想像力の剣
ゆっくり開けられた扉から姿を現したのは、シワひとつないスーツに身を包み、髪をぴっちりと七三分けにした男。
このどこのオフィスにもいそうな、サラリーマン然とした中年男こそ、皆に恐れられている組織のボス、青沼だった。
「ようやく見つけた……随分手間をかけさせてくれましたね」
「あ……青沼さん」
慇懃な口調で微笑むが、その目はちっとも笑っていない。
彼は不気味な笑顔で黒森を見つめながら、スーツのポケットから黒光りする拳銃を取り出し、胸の前でそれを構えた。
「組織を抜けて逃げ出そうとしましたね。私がそんな勝手を許すと思っているのですか? 逃亡は粛清の対象ですよ」
「ま、待ってくれ!」
震える足で後退りする黒森。しかし銃口が下ろされることはない。
「あ、ああ……助けてくれ、アトス……」
わなわなと震える唇でなんとか助けを求める。しかし返事はなかった。
「え……アトス?」
銃口から目を離せないため、後ろを振り向いて確認できない。でも確かに視界にアトスはいないし、後ろにいる気配も感じられなかった。
「ついさっきまでいたのに……どこ行ったんだよ」
唇を噛む黒森に、青沼は不機嫌そうに顔を歪める。
「さっきから、誰と話しているんですか? 恐怖で幻覚でも見ているんですか」
「いや、そのう……」
みちるを庇うように立つ、その足がガタガタ震えている。それを見て、青沼が意地悪そうに目を細めた。
「その少女とは、どういったご関係ですか? 我々のことをいろいろと知られてしまっているようですが」
「いやその、ちょっとした知り合いというかなんというか……その、成り行きで、いろいろと……」
「へえ……そうですか」
ちょっとした世間話をするような返事だが、その言葉の端々に、相対する者を凍りつかせるような冷酷さが滲み出ている。
「黒森さん」
「は、はい!」
黒森は思わず強張った声で返事をした。
「この間あなたに、強盗殺人の計画に加担するよう指示をしましたね。あなたはそれが怖くなって逃げようとしたみたいですが……今ここで、実行役として計画に参加することを改めて約束していただければ、今回のことは許してあげますよ。粛清もしません」
「え! で、ですが……」
「そちらの女の子も、無傷で解放してあげます。今後あなたが、組織の指示に従って動き、都合の良い駒としてますます活躍することを約束してくれるなら。どうしますか?」
「…………」
黒森は黙り込んで、ちらりと視界の隅に目をやる。目を閉じて横たわるみちるの、その呼吸は先ほどに比べて随分穏やかになっていた。
黒森は恐る恐る口を開く。
「……わ、わかりました。そうします。だからこの子のこと、ちゃんと帰してやってください」
そう言って、今更ながら両手を顔の高さに上げる。青沼は唇の端を吊り上げて笑った。
「よろしい。では黒森さん、ついてきてください」
そう言ってくるりと身を翻すと、重たい扉に手をかけ、一歩手術室の外へ出た。
「え、あの、この子は?」
「あなたの返事が信用できることを確認したら、すぐ出してあげますよ。組織の者には何もしないよう指示しておくので、心配はいりません」
「はあ……」
長く暗い廊下をスタスタ歩いていく青沼に、重い足取りでついていく。そう腕っぷしが強そうにも見えないのに、どこか蛇を思わせるこの男には、どういうわけか誰も逆らえない。異を唱えることができない。それは黒森も例外ではなかった。
廊下を進む途中何度も、黒森は背後の手術室を振り返った。
「……頼む、アトス。みちるだけは守ってやってくれ。お前ならきっと……」
◆
青沼に連れられ、あんなに出るのに難儀していたアジトから、正面の玄関を使ってあっさり外へ出ることができた。
人の住む街から隔絶された昭和の遺跡、山奥に忘れ去られた廃病院。久々に吸い込んだ外の空気は、湿った森の匂いがした。空はもうすっかり暗く、月が真上に昇っている。
「あ、あのう。みちるは、あの女の子は、これからどうするつもりなんですか? どっかに放り出すんですか? できればその、ちゃんとした病院の近くとか……」
暗闇の中ひっそりと佇む廃病院を振り返りつつ、黒森がおずおずと尋ねる。
「ああ、それはもう考えてありますよ」
