真実を求めて
日も暮れかけてから急遽押しかけたものの、学校はみちると母親を快く受け入れてくれた。
職員室の隅にある応接スペースに通され、担任と対面する。何度か見舞いにも来てくれていた、まだ教師になって間もない、若い女の先生だった。
「ご退院、ほんとにおめでとうございます。来月から登校されるとのことで、ここだけの話、クラスで歓迎会の計画なんかもしてるんですよ」
まあ、と母親が口元を押さえる。みちるも照れた様子で少し俯いた。
ついてきたアトスはというと、誰にもその姿が見えないのをいいことに、物珍しそうにキョロキョロしながら、職員室内をウロウロ歩き回っていた。
「えー、それで、お母さん。それにみちるさん。何かお聞きになりたいことなどございませんか。学校生活のこととか、その、進路のことですとか……」
まあ今は元気に通ってくれるだけで十分なんですけどね、と慌てたように早口で付け加える。
そんな担任に、はい、とみちるが手を挙げた。
「どうぞ、みちるさん」
「あの……黒森誠さんて人、先生は知ってますか? ここの、十年前の卒業生だと思うんですけど」
「……はあ?」
担任も、それに母親もきょとんとした顔になる。
「えっと、ここの卒業生? なんの話?」
「そうよ、みちる……あんた何聞いてるのよ」
しかしみちるの真剣な表情に、担任は気圧された様子で考え込む。
「うーん……私はまだ先生になったばかりだし、何年も前の卒業生のことなんて、わからないわ。十年前の卒業生というと、私と変わらない年齢みたいだけど……ああ、長嶋先生!」
頬に手を当て悩んでいたが、応接スペースのそばを通りかかった初老の男性教師を捕まえて尋ねる。
「先生は、もう随分長くこの学校にいらっしゃいますよね。ご存知ですか? 黒森誠さんて生徒のこと。十年前の卒業生らしいんですけど」
「んあ? 黒森、黒森……ああ、黒森くん!」
メガネをくいっと持ち上げつつしばらく考え込んだ後、はいはいはいはい、と早口に何度も頷いた。
「覚えてます、覚えてますとも……小柄で気の優しい男の子でした。体の弱い妹さんを、よく可愛がっていた」
その言葉に、窓から部活動に励む生徒を眺めていたアトスの眉が、ぴくりと動く。みちるはというと、彼を覚えている、との言葉にパッと目を輝かせた。
「卒業後のこととか、今どうしてるのか、わかりませんか?」
「んん……詳しいことはわからんが。たしか卒業後、妹さんが入院して、つきっきりで看病するようになったと聞いたな。なんでも、高校も途中で辞めたとか」
「妹さんが、入院……」
てっきり黒森誠本人が入院していたのかと考えていたみちるだったが、入院していたのは彼の妹だったらしい。
「それでその、妹さんは……」
「たしか、亡くなったと人づてに聞いたなあ」
「……なく、なった」
みちるは呆然と言葉を失う。担任もわけのわからないなりにショックを受けたようだったし、また母親も、娘を失った親の立場に心を寄せたのか、うっすらと目に涙を浮かべていた。
みちるがちらりとアトスの方を伺えば、彼は未だじっと窓の外を見つめていた。しかしその目に映っているのは沈みゆく夕日でも、グラウンドを駆け回る野球部員たちでもない。
「たしか二丁目の、青い屋根の大きな家だったな。まだ彼が住んどるのかわからんが……用があるなら、訪ねてみてはどうかな」
「ちょっと先生、そんなこと言っちゃっていいんですか」
担任に嗜められると、まずかったかな? ととぼけた顔で笑う。数学の時間はよろしくね、とみちるに言い残すと、彼はその場を去っていった。
帰り際、見送りにきた担任と母親が話し込む校門脇からそっと離れて、みちるはアトスに声をかけた。
「アトスさまは、妹さんのこと知ってたの?」
「ああ。今の医学では、治りようのない病でな……入院する妹のわずかな慰めになれば、とマコトが書いたのが、私の物語だ。入院中の彼女もまた、君と同じように、私をこちらの世界に呼び出して話をすることができた」
「そう、だったんだ」
自分と同じように、長らく入院していた少女。死んでしまって、もう会うことも叶わない少女。
知らず知らずのうちに、みちるは自分の手首をぎゅっと掴んでいた。
「私は毎日、床に伏せった彼女の話し相手になっていた。マコトも、毎日見舞いにきていた……しかしどういうわけか、次第に病院へ足を運ばなくなり、彼女をほったらかすようになっていった。そして私を見ることも、話をすることもできなくなっていった」
彼はここではないどこか遠くを見つめたまま続ける。
「結局、ヤツは一向に姿を現さないまま……彼女は病室で息を引き取った。君と変わらない年だった。最期に、君が着てるその制服を、彼女も着て見せてくれたよ」
自らを包み込む真新しいセーラー服、その真っ白な袖を握りしめる。鼻先に、嫌というほど嗅いだ薬品の匂いが蘇るような気がした。
「そして私は、マコトたち兄妹の心に居場所をなくし、時の止まった物語に閉じ込められることとなったのだ……君によって再び目覚めさせられるまで」
そこまで言うと、ようやくこちらに向き直る。
「豊かな心を持った、妹思いの優しい少年は……もうどこにもいない」
抑揚のない口調と、穏やかで仄暗い瞳。
みちるはいたたまれなくなって、そっと彼の手を取った。やはり彼女には、ひんやりとしたその手が、静かに静かに脈打っているのを感じることができた。
「きっと……きっと、違うよ」
