騎士との遭遇
半月ほどして、予定通りにみちるの手術の日が訪れた。
寝不足で目を真っ赤にした母親と、今にも倒れそうな彼女を支えるようにして立つ父親とが病室へと向かう。しかし彼らを出迎えたのは病床の愛娘ではなく、バタバタと慌てて駆け回る看護師たちの姿だった。
「西本さん、どうしてちゃんと見てなかったの!?」
「すみません、ついさっきまでベッドにいたんですが……ほんのちょっと目を離した隙に」
「ああ、お父様とお母様。実はみちるちゃんが、ベッドを抜け出してどこか行ってしまって……」
みちるが、病室を抜け出したきり戻ってこない。それを聞いて父親は真っ青になり、母親も動揺のあまり卒倒しそうになる。
「みちる……!? どこ行ったの、もう先生だってお見えになってるのよ……!」
両親も捜索に加わり、状況はさらに緊迫したものとなった。
しかし、そんな騒然とする院内とは対照的に、当のみちるが身を潜めるここ——庭の隅に建つ廃病棟は、ひっそりと静まり返っていた。
みちるは薄汚れた壁に背中を預け、ずるずると座り込む。
「無理……やっぱムリだよ……怖い……」
か細い声と一緒に、涙が溢れる。両親や良くしてくれる看護師の手前、堪えていた涙は、一度溢れるととても止められなかった。
「誰か……助けてよぉ」
うずくまって、膝に顔を突っ伏して肩を震わせる。立っていられないのは、制御しきれないほどに膨らんだ恐怖のせいなのか、今こうしている間にも体を蝕み続ける病のせいなのか。
頬を伝い落ちる涙の雫が一粒、埃っぽい床にぶつかって弾けた、ちょうどその時だった。
「何を泣いている」
薄暗く静かな世界に、低く凛とした声が響いた。
男の声だった。あまりに唐突なその声に、みちるは今この場で心臓が止まる思いだった。
突っ伏していた顔を勢いよく上げる。無人のはずの廃病棟、うずくまる自分の前に仁王立ちする男の姿に、みちるは悲鳴も出せずに口をぽかんと開けた。さっきまでは確かに、誰もいなかったのに。
「どうした。何を泣いているのだ」
「え……あ……なにって、あなた……」
勲章のたくさんついた、濃紺の制服。リボンで結んだ銀色の長髪に、群青色の瞳が放つ切れ味鋭い眼光。腰には剣を差している。
その美しい佇まいに、みちるは心当たりがあった。
「……アトスさま?」
みちるの声に、目の前の男はこくりと頷く。
「いかにも。私がウラノス騎士団団長、アトス=ストラトスだ」
胸に手を当て、礼儀正しく挨拶する。
そう、彼こそ、みちるが心の拠り所としていた小説『夜空の騎士』の主人公、若き実力者、美貌の剣士たるアトス=ストラトスその人だった。
ノートに挿絵などはなかったが、彼のその姿は、みちるが物語を読んで脳内で想像していたのと、寸分違わなかった。
みちるは彼の言葉に、状況も忘れて頬を上気させ立ち上がった。
「うわー! 本物だ! アトスさまが目の前にいる! なんでなんで!?」
興奮して手を取るみちるにたじろぎつつ、彼が答える。
「うむ。なんだか長い間、暗闇を彷徨っていた気がするのだが……誰かが助けを呼ぶ声がして、騎士として放っておけなかった。声のする方へ意識を向けていると、いつのまにか君の前にいたのだ」
その言葉に、みちるは顔を綻ばせる。
「じゃあ物語の世界から、わたしを助けにきてくれたってこと!?」
「物語の、世界……ああ、そうか。そうだったな」
彼は一瞬呆気に取られたような顔をしていたが、机の上に置かれていた『夜空の騎士』のノートを見て、納得したように頷く。
「どうやら、そうらしい。君の豊かな想像力が、私を君の世界に呼び出してみせたのだろう」
ほえー、とみちるが感嘆のため息をつく。
「それで、敵はどこだ? 隣国の兵か? それとも魔王の手先の邪竜か?」
「ううん、兵士も竜もここにはいないけど……あ、ほら!」
身を潜めるよう促して、病棟の外を指差す。彼は機敏に身を隠して、みちるの指差す方に目をやった。窓から見える中庭では、看護師や両親がみちるを探し回っているところだった。
