廃屋に囚われて
床にも壁にも無数のひび割れが走る、薄暗く素っ気ない部屋。あたりには何脚かのパイプ椅子が乱雑に放り出されていた。あちこち欠けた長机や錆だらけのロッカーもあり、物置か更衣室を思い起こさせる——
——そんな埃っぽい部屋に横たわっていたみちるは、床から体へ伝わる湿った冷たさで目を覚ました。
「……ここ、どこ?」
「気がついたか」
その聞き慣れた声がして少しホッとし、起きあがろうとして失敗する。そこで初めて、自分が縄で手足を縛られていることに気がついた。
「アトスさま……なにこれ、どーなってるの?」
「うむ。さっきの男たちに連れてこられたらしい」
そう言うと、アトスはがっくりと肩を落とす。
「なにかとんでもないことに巻き込まれてしまっているらしい……ああ、やはり来るべきではなかった。なんとしても、君を止めておくべきだったんだ。なのに、私が……」
項垂れ落ち込むアトスに、みちるは軽く答える。
「何言ってるの、アトスさまが責任感じることないよ。わたし、きっと止められても強引に行ってたと思うし。今何が起こってるのかわかんないけど、きっとなんとかなるよ! 誰か来たら、ワケを聞いて、この縄ほどいてもらって……」
「ほんとにそうしてもらえると思ってんのか?」
突如小部屋に響いたガラガラ声は、おめでたいガキめ、と続ける。乱暴な物言いでそう返したのは、当然アトスではなかった。
「誰!?」
縛られた状態で、なんとか上半身を起こして振り返る。小部屋の入り口に男が立っていた。港で追い回してきたのとはまた違う、大柄な男だ。
「かわいー子だって聞いたから、見張りがてら覗きに来てみたけど。独り言ばっかのヤバいガキじゃねぇか」
誰、という問いには答えず、一方的に言ってニタニタ笑う。
みちるは気持ち悪い笑顔の男を睨みつけた。
「あなたたち、なんなの? なんでわたしをさらったの? 黒森さんはどうしたの?」
「ミチル。こんなわけのわからんヤツを相手に、そんな強気な物言いは……」
逸るみちるをアトスが宥める。しかし彼女は、男から目を逸らさない。
男はそんなみちるに構わず、皮部分の破れたパイプ椅子にどっかと座り、楽しそうに彼女を見下ろした。
「まあどうせお前は始末するんだから、教えてやるか……黒森、あいつはな、俺たちと一緒になっていろいろ悪いことしてたんだぜ。泥棒したり、人を騙したり、ヤバい薬運んだり」
「そんなの嘘!」
みちるが短く叫ぶ。アトスは神妙な面持ちで男の言葉に耳を傾けている。
「嘘じゃねぇよ。そんでこれから、アイツにもっとデカい仕事をやってもらおう、ってことになってたんだが……アイツ、急にビビって国外へ逃げようとしたらしくてな。だから俺ら、裏切り者に罰を与えるべく、アイツを連れ戻したんだ」
「バツ……」
「ああそうさ。組織を勝手に抜けようとした罰だ。殺して山に埋めるか、東京湾にでも沈めるか」
青くなるみちるに、男は歪んだ笑顔で続ける。
「お前をここに連れてきたのはな、アイツが持ってた闇取引の情報を盗み見たからだ」
「……あ、あのノート!」
思い当たるところはあったが、盗み見た、という表現には納得いかなかった。
「別に、盗んだわけじゃないもん。間違って持ってきちゃっただけだもん!」
「なんだっていいさ。とにかく、あんなの見られたからには、お前も黒森と一緒に消さなきゃならねぇ。ってなわけで、お前をここに連れてきたわけよ。お前を追ってた連中は、なんか苦労させられたって言ってたけど……こんな小娘相手に、何を手こずったってのかねぇ」
小馬鹿にする男に、みちるは気丈に言い返す。
「わたし、まだまだあなたたちのこと、手こずらせてあげられるんだから。アトスさまと一緒に、こんな縄すぐほどいて、黒森さんも助けて、それから……」
「またわけわかんねぇこと言ってるよ」
呆れてため息をつく男だったが、部屋の外から別の仲間に呼ばれ、パイプ椅子をギシギシ言わせながら立ち上がった。
「お前の荷物は、俺らでもう回収させてもらったから。まあ殺されるまでもうちょっと、一人でおしゃべりしてろよ」
