第二章 一幕 -自責-
一体どのくらい走ったのだろう。
あの凄惨な光景を目にしてから、私は色々な感覚が薄れてきている。
涙で視界がおぼろげながらも、拭く余裕がないほどに、遊馬の手を強く握りしめながら、ただひたすら、樹海の中を駆け巡っている。
...彼女、恋詩は殺された。
あまりにも簡単に絶たれた片腕に、私は反応する余地すら与えられず、ただ恋詩の恐怖に満ちた顔を見ていることしか出来なかった。
最後に元気な彼女を見たのは、取り憑かれるようにけもの道を進んでいく、狂気と快楽に包まれたあの姿だった。
ただ呆然と立ち尽くす自分自身が憎たらしい。
「テントはどこだ...視界が悪すぎて位置感覚が掴めねぇ...!」
遊馬もただひたすら叫び続ける。
何も出来ない私なんか置いておいて、恋詩を助けた方が良かったんじゃ...?
そんな歪んだ思考が浮かんでしまう。
ただ一つ分かるのは、私の精神は今少し、おかしくなってしまっている。
「まずどこでもいい...隠れて休憩出来る場所さえ...。俺はよくても笛吹の体力がもたねぇ...!!」
本当は彼も泣き叫び、恋詩のことを偲びたいのだろう。
遊馬から小さく歯軋りする音が聞こえる。
胸中に浮かぶ感情を、彼は今も抑えている。
私はそんな彼の横顔を覗けないほどに、自責の念に苛まれた。
次第に並び立つ木々が少なくなってくる。
微かに香る潮の匂いに少し希望を見出す。
「私達のテント...!」
地図も無しに、遊馬の感覚だけで進んだこのけもの道。
ようやく私は一息つき、安堵する余裕が生まれた。
はずだった。
「違ぇ...。」
「えっ...?」
「すまねぇ、笛吹。どうか恨んでくれ。俺は...」
走ったことで温まった身体が、恐怖によってまた氷始める。
瞳に写ったその光景は、私達のテントなどどこにもなく、ただ民家が並んでいた。
波の音と一緒に、私の苦手な、大勢の人々の喧騒が鳴り響く。
察することは容易だった。
私達は今。
仇敵の根城に居る。
踊る膝を必死に抑えつけながら、私はひとまず草陰に隠れて息を潜めた。
苦虫を噛み潰すような表情の遊馬の手を握り、二人で傷を舐め合うように息を整える。
喧騒は絶えず、この島に響き渡る。
むしろその規模感は増していき、次第に薄暗い夜景に一筋の炎が灯った。
遠方から覗いていて不明瞭だった集落が、炎の揺らめきとともに鮮明に映る。
その一筋の炎は、乱雑に積まれた木々を燃やし始め、炎はたちまち柱のように大きく燃え盛り始めた。
その炎と同時に、遠くにそびえ立つ塔も光り始める。
塔の頂上に見えるのは、大きく揺れる一つの鐘。
人々が旋律に乗せてなにか唱えだした時、鐘は地が揺れるほど大きく、音を鳴らし始めた。
この異様な光景は、一種の儀式としか形容出来ない。
冷静さを欠いていた私は、あらゆる場所に目を配る。
私の知ってる日本の文化から少し離れた、この島で発展したであろう文明。
どこか古めかしく、40年ほど前に時間が戻ったような印象を受ける。
どの人々からも無人と認識されただけあって、私の住む街で育った文明が輸入されていないのだろう。
ふと、立ち上る炎に視点を移す。
上陸したてに焚いた火を思い浮かべる。
木の弾ける音、空に向かう煙。
その全てにやはり虚しさを覚えた時、火元に置かれた物に気付く。
あれを燃やしているのか、だとしたらあの置かれている物はなんだろう。
そう思った時、私は自分の洞察力を恨んだ。
紐で巻かれたその布には、僅かだが赤い色で染められている。
やがてその布が焼かれ、中身が露出する。
見えたのは、恋詩の首だった。
もはや恋詩とは呼べないほどの姿形をしているが、私には分かる。
分かってしまう。
再び戻された現実から、私は腹からこみ上げるものを、そのまま地面に吐いた。
胃の暴れが止まらない。
遊馬のことを気にも止めず、私は何度も胃の中のものを吐き続けた。
そんな中だった。
「誰だ」
視界を地面から正面に移すと、数多くの人間が私達を覗き込んでいた。
気付かれた。
「枝が邪魔して動けねぇ...殺される...!」
遊馬の声に、私は命の危機を痛感する。
咄嗟に腰元の刃物を手に取った"奴ら"は、静かに、ゆっくりと私達に歩み寄ってくる。
ナイフは私の胸元を向いている。
30メートル、20、10、着実に近づいてくる距離に、私は瞼を閉じ、死を待ち続けた。
「嫌...助けて...!」
口から零れ出た言葉を最後に、聞こえてくる足音がピタリと止んだ。
震えながらもなんとか目を開けると、そこには、全身白の袈裟のようなものを身に纏った男が、私の眼前で佇んでいた。
その男が他の島民に目を配り、うなずく。
変わりゆく状況についていけない中、男は胸元から手ぬぐいを取り出した。
「これは慈悲でも何でもない...。冥仇なす者への粛清は必ず...。」
そう男が小さく呟いた瞬間、手ぬぐいは私の鼻元を覆い出した。
「有鐘!!?お前ら何を...!」
「貴殿もだ、青年。粛清に例外なし...。」
口を無理矢理抑えられても尚、力強く叫び続ける遊馬。
その声は次第に弱々しくなっていき、遂にその声は途絶えた。
聞こえなくなった声を渇望しながら、私は頭が回らなくなっていく感覚を覚える。
徐々に視界がぐらついていき、急激に重たくなった瞼が開かなくなっていく。
あぁ... 私は...
遊馬...
恋詩.........
その名を頭に思い浮かべた時、私の意識は再び、遠い彼方へと消えていった。