「彼らが敵なのか?」
「敵……うん、そうだよ。あのね……」
敵、という言葉に躊躇いがちに頷くと、みちるは声を抑えて、ここに至るまでの経緯を説明した。
「……なるほど。これから生死のかかった大きな手術があるが、それが怖くて君は逃げ出した。手術を受けたくない、なんとか医者を遠ざけたい……というわけだな」
「うん。ね、アトスさまは騎士でしょ? 先生も看護師さんも……ママもパパも、やっつけちゃってよ」
ぽつりと呟くように言って、目を伏せる。
「しかし、手術を受けないことには、君は死んでしまうのだろう」
「でも受けたって、失敗する可能性もあるって話なんだよ。そしたら、死んじゃうんだよ。もう目が覚めないかもしれないんだよ」
自分の言葉に、また体と声が震え出す。ぎゅっと病院着の袖を握りしめるが、止められない。
「怖いのとか、痛いのとか、もう、もうイヤなんだもん……こわくてこわくて、ヘンになっちゃいそうなんだもん……!」
涙を堪えようとすると、思わず語気が強くなった。
「……生憎だが、私自身が剣を振るって、彼らを退けるようなことはできない」
アトスはそう言うと、手を伸ばして机の上のノートに触れようとする。しかしその手はスカッと空を切った。
「私は、君の想像力による産物のようなものだからな。私単体で、この世界に影響を及ぼすことはできないらしい……それどころか、君の両親も医者も皆、私の姿が見えるということすらないだろう」
「そんなあ」
「しかし、だ」
嘆くみちるを制して続ける。
「言ったとおり、私は、君の豊かな想像力によってここにいる。君にはいくらでも影響を与えることができる」
彼は形の良い唇を歪めてニヤリと笑った。
「融合するのだ。私と君が一体化することで、君は優れた力を発揮できるようになる」
「ゆーごー!? ……って、何するの?」
「君の魂に、私の魂を宿らせるのだ。そしたら君に、私の持つ冷静さや勇気、騎士としての誇りを分け与えることができる」
自信たっぷりに言ってのける。彼は作中でも、根拠のある自信とそうでもない自負の心に溢れていた。
「はあ……そんなことできるの? お話の中では、そんな力なかったよ?」
「できるさ。君が望めばなんだって」
力強い言葉に、みちるはごくりと唾を呑み込む。
「じゃあゆーごーして、先生を倒すの?」
「いや、倒すべきは医者じゃない。君の恐怖だ」
「きょうふ……」
アトスが頷く。
「私と融合して、共に恐怖を乗り越えよう。そして手術を受けるのだ」
「でも、そんなの……」
「できる。なんせ、王国一の強さを誇る騎士である、この私と共に在るのだから」
「…………」
薄暗い廃病棟で、二人はしばし見つめ合う。
みちるが震える唇をきゅっと噛んだその時。入り口の方から物音と騒がしい声が聞こえてきた。いよいよ、捜索の手がこの廃病棟にも伸びたらしい。
「私の剣と君の心で、恐怖を打ち負かそう」
彼は身を屈めみちるの手を取り、その顔を覗き込む。みちるを映す夜空の色をした瞳に、作中の登場人物は皆、老若男女問わず絆されていた。
「……ほんとに、できる? わたしでも、恐怖に勝てる?」
力強く頷くアトスに、みちるも目元に滲む涙を拭って頷いた。
「じゃあする、ゆーごー。アトスさま、力を貸して……!」
「いいだろう。私は騎士として、君の力になることを約束する……さあ、目を閉じて。私のことだけ、考えて」
追っ手がドタバタと病棟を駆け回る音が、次第にこちらへ近づいてきている。
みちるは彼に言われるがまま、両目を閉じた。世界が闇に包まれる。真っ暗な世界で彼の輪郭を探しているうちに、うるさかった音はすっかり聞こえなくなっていた。
「さあ、融合だ。目を開けて……共に戦おう。私は君の剣になる」
静かな闇の中、彼の声が心地よく響く。
しかし目を開けた途端、みちるの耳に飛び込んできたのは、乱暴な足音と怒声だった。
「こんなところにいた!」
「みちる! あんた何考えてるの!? みんながどんな思いであんたのことを……」