たしかに男の言う通り、肩から提げてきた鞄がなくなっていた。
男は言い捨てて部屋を出ると、やってきた仲間と話し始めた。なにやら緊急事態らしく、駆けてきた仲間は荒い息を必死で整えている。
「なに、黒森が逃げた!? 何やってんだよ、さっさと探せ! ボスにどやされる……!」
男もさっきのヘラヘラした様子とは打って変わって、緊迫した声で怒鳴ると、仲間を伴って部屋の外へと駆けていった。薄暗い小部屋に、再び静けさが訪れる。
「大変……早くなんとかしなきゃ、黒森さんが殺されちゃう」
いろいろとショックを受けたせいか、視界がぐらりと歪む。
「それに、わたしも……」
みちるの呼吸が浅くなる。息のしづらさが、もはや誤魔化せないものになっていく。
横たわったままのみちるの傍に、アトスが膝をついた。
「ミチル。もう一度私と融合しよう。私の技があれば、こんな縄くらいすぐに抜けられる。荷物を取り返して、すぐにここを出よう」
「そうよ、鞄! あれには黒森さんのノートだけじゃなくって『夜空の騎士』も入れてたんだ……取り返さなくちゃ、わたしの宝物だもん」
「そうじゃない。あの荷物の中には、君の薬が入っている。捕まったせいで、最後に飲んでから随分時間があいてしまった……早く飲まないとまずい」
そう言われてようやく、気怠さの正体に気づく。単なる混乱のせいでなく、確実に体調へ変化が現れ始めているのだ。
「薬、飲まないと、どうなるんだっけ……?」
どこかモヤがかかったような脳でぼんやりと考える。
「君の体は、まだ完全に健康とは言えないんだ。薬でなんとかしないと、このまま放っておいたら高熱で倒れてしまう。そうなったら……アイツらに殺されるより前に、死んでしまうことだって十分にあり得る。逃げ延びて助かったって、対処が遅れたせいで、どこか悪くしてまた入院……もう病院から出られない、なんてことも考えられる」
なんとかみちるに体を起こさせて、目線を合わせる。
みちるはその、星が揺らめく夜空のような瞳をじっと見つめた。
「……アトスさま」
「心配はいらない。薬を飲んで、すぐにここから出よう」
「黒森さんは?」
「…………」
彼は重々しく口を開く。
「……最優先すべきは、君の安全だ。命がかかっているんだからな。生憎だが、マコトを気にかけている場合ではない」
「死ぬかもしれないのは、黒森さんだって同じだよ! それに……アトスさまだって、ほんとは心配なんでしょ? このままにしとくなんてできないよ!」
アトスは唇を噛んだ。王国最強と謳われた騎士が見せるにはどこか情けない、泣き出しそうな顔だった。
「わかってくれ。ここで無茶をして、君になにかあったら。あの連中に殺されてしまうようなことになれば……私は、生み出された意味、今ここに存在する意味を……失ってしまうようなものだ」
慎重に言葉を紡ぐ、その赤く形の良い唇が震えている。
「それに、マコトはもう、私の知っているマコトでは……」
「わたしはね」
みちるの細い鈴のような声が、彼の震えた声を遮った。縛られぺったりと座り込んだ状態で、傍に膝をつく彼に寄り添う。その胸に近づけた耳には、確かに彼の心臓の音が聞こえた。
「わたしの命は、あなたがいたから、今この時まで繋がったの……だからこそ、これからもずっと、後悔しないで生きていきたいの。ずっとずっと、あなたと一緒に」
みちるは顔を上げると、アトスの白い頬にそっと口付けした。
彼は一瞬目を見開いた後、諦めたように微笑んだ。
「わかった。私は君の騎士として、役目を果たそう。私の持てる全ての力を、君に捧げる」
そう応えて、みちるの頬にキスを返した。
二人は目と目を合わせて頷いて、呼吸を一つにする。
目を閉じ、そして開いたみちる、その眼差しは三日月のように鋭く研ぎ澄まされていた。
体は依然として気怠いが、どこか息がしやすくなったような気もする。
「……行こう。生きてここから出なきゃ。黒森さんも一緒に!」
みちるはするんと縄を抜けると、足音も立てずに小部屋を飛び出した。