勝ち逃げ
一月八日木曜日
耳をつんざく目覚まし時計の音が途切れる。また学校が始まる。四度目の冬休み明け。例年通り「もう学校か〜めんどくせぇ〜」の言葉から始まる。でも今年は本音を言うと、学校が楽しみだった。正月におじいちゃんおばあちゃんの家から帰ってきた次の日から、インフルエンザにかかった。インフルエンザのせいで冬休みはずっと家にいることになり、あんなに大好きなゲームが飽きるぐらいには退屈だった。バターが沁みたトーストに、出来るだけ多くのリンゴジャムを精一杯塗って、思いっきり口に詰め込む。口からこぼれ落ちたベタベタのシロップをティッシュで拭き、まだ原型の残ったジャムバタートーストを牛乳で腹の奥まで流し込む。そんな豪快な朝ごはんを終え、学校にいく準備をする。はち切れそうなランドセルを背負い、肩には底が抜けそうなハンドバックをかける。首にはダンベルほどの重さの水筒をかけ、うす茶色に染まった運動靴を履く。扉を開ける大げさに、大胆に。今から新しい冒険が始まるんだ。楽しくいこうぜ。今日の天気は、これまでの悪天候をかき消すほどの快晴で、快くこの一歩を進めることができる。学校までの道のりを一歩ずつ踏みしめる。進むたびに変わるスピードは、その強弱ゆえに見える景色をドラマチックに飾る。学校に着いた時に感じた思いは、買ったゲームを持って家に帰ってきた時の気持ちに似ていた。
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「宿題やった?」「もちろん。やってない。」「お年玉何円もらった?」「3万円」「最終回見た?」「どっか行った?」「スゲェ〜富豪じゃん。」「見ました。」「答え見せて。」「俺北海道行った。」「ずるっ。」「俺家でゲームしてただけなのに。」会話がぱんぱんに詰まった教室に入っていく。幾つかの目がこちらを見る。「あっ、金二おはよう」「おっす歩!あけおめぇぃ!」「あっ、忘れてた!あけおめ」「冬休みどっかいったか?」「おじいちゃん家ぐらいだよ。あとは塾だったよ」「そうか大変そうだな。」「まぁ将来の為だから。頑張るよ。」「なんだか...格こぅ...」「おぅ〜!金二ィ!久しぶりだな!会いたかったぜぇ〜!」「抱きつくな!近寄るな!気持ち悪い!」「えぇ〜。いいじゃん!親友だろ。」「だとしてもキモいはキモい。」声をひそめる。「金二知ってるか?親友同士はチュウし合うんだぞ。ねぇちゃんの漫画に描いてあったんだ。」「はぁ〜なんだそれキモッ!俺はやらねぇぞ!」「はいはい。本当はやりたいくせに。」「やりたくねぇし。」「ふ〜んそうかなぁ?」「あぁイライラする。いまからドッヂボールやるぞ。」「えぇ〜寒いじゃん。」「お前がキモイこと言ったからだぞ。ボコボコにしてやんや。」「じゃあ。にげるんだよぉ〜。」「あっ!待てよッ。」「はぁーウルセェやつだぜ。」「じゃあ歩!また後で将棋やろうぜ!」「うん。......あっ、言い忘れてた。」
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校区100km^2以上の小学校は、ここに通う子供にとって異文化と異人の巣窟で、生徒一人一人が色濃く写っていたことを今だに覚えている。ご近所さんなんて数えるほどしかおらず、公園に行くのも、友達の家に遊びに行くのも、一種の冒険だった。だから今でもあの学校にいた友達を親友だと信じている。だからこの日のことも繊細に美麗に描き出せるんだろう。あの日の俺はいわゆる古く言うなら餓鬼大将、新しく言うなら陽キャ。そんな運動ができて、友達も多くて、それほど優しいとは言い切れないが、カリスマ性もあり、勉強もできた子供はチヤホヤされていた。「すごいね。」小学校時代によく聞いた言葉だ。人のあまり多くない学校は、そんな威張ったガキへの抑止力になりはしなかった。負けず嫌いじゃなく負け知らずいや正しい言葉を作るなら負け覚えず。そんな負け覚えずの俺は、ずっと一番になりたかった。何かに負けた時には、いつも言い訳をして、自分が負けたことを覆い隠そうとした。マジックのように一度覆って努力してから、勝ったという事実を見せる。まるで負けがまぐれだったように仕立て上げるそんな生き方をしていた。