傍のアトスを見上げて口を開けば、彼もみちるを見つめ返して先を促した。
「わたしなんか何にも知らないし、会ったことだってないけど……でもやっぱり、黒森さんのこと、ほんとのほんとに悪い人だなんて思えない。だって……!」
人目を憚り抑えていた声が、次第に熱を帯びていく。
「だって。ほんとに冷たくてひどい人に……思いやりのない人に、アトスさまみたいな優しい人を、生み出せるはずないもん」
「……私を買い被りすぎではないか?」
「ううん。アトスさまは優しくて、強くて、かっこよくて、わたしに勇気をくれて……とにかく、わたしはアトスさまのこと、大好きなの。妹さんにとっても、それに黒森さんにとっても、そうだったはずだよ」
みちるのまっすぐな言葉に、アトスは少し気恥ずかしそうに目を逸らす。しかしみちるは彼の手を握る両手にさらに力を込め、ぐいっと顔を近づけて彼の瞳を覗き込んだ。
「家もわかったことだし、やっぱりわたし、黒森さんに会いにいく。そんで、妹さんのこと、アトスさまが見えなくなっちゃったこと……ほんとのところを本人に確かめてみる。アトスさまだって、ほんとのほんとは、違うんじゃないかって思ってるんでしょ? 確かめたいって思うでしょ?」
「わ、私は……」
みちるの勢いに呑まれ、アトスがもごもごと口ごもった時だった。
「ちょっとみちる、何一人でブツブツ言ってるの」
ハッと我に返ると、いつのまにか話を終えた母親と担任がみちるの傍まできていて、訝しげな顔で彼女を見つめていた。
「な、なんでもない、ただの独り言。先生、今日はどうもありがとうございました」
担任はまだ心配そうな顔をしていたが、みちるがぺこりと頭を下げると、教室で待ってるわね、と笑顔で手を振ってくれた。
車の後部座席に乗り込んで、遠ざかる校舎を眺めていると、隣でアトスが躊躇いがちに口を開いた。
「私も、君の言うとおり……もう一度、きちんと確かめてみても、いいのかもしれない。いやほら、騎士としていつ何時も柔軟な考えを持たなくてはいけないし、何事も決めつけてかかるのは、騎士としての責任と誇りが云々……」
「うんうん。そうだよ、このままほっとくわけにはいかないよ! 騎士として、ね」
みちるは運転席の母親に聞こえないよう小声で、でも弾んだ声で同意する。やっぱり気になる、とはなかなか素直に言えないらしく、なんのかんのと御託を並べたてるのに生返事をしながら、流れていく景色を眺めた。ここからは見えない、二丁目の青い屋根の家を探すように。
◆
翌朝みちるが起き出してくると、すでに朝食を済ませた母親が、バタバタと慌ただしく身支度をしていた。
「ああもう、なんでこんな時に……」
「おはよ、ママ。どーしたの?」
眉間に皺を寄せボストンバッグに荷物を詰めながら、みちるを振り返る。
「おはよう、みちる……今朝ね、静岡のおばあちゃんから連絡があったんだけど。おばあちゃん、ぎっくり腰で動けなくなっちゃったんだって。それでママ、急いで様子を見に行かなきゃいけなくなったの。兄さん……おじさんも今海外だから、頼めないし」
深く深くため息をつくと、立ち上がってみちるの傍へ行き、真剣な顔で目と目を合わせた。
「ママ、明日の夜まで帰れそうにないけど、とりあえずパパには早く帰ってきてもらうから。今はまだ、一人でどこか行ったりしちゃダメよ。もらってるお薬、必ず飲むのよ。何かあったら必ず電話するのよ。電話番号、わかってるわよね?それからそれから……」
「もう、心配しすぎだよ」
心配もするわよ、と再び大きなため息をついて、まるまる同じ注意をもう一度繰り返す。
手際よく支度を済ませると、大きなボストンバッグを抱えて、みちるに手を振り慌ただしく家を出ていった。みちるも手を振って、駅の方へパタパタと駆けていく母親の背中を窓から見送る。
ダイニングテーブルに戻って朝食のミニトマトを口に放り込むと、投げ出された朝刊を眺めていたアトスに声をかけた。
「大チャンスだよ! 朝ごはん食べ終わったらすぐ出発、黒森さん家にいこっ」
「こ、これからか? しかし母上殿は、今日は家でじっとしているように、と」
「そんなこと言ってたら、次出かけられるのなんていつになるかわからないよ。昨日みたいに、ママに連れてってもらおうにも……知らない人に会いにいくなんて、きっとダメって言われるし」
「しかしだな……」
歯切れの悪い返事に、みちるはムッと頬を膨らませる。
「大丈夫だよ、体も全然辛くないし……薬だってちゃんと飲むし、予備も持っていくし。それに二丁目って、すぐそこだもん。それに……」
スクランブルエッグを牛乳で流し込んで、ケチャップを口の端につけたままにっこり笑う。
「いざとなったら、アトスさまがいるじゃない。あの時みたいに、またゆーごーしたら……わたし、何があっても大丈夫だよ」
「うーん……」
しばらく渋い顔をしていたアトスだったが、おねがい! と両手を合わせられ、ようやく折れて了承した。
「ありがと、アトスさま!」
みちるは急いで朝食を取り、ショルダーバッグになんやかんやと荷物を詰めると、動きやすいTシャツとショートパンツに着替える。
スニーカーに足を突っ込んで、何が入っているのか、パンパンに膨らんだ鞄を肩にかけて、すっくと立ち上がった。
「よーし! 黒森さん探しの冒険に、いざしゅっぱーつ!」
拳を掲げ、玄関から一歩踏み出す。清々しい朝の空気を、肺いっぱいに吸い込んだ。
アトスもほんの少しの緊張と高揚を呆れ顔で隠して、みちるの後に続いた。