港の追いかけっこ
そして翌日、父親も仕事に出かけた後、みちるは家を抜け出して港へと辿り着いた。客船がたくさん停まった大きな港を歩き回り、なんとか手帳に書いてあった目当ての船を見つけ出すと、乗船口へと近づく。
乗り込む人間を近くでひとりひとり見ていれば、すぐ黒森を見つけられる——と考えていたみちるだったが、目論見が甘かったと気づく。港は彼女が想像していたよりずっと多くの旅行客で賑わっていた。
きょろきょろと辺りを窺っていると、船の係員に訝しまれたので、物陰に移動してそっと乗船口を見つめる。
「うーん、もうそろそろ来ると思うんだけどな」
こっそり持ち出していた父親の双眼鏡を覗き込む。アトスは双眼鏡を初めて見るらしく、みちるの後ろで興味深そうにソワソワしている。
「それ、どのくらい見えるんだ?」
「すっごいよ。ずーっと向こうに停まってる車のナンバーも見えちゃう……あ、黒森さんみーつけた! なんかキョロキョロしてるみたい」
「ちょっと、私にも覗かせてくれ」
「待って、もうちょっと……」
「ずるいぞ、そんな面白そうなものを一人で。なあ、私にも……ん!?」
みちるの背中から、なんとか覗き込めないかと頑張っていたアトスだったが、途端に動きを止めキョロキョロと辺りを窺う。彼はその優れた騎士の勘で、港に蠢く怪しい気配を感じ取っていた。
「ミチル。一度ここを離れよう。どうやら我々は、何者かに……」
「あーっ!!」
アトスの言葉は、みちるの短い悲鳴にかき消される。
「び、びっくりした……なんだ、どうした」
「黒森さんが、男の人に連れていかれちゃった! 無理やり引っ張られてったように見えたけど……船、乗らないのかなあ」
「男に連れていかれた?」
興奮気味のみちるを宥めて尋ねる。
「うん。スーツ姿の男……あの角曲がって、見えなくなっちゃった」
双眼鏡から目を離して、あっち、と港のはずれを指差す。
「スーツの男、か……私たち、というかミチルも、その男の仲間に目を付けられているらしい」
「え?」
アトスはきょとんとするみちるの耳元に顔を寄せ、怪しい影について小声で教える。もっとも、追っ手にアトスの姿が見えるとも思えないので、わざわざ小声になる必要もないのだが。
彼の言葉に耳を貸したみちるは、目を丸くして慌てふためいた。
「ど、どーしよう? 悪い人なのかな。黒森さんも、嫌がって暴れてるように見えたし……」
「私に考えがある」
アトスは再びみちるの耳元に顔を近づける。彼の提案に、みちるは一瞬驚いた後、神妙な表情でこくりと頷いた。
◆
物陰に身を潜め、人混みに紛れるようにして再び通りに出る。少し辺りに視線をやると、スーツ姿の男を視界の隅に見つけることができた。
——わたしをつけてたの、あの人だ。
どこにでもいるような風貌の男だったが、どこか異様な目つきと雰囲気を宿していて、すぐにそれとわかった。
様子を窺いつつ、人混みを縫ってその視界から逃れる。
鋭い勘と、軽快な身のこなし。今のみちるにはそれらが完全に備わっていた。
「やっぱりアトスさまって、ものすごい騎士なんだね」
いつもの癖で思わず話しかけるが、答える声はない。みちると融合しているためだ。
アトスの魂をその身に宿すみちるは、軽やかに人混みを通り抜けていく。このまま彼に言われた通り、一旦ターミナル中央の大きな案内所まで行く、つもりだったのだが——
——もうひとり、いる。
異様な視線に気づいて立ち止まる。もう少し離れたところで、別の仲間もこちらの様子を窺っているらしかった。
しかしアトスと融合したみちるは、怖いものなしといった感じで、どこか楽しげに港を駆け抜け追っ手を翻弄する。
自らをつけ回す男たちを揶揄うかのように、船をバックに写真を撮ろうとしている家族に声をかけシャッターを押してやったり、泣いている迷子を母親のもとへ連れていってやったり、女性客の財布をスッたコソドロから、鮮やかに財布を取り返してみせたり。鼻歌混じりで振り返れば、追っ手の二人は肩で息をして、見失ったみちるをキョロキョロと必死で探しているところだった。
