物語の向こう側
黒森は壁に背中を預けて、ずるずると階段に座り込んだ。今まさに、敵の目を掻い潜って逃げているところだったらしい。
みちるが男たちに連れてこられたことを話すと、ため息をついて項垂れる。
「女の子も捕まえた、って聞いて、まさかとは思ったけど……やっぱお前だったか。うちの前でぶつかった時、俺のノートを持ってっちまったんだろ」
「そうなの……ごめんなさい」
「なんだよ。お前は巻き込まれたようなもんだろ? どっちかってーと、謝るべきなのは俺の方……」
そこまで言いかけて、いや待てよ、と首を傾げる。
「やっぱ、俺みたいなのを追い回してたお前が悪いのか? ってゆーかそもそも、お前は誰で、俺に何の用なんだよ」
その言葉に、待ってましたとばかりにみちるが目をキラキラさせた。なんだか吐き気も頭痛も気怠さも、みんな吹っ飛んでしまったような気がする。単に興奮しているだけかもしれないが。
「わたし、白藤みちるっていうの。あなたを追いかけてたのは、あなたにお礼が言いたかったから」
「お礼?」
笑顔のみちるとは対照的に、訝しむような顔で聞き返す。
「ね、覚えてるでしょ? 『夜空の騎士』のこと」
その単語が出た途端、彼は驚愕の表情を浮かべた。目が見開かれた後、何か迷っているように視線が泳ぐ。
やがて、黒森は慎重に口を開いた。
「逆に、なんでお前は知ってんだ?」
その答えが、彼が『夜空の騎士』を覚えていることを物語っていた。
みちるは嬉しくなって続ける。
「病院。あなた、入院してた妹さんにあのお話を読ませてあげてたんでしょ? わたしも同じ病院に入院してて、その時にノートを見つけて読んだの!」
「マジかよ……捨てたと思ってたのに、病院に残ってたのか」
額を押さえてぽつりと呟いた声は聞こえなかったらしい。みちるは弾んだ声で捲し立てる。
「あのね、あのお話、とっても面白かったんだけど……でも、それだけじゃないの。誰も信じてくれないけど、本の中から主人公のアトスさまが出てきて、わたしに力を貸してくれたんだよ!」
「……なんだって?」
「だから、本からアトスさまが出てきたの。そんでね、アトスさまとゆーごーってのをして、力を分けてもらったの。だから、怖くてたまらなかった心臓の手術を受けられたんだよ!」
みちるの熱弁を、黒森は黙って聞いている。
「それにね、今だってゆーごーしてるんだよ。だから敵をばったばったと倒して、ここまで来れたってわけ!」
「んなバカな……」
ほんとだもん、とみちるは頬を膨らませる。
「だから、アトスさまの物語を作ってくれたあなたにお礼が言いたくて、あなたを探してて……そういえばあの時、黒森さん、アトスさまの方を見て驚いた顔してたよね。やっぱりアトスさまのこと、見えて……」
しかし彼の反応は、みちるとは真逆のものだった。
「もうやめろよ、その話は」
飛び出したあまりにも冷たい声に、みちるは思わず口をつぐむ。
「え? でも」
「あの頃のことは、思い出したくない。あんなくだらないもの書いて……ちょっとした気の迷いだったんだ」
「くだらない!? なんでそんなこと言うの?」
黒森はみちると目を合わせない。
「そりゃあの時は、楽しく書いてたけどよ。でも妹の病状は悪くなるばっかりで、医者にも、今の医学じゃどーにもならない、なんて言われて……なんの薬にもならない物語なんか書いてる場合じゃない、俺がなんとかしてやらないと、って思ったんだ」
「その時に誘われて、この組織に入ったの?」
「ああ、高校生の頃だった……バカだよな。どう考えたっておかしい話なのに、藁にも縋る思いで、平気で悪いことするようになって……嵌められた、って気づくのに時間がかかりすぎちまったんだ。気づいた頃にはもうすっかり囲い込まれて、逃げられなくなってた」
バカだよな、ともう一度言って、乾いた声で笑う。