「まあまあお母さん、ちょっと落ち着いて」
いつのまにか両親や看護師たち、それに担当医までもが部屋へ入ってきていて、取り囲まれていた。立ち尽くすみちるの周りで皆口々に彼女を叱り飛ばしている。
「……先生、看護師さん。ママ、パパ」
みちるが口を開く。辺りにアトスの姿はなかった。融合して、みちるの中に存在しているのだろうか。
なにがどうなったのかよくわからないが、みちるはそう確信していた。大勢の大人に取り囲まれ捲し立てられていても、妙に心が落ち着いている。
「心配させてごめんなさい。迷惑かけてごめんなさい」
みちるは深く頭を下げた。その様子に皆顔を見合わせると、口を閉じて彼女の言葉の続きを待つ。
みちるはごくりと唾を呑み込んで、顔を上げて、ぎゅっと拳を握って、口を開いた。
「わたし……わたし、手術、ちゃんと受けます。もう逃げたりしない、頑張って戦う」
ずっと受け入れられなかった決断と、口にできなかった言葉。みちるの振り絞った勇気は、凛とした声になって埃っぽく冷たい廃病棟に響いた。
「みちる……」
母親の声が震えている。それとは対照的に、医師は落ち着いた声でみちるに答えた。
「さあ、戻ろう。君の勇気に、必ず報いてみせるよ」
促されるまま廃病棟をあとにして、病室へと戻る。そこからはあっという間にことが進んだ。
ストレッチャーに乗せられ、手術室へと運ばれる。両親がなにやら医師と話していたかと思うと、みちるの手を握って室内へと送り出した。なされるがまま、みちる以上に泣き出しそうな顔の両親に見送られる。
「……アトスさま」
医師たちの訳の分からない言葉が飛び交っている中、小さく小さく彼の名前を呼ぶ。それだけでどういうわけか、再びざわめき始めていた心が、穏やかな夜の海のように凪いでいく。柔らかな風が心を吹き抜けたら、大丈夫、という確信だけが残った。
「元気になったら、退院したら……何がしたい?」
明るい声で医師に問いかけられる。しかしみちるには、どう答えたものかいまいちわからなかった。自分が何をしたいのか、よくわからない。もうずっと入院していて、半分も通わないうちに、小学校だって卒業してしまった。
「なに……しよっかな……」
しかし何か考える間もなく、麻酔で急速に意識が失われていく。
そうして、まどろみの中、久しぶりに楽しい夢を見た。『夜空の騎士』の続きだ。
アトスを急襲した意外な敵、その正体は、彼の生き別れの弟だった。価値観や立場の違いから敵対する二人だったが、やがてお互いへの誤解が解け、最後は手を取り合って真の敵、魔王との戦いに挑む。
——というのは、唐突な物語の終わりに打ちひしがれたみちるがあの晩、ノートに勝手に書き足したものだった。
繰り広げられる決闘と仲直りの様子を、彼女は遠巻きに眺めていた。
「うーん……あんまりにもモヤモヤするから、勝手に考えて書いてみちゃったけど。急に生き別れの弟が出てくるなんて、無理やりすぎたかなあ。ほんとは一体、どうなっちゃうんだろ……『夜空の騎士』を書いた人は、どんな……」
固い握手を交わすアトスとぽっと出の弟をよそに、うーんと唸って考え込んでいたみちるだったが、ハッと我に返って顔を上げる。
「そうだ、わたし……やりたいこと、見つけたかも」
小さく呟くと、それはよかった、とアトスがこちらへ近づいてきた。
「あれ、弟さんは?」
「旅に出たよ。彼は彼で、王国のどこかにあるとされる、地下黄金遺跡を掘り当てるので忙しいそうなんだ」
「あ、そっか……わたしがそんな設定にしたんだっけ」
頷いて微笑むと、アトスは向こうの方を指差す。そちらに向き直れば、白い光が差しているのが見えた。
「さあ、私たちも行こうか」
「ついてきてくれるの?」
「もちろん。私は君の騎士となる、と約束したのだから……君がやりたいことを叶えるまで、どこまでもお供しよう」
そう言ってひざまずくと、みちるに向かって優雅に片手を差し出す。
みちるはお姫様のように、そっとその手を取った。