炎を駆け抜けて
腹の底に響くような爆音で、みちるは目を覚ました。遠くから、近くから——相次ぐ轟音に、寝かされていた手術台から跳ね起き、悲鳴を上げ縮こまる。
「なになに、なんの音!?」
「ああ、ミチル……よかった、目を覚ましてくれて」
その傍にはやはりアトスがいた。
安堵の表情を浮かべる彼に、みちるは矢継ぎ早に状況を問う。
「なにこれ、どーなってるの? なんか燃えてない!? そうだ、黒森さんはどーなったの?」
「うむ。この建物には、爆弾が仕掛けられていたようなのだ。さっきそれが爆発して、あちこち崩壊し始めている」
「ば、ばくだん……!?」
物騒な単語に呆然とするも、再び響いた爆音と、どこかで何か崩れる音で我に返る。
強制的に覚醒させられた頭で、みちるはここに至るまでの経緯を思い出す。朧げながら、高熱で倒れた後、黒森に運ばれ、薬を飲ませてもらった記憶があった。その後、黒森が恐れる組織のボス、青沼に連れられ、手術室を出て行ってしまったことも。
飲ませてもらった薬がよく効いているのか、随分体が楽になっているのに気づき、その記憶が夢などではないと認識する。
「黒森さんは……」
「ああ。あの偉そうな男に、外へ連れて行かれてしまった。自分が組織に残る代わりに、君には誰も手出しさせないと約束させて……追い詰められて彼の想像力が揺らいでしまったせいなのか、私のことも見えなくなってしまったらしい」
「そんなあ……」
みちるは口元を押さえて青ざめる。しかしアトスは、そんな彼女を安心させるように微笑んだ。
「でもな、ミチル。君はずっと、彼の優しさや強さを信じていただろう。君と一緒にいて、私も、もう一度それを信じてみようという気になった。彼はきっと負けない……だから」
そこまで言うと身を屈めて、影の差すみちるの顔を覗き込んだ。
「だから、私たちも立ち止まらず進もう。必ずここから抜け出そう」
「う、うん……でも」
言葉を続けようとしたところで、部屋の隅の天井が抜け落ち、凄まじい衝撃音と共に部屋中に埃が舞い上がる。飛び散った小さな火の粉が、瞬く間に木製の椅子を燃え上がらせる。
その様子を目にしたみちるはすくみ上がり、悲鳴も喉の奥で凍りついてしまった。
「あ、あわわわ……」
煙と炎のせいか、動揺と混乱のせいか、目がチカチカしている。気を抜けばふらりとまた意識が遠のきそうだった。
アトスはそんなみちるの頬に触れると、彼女の瞳に、真っ赤に揺れる炎でなく、自らを映し出した。
「君には私がついている。私は君の、恐怖に立ち向かう助けになる。これまでずっとそうだった。これからもそうだ」
「アトスさま……」
果てしない漆黒に、流れ星のカケラを散らしたような瞳を見つめていると、不思議と心が落ち着いてくる。
「うん、わかった。ここから出よう……お願い、力を貸して!」
二人は互いに頷きあって、目と目を、そして呼吸を合わせる。
一度閉じた瞳を開いたみちるはすでに、襲いくる恐怖の波を乗り越えていた。
両手で頬を叩いて気合いを入れると、部屋の隅に投げ出されたままのショルダーバッグに目を留める。散らばったたくさんのお菓子はそのままに『夜空の騎士』のノートだけをまとめて詰め込んだ。
「ごめんね」
食べられることのなかったお菓子たちを申し訳なさそうに見つめ、水筒の蓋を開ける。中身の水を頭からかぶると、随分軽くなった荷物を背負い直した。
「……よし!」
みちるは炎渦巻く廃病院から脱出すべく、重たい手術室の扉を開いた。
◆
扉の向こうはすでにあちこち火が回り、崩壊が進んでいた。廊下の至る所で木製の家具や窓を塞ぐ木枠が燃え上がっている。
「急がないと……」
手で口を覆って、長い廊下を進む。パラパラと降り注ぐ天井のカケラを避けつつ、転がり込むようにして階段室へと辿り着いた。どうやらここは3階らしい。
扉を開けて息をつき、ふと振り返ったところで、みちるが走り抜けてきた辺りの天井が大きく崩れて落ちてきた。埃と煙が3階全体を包み込む。見れば壁際に立てかけられていた大きなロッカーも横倒しになっていた。
「…………」
みちるは額の冷や汗を拭って、2階へと下りる。ここから先、1階へと続く扉はバリケードで閉ざされていたため、どこか別の階段を探して1階へと下りなくてはならない。