「で、でも。黒森さんが書いたお話が、無意味だったなんて、そんなこと……」
「お前さ。アトスさまに助けてもらった、なんて言うけど……結局、手術さえ受ければ治るような病気だったってことだろ?あんな、なんの意味も価値もない妄想……あってもなくても何も変わらない」
「…………」
黙り込んでしまったみちるに、黒森はぐしゃぐしゃと髪をかき乱して悪態をつく。
「俺もバカだけど、お前もバカだよ。あんなくだらないのをわざわざ見つけて、こんなとこまで来てさ……ほんと、ちゃんと処分しとくんだった」
「……それじゃ、物語の続きは?」
「ねぇよ、んなもん」
そこまで言うと、この話はおしまい、と手をひらひら振った。
「まあとにかく、俺はなんとかして外に出られそうなとこを探すから、お前も一緒に……」
言葉の続きは、どさっと大きな音に遮られた。俯いて床を見つめていた顔を上げると、さっきまで饒舌だったみちるが、彼の目の前で倒れ込んでいた。その目はぼんやりと虚ろで、呼吸は荒い。
「お、おい! どうした!? しっかりしろ!」
肩を叩くが、反応がない。
しかも最悪なことに、みちるの返事の代わりに、二人の男の声が踊り場に響いた。
「あ! 黒森です、女の子も一緒ですよ!」
「よっしゃ! 俺らで捕まえて、ボスに献上だ!」
声の降ってきた方を見上げると、踊り場の上に二人組の男がいた。彼らは黒森たちを見つけると、ドタバタと階段を駆け下りてこちらへやってくる。二人ともそれぞれ、手に凶悪な武器を握りしめていた。
「金本、それに小野田……!」
黒森は舌打ちして、大慌てでみちるを担ぎ上げると、急いで下の階へ下りる。
封鎖されている1階を通り過ぎ、地下1階へ。その廊下からも人の気配がして、さらに下、最下層の地下2階へと飛び込む。
地下2階と階段室とを隔てる扉を勢いよく閉めると、その辺に乱雑に放置されていた事務机を必死で動かして、即席のバリケードを作る。すんでのところで侵入を阻まれた二人組は、ゴンゴンと音を立てて扉を殴ったり蹴飛ばしたりし始めた。
「おいコラ、開けろ黒森!」
「んなとこ逃げても無駄だぜ!」
バリケードにした机が、ガタガタと揺れている。そう長く持ちそうにない。
抱えたみちるは荒い息を繰り返し、時折苦しそうな声を上げている。
「あーあ……」
あちこち破れてボロボロのソファを見つけると、埃を払ってみちるを横たえ、自らも座り込んだ。
「悪かったな、こんな結末にしかならなくて」
黒森はみちると、それからもう少し目線を上げ、その傍に立つ男に苦笑して、ぽつりと呟いた。
「なんだ、やはり見えていたのではないか」
みちるが倒れて、融合が解けたらしい。不機嫌そうに黒森を睨むアトスに、黒森はもう一度、ごめんと謝る。
「なんでもいい。とにかく、早くみちるに薬を飲ませてやってくれ。私一人では、そうしたくてもできない……」
しかし黒森は首を左右に振った。
「もう無理だよ。こんなとこまで追い詰められちまって……俺もコイツも殺される。今追ってきた二人だって、釘バットだの斧だの振り回してるんだぜ?」
力なく項垂れ、嘆きの言葉を続ける。
「俺は、もともと物語とか書くの好きで……妹の愛美も、喜んで読んでくれてた。真っ当な生活して、物語を書いて……俺の妄想であるお前とも、よくこうして話してたな。でももう、あの頃の俺には戻れなくなっちまった」
遠い目をする先で、積み上げた机がガタガタ揺れている。
「騙されてることにも気づかず、愛美のためだ、って自分に言い聞かせて……夢中で悪いことしてるうちに、あいつ、悲しそうな顔して死んじゃったよ」
アトスは何も言わない。
「年甲斐もなく無意味な妄想垂れ流してた兄貴がよ、暗い世界に片足突っ込んだと思ったら、そのまま帰ってこなくなった、なんて……ほんと、情けねぇ話だよな。結局アイツに、何もしてやれなかった」
