜辺で拾った貝殻のこと。
冬の夜、灯台の明かりを見ながら交わした約束のこと。
「いつか一緒にこの町を出よう」
カイは声を震わせて言った。
「あの夜、君を止められなかった。
一緒に逃げようって、強く言えばよかった。
……置いていかれて、怖かったんだ」
リナは首を振った。
「違うよ。
あの頃の私は、もう町にいられなかった。
海に飛び込んだのは、逃げたかったから。
あなたを置いて逃げたかったから。
……でも、今は違う。
あなたがここに来てくれただけで、もう十分」
彼女の声は、風のようにかすかだった。
「もう、探さないで。
私はここで、静かにいる。
あなたは、あなたの人生を歩いて」
カイはコンパスを握りしめた。
針が最後に一度だけ、強く震えてから、ぴたりと止まった。
その瞬間、文字盤の中心に、かすれた文字が浮かび上がった。
「ありがとう。さよなら」
文字が現れた直後、リナの姿が霧に溶けるように薄れていった。
カイはそれをポケットにしまい、灯台を後にした。
背後で、霧の中の灯台は静かに佇んでいた。
もう二度と針が動くことはないだろう。
失くしたものは、取り戻せない。
でも、忘れなければ――
海の底で、灯台の影で、胸の奥で、
かすかに、響き続けている。