「え?」
青沼はスーツの内ポケットから小さな端末を取り出すと、指先でなにやら操作し始めた。
「あの、それは一体……」
何をしてるんですか、という言葉は声にならなかった。というより、かき消されてしまった。
廃病院から響く爆音と、窓ガラスや打ち付けられた杭を吹き飛ばす衝撃波によって。
「んな!?」
立ち尽くしたままの黒森の頬に、飛び散ったガラスの一部が掠め、血が流れる。しかしそんなことを気にするどころではなかった。
ガラガラと豪快な音を立てて、廃病院の屋根の一部が落ちる。割れたガラス戸の奥で、炎が燃え上がるのが見えた。広がる火が木製の棚に燃え移るのを呆然と眺めているうちに、また爆発音が響く。
「あ、あああ……」
黒森はひっくり返りそうになるのをギリギリのところで堪えて、よろよろと青沼の肩を掴んだ。
「あ、あんた、一体なんてことを……みちるはどうなった! それにまだ、中には組織のヤツらが……」
しかし青沼は眉一つ動かさず、平然と答える。
「ここはそろそろ手放して、厄介なモノもみんな隠滅して、別の場所に移ろうと思っていたのです。まだ中にいる人たちは、まあ……使えないようなのばかりなので。ちょうどいいから、みんなまとめて吹っ飛ばすことにしたんですよ。こんな辺鄙なところでちょっとした爆発が起こっても、誰も気づきませんしね」
「ちょうどいいって、あんたなあ……!」
黒森は思わず我を忘れて、淡々と言い切る青沼の胸ぐらに掴み掛かる。
そんな動きが予想外だったのか、青沼は珍しく目を見開き、手にしていた端末を取り落とした。
黒森は青沼より先にそれを拾い上げる。もう操作できないよう茂みの奥に投げ捨てようとしたところで、鋭い音がした。
また爆発か、と身構える黒森だったが、一瞬遅れてやってきた痛みにより、音の正体が爆音でないことに気づくと、呻き声を上げてその場に座り込んだ。
青沼が持っていた拳銃で、黒森の足を撃ち抜いたのだった。
足を押さえる黒森の元に駆け寄ると、青沼は慌てて端末を拾い上げる。
「全く、油断も隙もない……気が変わりました、やはりあなたも粛清します」
痛みに喘ぐ黒森の頭に、再び銃口が向けられる。
「……ちくしょう」
「何度も何度も、騙される方が悪いんですよ」
顔を邪悪に歪めて、躊躇なく発砲する。わざと少し逸らされた弾丸は、黒森の耳元を掠めて後ろの木に撃ち込まれた。
黒森は思わず悲鳴を上げ、頭を抱え小さくなる。全身の震えがどんどん大きくなっていく。
「みちる……アトス……愛美。ごめん、ごめんな。こんなふうにしか、ならなくてよ……俺、どうしようもないくらい、弱いんだ」
三度目の爆発音と共に、怯える黒森を揶揄うように、再度狙いを外した弾丸がすぐ足元の地面に撃ち込まれた時だった。
ビリビリと鼓膜を揺らす轟音をものともしない、凛とした清らかな声が黒森の耳に届いた。
『強くなれる。限りない想像力が、勇気を与えてくれる』
「……アトス?」
黒森はそっと顔を上げる。視界に飛び込んでくる、こちらに銃口を向ける青沼。
その向こうに佇んでいたのは、アトスではなかった。みちるでもなかった。もう十年も前に失った、愛しい少女の姿だった。
「愛美……」
『お兄ちゃん。お話の続きを、聞かせてよ』
それだけ言って微笑むと、彼女はふわりとその姿を消した。
一瞬の静寂に包まれた世界は、再び爆音と土煙に呑み込まれる。
「お話の、続き……」
ぽつりと呟く。彼女の言葉を反芻すれば、恐怖の波が心からさあっと引いていくのを感じられた。
「……そうだ。悪は倒される。女の子は元気になって、学校に行く。騎士には宇宙人の友達ができる。それから……俺はかわいい妹の加護を得て、めちゃくちゃ強くなる!」
目に光を宿した黒森に、青沼が眉を顰める。
「何をごちゃごちゃと……」
火薬臭い銃口が近づくが、黒森は一切動じなかった。彼は拳を握りしめ、力強く宣言する。
「俺、書くよ。続きを……笑顔のハッピーエンドを!」
そうしたら何故か、足の痛みも吹っ飛んでしまった。
目をギラギラさせて立ち上がる黒森に、青沼はギョッとして一歩後ずさる。
「だから……待っててくれ」
シャツを割いて足の出血口を縛り、手の甲で頬の血を拭った。震えはもう止まっていた。