でもその生き方はある男に大きく揺るがされた。小林歩に出会ったのは、小3の夏。夏休み明け、いつものように、当たり前のように自分の席についた。ただ、違和感が脳に引っかかって、ふと辺りを見渡した。違和感の正体は、一つ増えた席。モヤモヤした感情を胸に、一人一人入ってくるクラスメイトを見つめながら、やっとのことその誤差に気づいた。恥ずかしそうに、新しい席に座る彼は新鮮だった眼鏡でチビ。そんな人種はどこにでもいるはずなのに、子供ながらに彼の芯に何かを感じた。彼が転校してきた2ヶ月後ぐらいに、将棋ブームがやってきた。
外も寒くなってきて、遊ぶのが嫌になってきた時に、誰だったけな、あ〜そうだ小坂が、突然家からでっかい将棋盤を持ってきた。きっと小坂は冗談で持ってきたんだと思うが、その日からみんながこぞって将棋で戦い始めた。元々頭が悪い学校ではなかったから、みんなそれなりに強かったから将棋の流行はかなり白熱したものになった。当時クラスの中で幅を利かせてた俺は、自分の強さを見せつけたくて将棋大会を企画した。その大会にはいつも輪に入らない歩も参加してきた。圧倒的だった。誰もが、序盤からもう勝てないとわかった。みるみる刈り取られていく自分の駒の多さに気づく前にもう王の首に剣は突き立てられていた。圧倒的な敗北に、頭の中は真っ白になる。確信した理想と信じられない現実の間で心は軋み、「負けました」と呻き声が口から漏れ出ていた。それが初めて自分から認めた負けだった。その時から歩とは仲良くなった。肩を並べるライバルとしても、凹凸を埋めあえる仲間としても、関係値を築いて行った。そしてあの日に辿り着く。
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毎週金曜日の昼休み、誰もいない教室で、俺たちは身につけた知識と技術を持ち寄り、盤上でそれらを戦わせていた。それは勝つか負けるかではなく、自分の理想に打ち勝てるかどうかだった。だから勝っても悔しがったり、負けても満足したこともあった。だからこそこの日のことはよく覚えている。
2021年1月8日金曜日。いつもは味を噛み締めながら食べる給食も胃に直接流し込むように消費されていく。食事が終わり、教室の後ろの将棋盤と駒の入ったジップロックを引っ掴む。おもいっきり振り向くと、やっとのこと最後の肉じゃがを口に詰め込めた歩と目が合う。ジャガイモで膨らんだデコボコした顔を見て、吹き出すと向こう側もつられて、頬張りながら肩だけ振るわせる。いつも休んでいる小高のテーブルと歩のテーブルを向き合わせ並べる。その上に将棋盤を音の鳴らないようにソッと置く。椅子に座り駒を並べ、そのまま流れるように歩を進める。駒で将棋盤を叩きつける音は、決して一定ではないがそれまでの間をドラマチックにトリミングしていく。流れていく情景と重なりうねる音響の中、頭を渦巻く雑念も張り詰められた思考も何度も重なりあい凪になる。勝ち負けではなくただ、この時間が流れていくことが心地良かった。だから終わって欲しくなかった。終わってしまうのが怖かった。でもわかっていた。そこだけは聡かった。開きかけた口と、少し神妙な顔付きだけで察した。「実は転校するんだ。」その言葉を聞いた時には、もうすでに心の整理をつけていた。今思い返すとぐちゃぐちゃなままの心を戸棚に詰め込むようなものだった気がする。外面だけの「えっ‼︎そうなんだ。そうか、じゃあ寂しくなるな。」なんて字面を条件反射で吐き出す。その声に力は無く、何の意味もなかった。「どこに引っ越すんだ?」震えを抑えながら駒を動かす。「東京だってさ。」駒の鳴らす音の響きが次第に明瞭になる。「何で転校するんだ?」背中をどこから出たかも分からない汗が下っていく。「仕事なんだって。」「そうか。」「うん。」時計の音が何度もハウリングしていた。
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自分の部屋に辿り着き、ベッドに倒れ込む。並んだ漫画の背表紙を眺め、布団からはみ出した足をモゾモゾさせる。目を細め、瞼の裏に映った心模様を今も鮮明に覚えている。