意を決して、あちこちで炎の上がる2階廊下を駆け抜けようとした時、物音がした。壁が崩れる音や、ガラクタがごうごうと燃える音に混じって、人の呻き声のような音が聞こえてくる。
「……あっ!」
みちるには、その声に心当たりがあった。やばい、と顔を真っ青にして、慌てて声のする方へ駆けていき、小さな部屋の扉を開く。
そこにはみちるの思った通り、男が一人いた。口をハンカチで塞がれたうえ、ロープで縛られ床に転がされた男——
——というか、みちるが塞いで縛って転がしておいた、件の柄シャツの男だ。
彼は部屋に入ってきたみちるを睨みつつ、もごもごと必死で呻いている。他に人影は見えず、すでに敵の多くが逃げ出した後のようだが、彼は逃げるに逃げられず取り残されていたらしい。
みちるはしゃがみ込んで、彼の口を塞ぐハンカチを取ってやる。柄シャツはプハッと勢いよく息をして、煙たさにひとしきり咽せた後、涙目で再びこちらを睨んだ。
「なんだよ、この騒ぎは……これもお前がやったのか!?」
「違うよ。ここのボスだよ」
「ボス……そうか。このアジトも、無能な下っ端も、みんなまとめて捨てるつもりだな。あの人らしいやり方だぜ……うお!?」
みちるはうつ伏せのままブツクサ呟いている彼の体をひっくり返して、足を縛るロープに手をかける。
刃物の類は持っていないし、柄シャツが振り回していたナイフも、乱闘騒ぎでどこかへいってしまった。
仕方なしに、みちるは落ちて割れていた花瓶の破片でロープを切断する。柄シャツは目を丸くして、その様子を見つめていた。
「お前、俺を助けるつもりなのか?」
「そうだよ」
「俺はお前を殺そうとしたんだぜ。こんなことしちゃって……またお前を殺すかもしれないぜ?」
そう言う柄シャツに、みちるは不敵に笑ってみせた。
「そんなこと言って、さっきもできなかったじゃない」
足に続いて手の縄も切ってやって、すっくと立ち上がる。
「ここから出て、あなたたちのこと、警察に連れていかなきゃいけないもん。あなたのこと死なせないし、わたしだって死んだりしないよ……あ、危ない!」
短く叫んで、柄シャツをぐいっと引き寄せる。間一髪、崩壊の振動で倒れてきた大きな薬品棚が、柄シャツを押しつぶすところだった。ガラスの窓部分とたくさんの薬瓶が割れ、破片がいくつも床に突き刺さる。
ふうと息を整えて、言葉を失う柄シャツに背を向けると、行くよ、と返事も待たずに廊下を駆け出す。
「……勝てないわけだ」
柄シャツはため息と共に立ち上がり、みちるの後に続いた。
◆
二人は炎の廊下を駆け抜けて、見つけた階段を駆け下りる。なんとか1階に辿り着いたものの、玄関の方はすでに火の海と化していて、とても出られそうになかった。
「どーしよ……」
火に舐め尽くされた玄関を目に、呆然とするみちる。
もはや強行突破より他ないのか、と拳を握りしめるが、今度は柄シャツがみちるの前に飛び出して、大声を張り上げた。
「向こうはまだそんなに火が回ってない……確か向こうに非常口があったはずだ。そっちなら多分外へ出られる!」
柄シャツの先導のもと、二人は非常口へと向かう。その先には確かに、発光こそしていないものの、緑と白のピクトグラムでお馴染みの表示が掲げられていた。
煙を吸い続け、頭がグラグラしている。みちるは視界のモヤを払うように頭を振って、懸命に柄シャツの背中を追いかけた。
そうして必死の思いで辿り着いた非常口は、たしかにまだ火の手が届いてはいなかった。
が、しかし——
「なんだよこれ!」
肝心の非常扉の前は、廃棄された事務机や椅子、ベッドや薬品棚が堆く積み上げられていて、屋外へと続く扉全体がバリケードのように封鎖されてしまっている。
扉の少し手前に防火シャッターもあるが、柄シャツがこちらを閉ざそうとしても、完全に錆び付いてしまっていてびくともしない。
「この山をなんとかするしかねぇのか……」
火の手は今この瞬間もこちらへ近づいてきており、時折小さな火の粉が飛んでくる。
柄シャツは舌打ちしてバリケードに駆け寄り、その山を崩しにかかった。みちるもどかされた机たちを移動させ、なんとか非常扉を露出させようと奮闘する。
机、椅子、棚、椅子、机。どかしては動かして、動かしてはどかして。二人は汗だくになりながら、障害物の山を崩していく。火はもう二人のすぐ後ろまで迫っていた。
