暗い森の悪あがき
「黒森!」
現れた黒森は、扉から離れるよう二人にジェスチャーすると、ポケットから拳銃を取り出して構える。柄シャツがみちるを引き寄せ扉から遠ざけると、黒森がガラス戸に向かって発砲した。
何発か撃ち込むと、弾が貫通しヒビだらけになったガラスを、ドカドカ蹴っ飛ばして穴を開ける。そうしてできた人ひとり通れるくらいの穴を前に、柄シャツがガッツポーズで喜んだ。
「よし。小娘、先に出ろ。ガラスで切るなよ」
「うん!」
二人順番にガラスの穴を潜り抜け、久方ぶりに外へ出る。思わず二人揃って地面に倒れ込み、湿った土と森の匂いを存分に吸い込んだ。
「た、助かったぜ……黒森、お前、その拳銃」
「ああ。青沼さんのを借りたんだ、ほら」
そう言って黒森が指し示す先では、ぐったりした青沼が木に縛り付けられていた。
目を丸くする柄シャツがさらに尋ねる。
「お前が倒したのか? そうだ、他のヤツらは……」
「ああ。アジトが爆破された時は、もうダメだと思ったよ……でもみんな、なんとか玄関が火に呑まれる前に出られたらしい」
今度はもう少し離れた辺りを指す。そちらにも、何人か男がまとめて縛り付けられていた。斧と金属バットの二人組や、港でみちるを追い回した男の姿も見える。
「まあ、何人かは森の外へ逃げてっちまったみたいだけど」
「でもよかったね、逃げ遅れた人がいなくて」
「俺はもうちょっとで、豚みたく丸焼きにされるとこだったぜ」
みちるはぼやく柄シャツを無視して、布切れが雑に巻かれた黒森の太ももを心配そうに見つめる。シャツを破いた即席の包帯は、血で真っ赤に染まっていた。
「それ、撃たれたの……!? 大変、すぐ病院に行かないと」
青くなって駆け寄るみちるに、黒森はあっけらかんと笑ってみせる。
「ちょっと掠めただけだよ。それより、すぐ病院に行かなきゃいけないのはお前の方だ」
指で鼻先を小突かれると、それだけでよろめいた。今更になって足もガタガタ震え出し、立っていられず座り込む。
「な、なんか急に、疲れたかも」
「だろ。しばらくじっとしてろよ」
「うん……」
みちるがすっかり脱力していると、いつの間にか融合の解かれたアトスがそばにいて、膝をつきみちるの頬を汚すススを拭った。
「よく頑張ったな」
「アトスさま。えへへ、また助けてもらったね……って、あーっ!!」
突然ここ一番の大声を出し、疲労も忘れて弾かれたように立ち上がるみちるに、アトスと黒森、それに柄シャツもギョッとして固まった。
「か、カバンがない! なんで、いつから!?」
パタパタと服の上から体を叩いたり、首を捻って背中を覗き込んだりする。肩から提げていたはずのショルダーバッグが、忽然と消えていた。
ガラスを潜り抜ける時を思い返してみると、特に引っかかるものを感じなかったような気がする。それより前に落としてきたのだろうか、それともどこかに引っ掛けてしまったのだろうか。
「ちょ、ちょっと取りに」
「アホか!」
「でも……」
黒森に止められ、羽交締めにされる。それでも彼の腕から抜け出そうともがいていたが、目の前で灰色のコンクリートの塊がガラガラと崩れ落ちてきて、たった今出てきた非常扉をすっかり呑み込んでしまった。
「そんなあ……」
がっくりと膝から崩れ落ち、冷たい地面に手をつく。大きな両目から、ボロボロと涙が溢れた。
柄シャツにはその様子が、さっきまで勇ましく炎の中を駆け抜けてきたのと同じ少女とは思えなかった。
崩れた廃病院を前に泣きじゃくるみちるを、アトスが宥める。
「泣くな、ミチル。あのノートがなくなったって、私やあの世界、物語そのものが消えてしまうわけではないんだ」
「それはそうかもしれないけど、でも……大事なものなのに、宝物なのに」
「……そうだな。でも、そんなに悲観する必要もないかもしれないよ」
くるりと振り返れば、黒森がみちるに歩み寄ってきた。
黒森は彼女のもとにしゃがみ込むと、ススと涙と鼻水でぐしゃぐしゃな顔を、手の甲で拭ってやる。そんな彼は、どこか吹っ切れたような顔をしていた。
「俺さ、書くよ。あの続き。だからさ、待っててほしいんだ」
そう言って、上着のポケットから何か取り出してみちるに手渡す。それは黒森が荷物から持ち出した、赤色チェックの、みちるのノートだった。
「これ、持ってっちゃってたの?」