ドカドカと、扉を叩く音が激しくなる。蹴飛ばして黒森を怖がらせるのに飽きて、道具を使って扉を破壊し始めたらしい。
バキ、と扉に亀裂の入るような音が響いたところで、アトスがずっと閉ざしていた口を開いた。
「私には、君から溢れて止まらなかった絵空事が、無意味なものだったなんて思えない……いや、私がそう思いたくないだけかもしれないが」
扉の向こうの騒がしさをものともしない、凛としてよく通る声だった。
「マナミは、君が病室にやってきては自作の物語を読ませてくれるのを、本当に楽しみにしていた。私を作り出した君や、豊かな想像力を持つミチルが、私をこちらの世界に呼び出したように……あの子も、私と話をすることができた」
彼の言葉に、黒森がのろのろと顔を上げる。
「君は私の世界から遠ざかっていったが……私はずっとマナミのそばにいて、話し相手になっていた。当然、病そのものを治す助けになんかなれなかった。しかし君によって生み出された私という存在は、私の生まれた世界は……確かに、あの子の心の慰めになっていた」
それに、と膝をついて、ソファに横たわるみちるの頬を撫でる。
「ミチルだってそうだ。君の物語があったから、この子は今、ここにいる」
黒森は鼻で笑って、その言葉を否定した。
「なに言ってんだよ。この子が生きてるのは、愛美よりずっと軽い病気で、運がよかったからなわけで……」
「ミチルは幼い頃から体力に乏しく、体が長時間の手術に耐えられるかもわからなかった。大掛かりな手術で、成功の確率もあまり高いとは言えない。眠りについたが最後、もう目覚めない可能性だってあった……それでも、ミチルは逃げずに立ち向かった」
「そ、それは」
口を挟もうとした黒森の言葉を遮って、アトスが続ける。
「君が紡いだ物語が、死の恐怖に立ち向かう力、ミチルが命を繋ぐ力になった。君は、それほどの力を持っているんだ。どうして、それがわからない……」
どこか寂しそうな声で、アトスが嘆く。
黒森も彼に倣って、みちるの額にそっと手を置いた。
「……俺が」
その額は熱を帯び、頭突きをした跡が腫れてどくどくと脈打っている。
黒森の手のひらに、その脈動が伝わってくる。生きている者の持つ熱が、今失われようとしている熱が、手のひらを介して全身へ伝わってくる。
「……もっと騎士団長アトスさまの活躍を読ませてやってたら、なんか変わってたってか? 今頃、アイツは薔薇色の人生送ってたってか?」
まさか、と自分の言葉に首を振る。
そして、目の前で確かに息をする少女に尋ねるように、言葉を続けた。
「でも……そしたら最後に、あんな悲しそうな顔させること、なかったのかもしれねぇな……」
そんな嘆きに重なるように、いよいよ地下2階の扉が破られた。バリケードにした扉がひしゃげて弾き飛ばされる。
「手間かけさせてくれちゃって」
「ほんとほんと」
男二人がこちらへやってくる。
黒森はみちるを庇うように立ち上がると、背後のアトスに声をかけた。
「なあ。お前、この子と融合してここまで来たんだって?」
「そうだ」
いきなりわけのわからないことを言う黒森に、二人とも首を傾げた。しかしそんなことお構いなく、黒森とアトスは言葉を交わす。
「ミチルの持つ、限りない想像力のなせる技だ」
「……それ、俺にもできるかな」
アトスは口元を緩ませた。
「それくらい、できてもらわなきゃ困るさ。なんせ私は、君によって生み出された存在なのだから」
「……それもそうか」
黒森は目を閉じ、落ち着いて呼吸をした。すぐそばにいる騎士の、その細身のシルエット、濃紺の隊服の衣擦れ、そしてサラサラの長髪が触れ合って奏でる微かな音まで、詳細に感じ取る。
「さっきからごちゃごちゃ、何言ってんだ!」
男の一人、金本が飛びかかる寸前、黒森はカッと目を見開いた。その時にはすでに、彼は高潔無敵な騎士団長の精神を魂に宿していた。