次、あのツアー団体に紛れてしまえば、完全に彼らをまくことができる——と思った時だった。
「あーっ!」
みちるは軽やかな足取りをぴたっと止め、目を輝かせた。港の片隅に、誰が用意したのか白い皿にこんもりと盛られた餌を、どこか優雅に食べる猫の姿があった。猫は完全に人慣れしているようで、港の喧騒をものともせずに食事を楽しんでいる。
「猫ちゃんだー! かわいー!」
無邪気に、しかし猫が逃げ出さないよう、忍び足でそっと近づく。
そんなみちるの明るい声に、水を差すような声が重なった。
「おい、今はそれどころじゃ……って、あれ?」
声の主は自ら発した言葉に、ハッと我に返る。その言葉を耳にして、猫に心奪われていたみちるもようやく現状を思い出した。
「あれ!? アトスさま。わたしとゆーごーしてたんじゃないの? なんでここにいるの?」
融合しみちると一体化したはずの彼が、今は彼女の目の前にいる。
アトスは呆れ顔で額を押さえた。
「猫のせいだ。我々が融合するには、君の高い精神力と集中力を要するのだ。それが、猫に気を取られて、集中力が途切れたものだから……」
「そっか……ごめんなさい」
猫が項垂れたみちるに近づいて、その手の甲をぺろぺろと舐める。みちるはその頭を一撫でして、気合を入れ直した。
「とにかくまたゆーごーして、あの人たちから逃げなきゃ。えーっと、今度こそ集中して、目を閉じて……」
なんとか心を落ち着かせようとするみちるだったが、どうもそんな余裕ないらしいということに気がつく。
「あわわ、あの人もうあんな近くに……!」
視界の隅の男が、再びみちるの姿をとらえたらしく、いつのまにかその距離をかなり縮めていた。もう少しで追いつかれてしまいそうだ。
みちるはくるりと猫に背を向け走り出す。しかし先ほどまでのように軽やかに、とはいかなかった。
人の多い通りを、ぜーぜー息を切らしながら、バタバタと走る。
「さっきは、飛べそうなくらい軽く走れたのに」
「体の使い方が違うんだ。こんなに全力で走ってはいけない、体への負担が大きすぎる。一度休まないと……それになんだか、人気の少ない方へと追い込まれているようだ」
「そ、そんなこと言ったってぇ……もうそこまで来ちゃってるよ」
同年代の少年少女よりはるかに乏しい体力が、今にも尽きてしまいそうだ。
息が切れて、思わず膝に手をついて立ち止まった時だった。
「さっきから、一人でなにブツブツ言ってんだ」
男の声がした。思わず振り返るが、後ろから追いかけてくる男とは、まだ少し距離がある。声はもっと、近いところから聞こえてきた。
「ミチル、前だ!」
「え?」
アトスの言葉に振り返った時には、もう遅かった。
さっきもう一人いた男の仲間が、いつの間にか回り道をしてみちるの行く手に潜んでいたらしい。
「あ……」
黒いスーツの男がほくそ笑む。大声をあげようとしたみちるだったが、喉が凍りついてしまったように、掠れた声が出るだけだった。
「ミチル……!」
男が伸ばした手に捕らえられ、みちるは人影のない倉庫の裏へと引きずり込まれる。口元に何か布のようなものを押し付けられたかと思ったところで、みちるの視界は暗転し、その意識がぷっつりと途絶えた。
ぐったりとするみちるを抱え、合流した二人の男がニヤリと笑う。
「いやー、焦ったよ。ぼんやりしたガキだと思ってたら、急に忍者みたいな動きするんだから」
「ああ。なんか凄腕の騎士って感じだったぜ……まあいい、とっとと運ぼう。荷物と一緒に、こいつのことも処分しなきゃならねぇ」
彼らは頷き合うと、倉庫の陰に隠すように停めてあった車のトランクに、みちるを押し込んだ。
「黒森の方は?」
「向こうも無事確保したらしい。ったく、手間かけさせやがって……あいつもこのガキと一緒に始末されるだろうな、上に」
「だな」
不穏な会話を交わしつつ、二人は車に乗り込んで港を後にする。港は何事もなかったかのように、人々の賑やかな声に包まれ続けていた。