「ああ。中、読ませてもらったぜ」
みちるの頬が少し赤くなる。
「ありがとう。お前が俺に、思い出させてくれたんだ……俺を助けてくれる存在のこと。お前も、忘れないで……待っててくれたら、嬉しい。必ず続き、書くからさ」
「……うん、わかった」
鼻をすすって、ありがとう、と笑う。花が咲いたようなその笑顔に、黒森は少し寂しげな顔で続けた。
「まあ、いつになるかわからないけどな……俺は今から、警察に行くよ。さっき青沼さんの携帯も奪って、もう通報してあるんだ。そろそろ来る頃だと思う……悪いこといっぱいしてきたからな、ケジメをつけようと思う。親父たちにも、謝らないといけねぇし」
その言葉と重なるように、タイミングよくパトカーのサイレンが聞こえてくる。それに、消防車のサイレンも。建物一つ焼け落ちる派手な爆発騒ぎだったが、この鬱蒼とした山奥では、こちらから呼ばなければ誰も気づかなかったかもしれない。
「でも黒森さんは、あの人に言われて無理やり悪いことさせられてたんでしょ?だったら……」
「……まあ、そう言えなくもないのかもしれないけど。でも俺は自分自身の弱さで、この道を選んでしまったようなもんだからさ」
苦笑しつつ、未だ放心状態の柄シャツを振り返る。
「お前はどーする?今ならまだ逃げられるかもしれねぇけど」
柄シャツはつまらなそうにそっぽを向いた。
「ボスが捕まったら、逃げたヤツらだってすぐ捕まるだろうよ……もう疲れたし、俺もお前と一緒に行くよ」
「なんか気持ち悪い言い回しだな」
「気持ち悪いもんか」
軽口を叩いているところに、なんとか山道を超えて救急車と消防車がやってきて、すでにあらかた崩れた廃病院の消火活動が始められた。
続いてパトカーも数台やってきて、ドタバタと警官が数人降りてきた。中には刑事らしき背広の男もいる。
「ああ、お巡りさん。ちょっと一言じゃ説明しきれないんですけど……俺たちのこと、警察に連れてってほしいんです。それからこの子を病院へ」
しおらしく経緯を説明する黒森に仰天して、刑事は忙しなく辺りをキョロキョロする。そうしてぐったりした青沼や数人の仲間を見つけると、素っ頓狂な声で早口に黒森を追い詰めた。
「こ、この騒ぎは、君たちがやったのか。タチの悪い悪戯じゃないのか」
「悪戯なんかじゃありません」
素直に返事をする黒森に、半信半疑といった視線を向ける刑事だったが、そばにいたみちるに目を留めると、彼はその目の色を変えた。
「君、ひょっとして、いやひょっとしなくても、野々花町の白藤みちるちゃんじゃないか!」
「そ、そうですけど」
「今騒ぎになっとるんだぞ、女の子が出かけたっきり帰ってこない、って。何か事件に巻き込まれたんじゃないかって……」
刑事の言葉に、みちるの顔がさーっと青ざめる。家を出て何時間経ったのか、正確なところはわからないが、両親がみちるの不在に気づいているのは疑いようがなかった。
「やば……絶対怒られる」
「仕方ない。私も一緒に叱られてやるとしよう」
アトスにぽんと肩を叩かれ、みちるはがっくりと項垂れる。
彼女の所在を知った刑事の方はというと、血相を変えて部下に指示を出し始めた。
「君はすぐ親御さんに連絡して、それから病院にも。君はあっちの連中をパトカーへ。君は……」
なんのかんのと刑事が指示を飛ばしていると、部下のひとりが駆け寄ってくる。
「あの、警部、すみません」
「なんだ!」
「青沼がいません! さっきは木に縛られてたのを確かに見たんですけど、いつの間にか、縄だけ残されてて……」
「なに!?」
皆が揃って振り返ると、確かに太い木の幹に彼の姿がなかった。地面には警官の言うとおり、彼を縛っていた縄だけが落ちている。
黒森はアトスと顔を見合わせる。みちるの無事で気が抜けたせいなのか、どうやら彼も気がつかなかったらしい。
一体どこへ、と暗い森が再び緊張感に包まれた、その時だった。
「しまった! ミチル、後ろだ!」
「え?」
張り詰めた声でアトスがその名を呼ぶ。しかし一瞬遅かった。
「きゃあっ!」
爆発と崩壊がおさまりつつあり、少し静かになっていた森に、甲高い悲鳴が響き渡る。
その場にいる全員が一斉に視線を向けると、闇に紛れた青沼が、電光石火の早業でみちるを羽交締めにしているところだった。それも、隠し持っていたらしいナイフをみちるの首に突きつけて。