「見えたぜ、外だ!」
弾けた火の粉が背中に触れそうになる頃、柄シャツが明るい声で叫んだ。指差す先にはガラス戸とドアノブ。ガラス戸の向こうには暗い森が見える。
「おいガキ、死んだりしてねぇだろうな!?」
柄シャツがこちらを振り返って軽口を叩く。外は暗闇が広がるばかりだが、二人には光が差し込んでくるように感じられた。
「まさか。さ、早く……」
しかしその言葉と扉への一歩は、一際大きな爆音によって遮られた。
「うわ!」
「きゃっ!」
建物全体が大きく振動し、みちるがバランスを崩して転ぶ。机の上に乗っかっていた柄シャツも、土台ごとよろめいて床へと転落した。どうやら、また別の爆弾に火がついたらしい。
「ああ〜!」
柄シャツが上げた情けない悲鳴は、決して痛みからくるものではなかった。
みちるも彼の後ろで、口元を押さえて絶句する。
「……うそ」
二人が必死で作っていた扉への道筋は、先ほどの振動で倒れた大きな書棚と、さらになだれを起こした別の瓦礫により、完全に塞がれてしまっていた。
みちるの視界が白く黒く、そして赤く明滅を繰り返す。そんな彼女の背後でたった今、非常口前の天井が崩れ落ちた。
二人は降りない防火シャッターと、開かない非常口の間に閉じ込められてしまった。
火が燃え移り煙を上げる木材を前に、柄シャツが足を投げ出して座り込む。
「あーあ……しょーもねぇ人生だった!」
吐き捨てるように言い、髪をぐしゃぐしゃと掻き乱す。
「ほんっと……いいことなんか、ひとつもなかったな」
顔についたススを拭いつつぼやくと、みちるに声をかけた。
「お前も、災難だったな。こんなとこで、終わっちまうなんてよ」
先ほどまでは熱中していて気にならなかった息苦しさが、今になって襲ってくる。少し息をするだけで煙で咽せて、さらに視界が揺らいだ。
そんな揺れる世界の中、炎を見つめていたみちるが、柄シャツの方を振り返った。彼と目を合わせるみちる、その瞳は真冬の夜空のように澄んでいて、真夏の夜空のように瞬く光を宿している。
そんな瞳に吸い込まれるようで、彼は一時、熱い炎のこともまとわりつく煙のことも忘れてしまった。
「まだ、終わったりしないよ」
そう言うと、横倒しになった大きな書棚の前に立ち、両手に力を込めた。しかしみちるの背丈に比べあまりにも大きいせいか、棚はびくともしない。
「……無駄だよ、もう間に合わねぇ」
しかし煙で嗄れた柄シャツの声には聞く耳を持たず、みちるは玉のような汗を額に浮かべながら、書棚と対峙する。
「まだ、終われない……やりたいこと、いっぱいあるもん。学校に行きたい、運動会に出てみたい。テストだって受けてみたい。友達と遊びに行って、お揃いのキーホルダーとか買っちゃって、家族で旅行にも行って、それから……」
その声色が、鳴り止まない轟音にも負けない、強く明るいものになっていく。
じり、とほんの少し書棚が動いた。
「どうしても、続きを諦めきれない物語があるの。だから絶対ぜったい、こんなとこじゃ終われない!」
「…………」
しばらくそんなみちるを見つめていた柄シャツだったが、頭をかいて面倒くさそうに立ち上がると、彼女の方へと一歩近づいた。
「ま、俺も……小娘に負けたままにしとくのは、メンツに関わるからな」
「小娘は小娘でも、最強の騎士さまの力を借りてるんだもん。その辺のチンピラが負けるのは仕方ないことだよ!」
「はあ?」
なんだそら、と笑い飛ばす柄シャツも、みちると共に書棚を押す。火が木片を燃やすよりずっと遅いスピードで、ほんの少しずつ、巨大な障害物が動かされていく。
「ぜえ、ぜえ……あ、あとちょっとだぜ」
息も絶え絶えな柄シャツが、最後の力を振り絞って書棚を部屋の隅へと押しやる。しかしまだ、倒れてきた机の山のせいでドアノブに手が届かず、扉は開けられない。
「もうちょっと、あとちょっとなのに……!」
机と机の間に手を突っ込んで、ドアノブに届かないかと躍起になるみちる。
そんな彼女のすぐそばで、一粒の火の粉が弾けた時だった。
「あ!」
窓の外を向くみちるが大声を上げる。何事かと近づく柄シャツもまた、驚愕と歓喜の声を上げた。
「あーっ! 黒森!」
炎の廃病院と静かな深夜の森林を、すぐそばで繋ぎつつも遠く隔てる非常扉。そのガラス戸の向こうに現れたのは、肩で息をする黒森だった。