【短編小説】カレーパン道
手に持っていたパンを握り潰すと、茶色いものが溢れ出た。
ぼたり、ぼたり。
床に落ちていくその茶色いシミを見ながら、おれは深いため息をついた。
やはり、ここも駄目だった。
「な、なぜ……」
白い調理服を着た店長が膝をついて斃れた。
パンと言うのは小麦の旨さを味わうものだと思っている。
おれ自身はパンを練らないし練ったこともない、練るつもりも予定も無いのでただ喰うだけに過ぎない。
だが旨いパンと言うのはやはり小麦が旨いのだ。
一時期に流行した高級パンは、単に白砂糖が大量に入った甘いだけのパンだった。
あれが高級だの旨いだのなんだのと言われていた理由が分からない。
分からないが、その店は殆どが今や空き店舗になってしまった。
当たり前と言えば当たり前だろう。あれは小麦やパンが美味かったわけじゃない。
パンは繊細だ。パンと言うより小麦は繊細だ。
調理パンになった途端に、小麦が本来もっている旨味を曖昧にしてしまう。
米だとそうはいかない。
同じ主食でも、米の圧倒的な存在感に惣菜が勝てないことがある。
不味い米はどんなに味の濃い惣菜ですら、不味いと感じさせるのだ。不味い飯屋と言うのは、米が不味い。
しかしパンはそうでは無い。
惣菜の持つ味に、繊細な小麦の旨さが負けてしまう。
つまり惣菜パンはもはやどんな小麦でも良いのだ。惣菜さえ旨ければ良い。
ジャム、たまご、ハム、ソーセージ。
いちじくと胡桃のパンだって、もはや小麦の味なんて感じられやしない。
そしてその最たるものがカレーパンだ。
おれは床に横たわる店長に訊いた。
「お前はカレー屋か、パン屋か、どちらだ」
手に付着した油を店長の白くて長いコック帽で拭いたが、石鹸で洗わないとベタベタとした汚れは落ちそうにない。
店長は息も絶え絶えに答えた。
「わ、わたしはパン屋……」
「なら何故!なぜカレーに拘る!貴様は誇り高きパン屋なのだろう!なのに何故そこまでカレーパンに拘るのだ!」
売れるからだろ?
カレーパン、それはもはやパンでは無い。カレーを持ち歩くための袋に過ぎない。
パンは、小麦は、カレーを食べる為の器に成り下がったのだ。
そしてカレーはカレーでしかない。
カレーは不味くなり得ない。だが旨さの想像を出ることも殆ど無い。
それはカレーの宿命だ。
そしてそのカレーを包んで揚げただけのカレーパンは、旨さの上限を越えることができない哀しい存在なのだ。
這いつくばったまま答えない店長のコック帽を蹴り飛ばして怒鳴る。
フワフワと転がる帽子にすら腹が立つ。
「お前は単に売れるからカレーパンを作っているに過ぎない。カレーパンのついでに他のパンも買って貰おうとしている、そんな哀れなパン屋に成り下がったのだ」
おれは握り潰したカレーパンを店長の顔に塗りたくった。
「これがお前の怠惰さそのものだ」
店長は呻き声を上げて抗議するが、帽子を失った店長はもはやただのおじさんだ。
ただのおじさんに、ただのおじさんが詰られている。
そう、おれはただのおじさんだ。
いかに小麦を愛しているからって、何の資格もないおじさんだ。そしていま、自身の怒りをコントロールできなくなりつつあるおじさんだ。
「いいか、お前はパン屋だ。パン屋であってカレー屋では無い。パン屋である以上は、カレーと言う闘争領域においてカレー屋には勝てない。だからカレーパンなんぞにかまけていないで、美味いパンを練るのだ」
良いな?今後はカレーパンなぞ作るんじゃあないぞ。
おれは床に転がったコック帽を拾い上げ、店長の頭に載せてやった。
店長は微かに頷いたように見えた。
そうだ、それで良い。
おれは店に残されたすべてのカレーパンを食い尽くした。
小麦を無駄にするなかれ。
そしてそれは、店長に対するせめてもの餞だ。
パン屋を出たおれはポケットに入っていたシナモンスティックを咥えると、店長の言葉を思い出していた。
「お前は……まだ……本当のカレーパンを……いや、カレーを知らない……行け!ほんたうの幸ひを探しに!……お前の闘いはまだ…………始まった……ばか………………り………………」
笑わせてくれる。
おれがまだカレーを知らない、だと?
なら証明してやるまでだ。
おれこそがカレーであり、おれこそがカレーであると。
サフラン色の嵐が吹き抜ける道を、おれはいま歩き出す。




