第一章「異世界へ」第一節
小説を書くのは今回が初めてなので、不慣れな点もあるかと思いますがご容赦ください。
この作品は、今後週1回前後のペースで投稿していく予定です。更新が前後する場合もありますが、継続してお届けできるよう努めます。
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当たり前の幸せ。
それはいつも、失ってから初めて気づかされる。
時間は戻っては来ないということを知識としては知っているはずなのに、どうして僕は、また後悔するんだろう。
もっと親身に話を聞いてあげれば良かった、あの時なんで気持ちを分かってあげられなかったのかな。
僕はなんで気付かなかったのかな。
賢い人なら、そんな風に今僕が思ってるような後悔をせずに済むのだろうか。
僕は、きっと根っこが愚かなんだ。
悲しみを乗り越えて、自分は強くなったと思った。
だけど、その意気込みがいつしか高慢に変わってゆくのを、僕は黙って見ていた。
いや、見ないふりをしていたんだ。
自分一人の力で克服できたのだと錯覚した。
その油断が必ず僕を後悔させた。
そして今も。
僕の手の平から、零れ落ちる光の粒たち。
その輝きは何物にも代えられない、掛け替えのない僕の宝物だ。
だけど、人は悲しみを忘れることができる代わりに、その輝きにさえ目が慣れてしまうのかもしれない。
僕はそれが当たり前だと思ってしまった。
手のひらに残ったのは、あの光ではなく、僕の黒い涙だった。
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リビングの掛け時計が三時を指していた。
外は家々の明かりもほとんど消えて寝静まっており、部屋の中の音のほうが目立つくらいだ。
冷蔵庫の低い唸りが静けさの底で一定に続く。
ソファの背に畳んだ洗濯物がきれいに積まれており、その横に湊のパジャマと靴下。
視線の先で玄関のドアの隙間から共用廊下の白い灯りが細く差している。
玄関脇の壁には管理会社の連絡先とゴミ出し日の紙が貼られたままで、ここに越してきた頃のままテープの角が浮いていた。
秋が深くなって空気が冷たい。
息を深く吸うと喉の奥が少し乾いた。
陽が昇るまでまだまだ時間がかかる真夜中なのにも関わらず、僕はバタバタと外出の準備をしていた。
洗面所で水を手ですくい、顔を二度叩く。
タオルで押さえて、濡れた髪を指と櫛で整える途中で鏡の中、目の下の影が気になった。
そんなことはどうでもいいはずなのに、指が一瞬そこに触れそうになってやめた。
…もう寒いな。
暖房のスイッチを押してクローゼットのある部屋へ足を向ける。
迷わずいつもの普段着を引っ張り出して着替えた。
えっと、財布持った、実家の鍵持った、薬持った、仕事用の携帯持った。
他には…まあ、こんなもんで大丈夫か。
後、燃えるゴミ。
ポーチの整理を終えるとパンパンに膨れたゴミ袋のヒモを結んで抱えた。
ついでに段ボールの束も掴んでまとめて玄関へ運んでから、息を整える暇もなく体を引きずって次はキッチンへ。
外は相変わらず寝静まっているが、寝静まった住宅街の中でこの部屋の灯りだけがまだ落ち着かない。
控えめな物音が途切れず、一定のボリュームで細く続いた。
…朝の分もできたし、夜ご飯も作って大皿ごと冷蔵庫に入れた。
やっつけではあるけども親子丼なら、湊も笑顔で食べられるだろう。
お風呂掃除と洗濯物は真帆に頼むしかないか。
最悪、洗濯物なら帰ってから乾燥機を回せばいい。
仕事は朝に休みの連絡を入れないとな。
テーブルの上のスマホを手に取って、画面を確かめる。
不在着信が入ってないことに息が抜けて、すぐにまた胸がざわついた。
はあ、来てないか。
寝室に忍び足で入って、多分まだ起きているであろう真帆に、湊を起こさないよう小声で声をかけた。
「さっき言った通りで悪いけど、今日は一日家を空けるよ。
ご飯は作って冷蔵庫に入れてあるから。
洗濯物とお風呂掃除はよろしく。
後、湊は保育園だから送り迎えも。」
「ええ、いってらっしゃい。」
真帆は返事だけして、こちらの顔を確認する気配なく枕元のスマホの画面を見ていた。
よし、これでOK。
もう行こう。
そう思って寝室の扉に手をかけていたのに、布団の端から覗く湊の寝顔が目に入って、次に言わないといけないことが浮かび続けて喋り出した。
「いつも湊と保育園に行くとき、僕が歌を歌ってあげてるんだ。
ほら、僕らが学生の頃流行ってた、サビで『ぱっ』って掛け声が入るやつ。
あそこが来ると湊が笑うんだよ。
だから出来れば湊と一緒に歌ってあげて欲しい。
まあ、運転中に曲を流してくれるだけでもいいからさ。」
「はいはい。」
と食い気味に、布団の奥へ身を引いて背中を丸くしたまま気だるい返事が聞こえた。
これで十分だと思って、僕は扉の外へ足を出したところで床がふっと遠のく感じがした。
息を吸い直して、額の奥を指で押さえる。
——ハハッ。
なんだ…?笑い…声?
その出所が近いのか遠いのかも曖昧ながらに、上ずった音が聞こえた気がした。
耳の奥で音が反響した。
立ち止まったつもりだったが、壁が突然目の前へ現れたみたいに見えて手が間に合わなかった。
ドン。
寝室を出る瞬間、僕の足がもつれて壁に肩を打ちつけた。
鈍い音が部屋に響き、真帆は顔を向けないままだが、スマホを触る手だけが止まった。
数拍置いてから彼女は布団の中で上体を起こし、スマホの光から目を外して、初めて目線を僕の方へ向ける。
「無理してない?
昨日も遅かったし。
…大丈夫?」
心配の形をした言葉なのに、僕の中にそのセリフを受け取ることができる場所は見つからなかった。
視界の端がまだぼやけていて言葉をつなぐのにも体力の消耗を感じる。
壁にぶつけた肩が遅れて痛みを主張してきて、背筋を伸ばすのに一拍かかった。
「ああ、大丈夫だよ。
行ってきます。」
寝室の方に向き直り、奥の方にいる真帆へ空元気でそう答えた時、湊の布団がもぞもぞと擦れる音を立てた。




