79.夜の校舎では不思議なことが……?
「桃香」
「……」
隼人のシャツに縋りついて震えている桃香に呼びかける。
「今のは道具が崩れただけだし」
「……」
「おば……桃香が怖がるようなものは居ないよ」
「……~っ」
一応桃香は頷くものの、単に首を縦に何度も振っているだけで……まだ怯えていることは明らかだった。
「桃香」
もう一度、可能な限り優しく聞こえるような声を意識して呼びかけて。
「大丈夫だよ」
「……!」
「俺がいるから」
そっと、桃香の身体を抱き寄せた。
「もう怖くない」
軽く背中を叩いた手を、昔の桃香が泣いた時をふと思い出してそのまま上の方に移動させて頭も撫でる。
もう片方の手は、桃香の腰を引き寄せたままで、暫くそうしていた。
「まだ、怖いか?」
「……」
桃香の体の震えが止まったのを感じて、そこからもう一呼吸置いて問いかける。
「はやくんは……」
「うん」
「やっぱり、お化けより強いね」
「……そっか」
桃香が返事をくれたことに心から安堵し、その後でその返事の子供っぽさに少しだけ笑ってしまった。
「それは、何よりだ」
「えへ……ありがと」
良かった、と手を止めて身体を離そうとする、けれど。
「だめ……」
「え?」
「もうちょっと……」
ちょっと鼻をすすってからの小さい声ながらも強めの要望に、さっきの怯え様はあんまりにも可哀想だったから……と内心に言い訳を付けて。
「もうちょっとだけ、な」
「……うん」
一応学校だからな、と自戒してから同じことをすると、桃香に甘えるように頬ずりをされる。
「もう怖くないか?」
「うん」
一度顔だけを離して隼人の表情を見た桃香が、もう一度同じ位置に戻る。
「ありがと」
「桃香が泣かないでくれるなら、それで」
「えへへ……うん」
最後に一度、胸に軽く額を当てられて……。
「ここ」
「ここ?」
「ここは、とっても安心できるね」
そんな風に、囁かれた。
「怖いものが……そうじゃなくなるね」
「お化けより怖いものでも、か?」
「うん」
なら良かった、ともう一度だけ桃香の髪に指を通してから色々な名残を惜しみつつ身を離した。
「あ、れ……?」
「どうした?」
電灯を点けた後、手早く崩れたものを直していた隼人の耳に自分が使っていた机の辺りを見に行った桃香の不思議そうな声が届いた。
「見付からないのか?」
「あったんだけど……」
「ど?」
桃香を泣かせかけやがってこの野郎、とばかりにちょっと乱暴に段ボール箱の蓋をしてから桃香の方を見れば隼人も馴染みある生徒手帳を持っていた。
「……えーっと」
「え?」
桃香が、両手に。
「なんで……?」
「こっちのがわたしので、こっちのは落ちてたんだけど……」
自分の物をポケットに仕舞った後、もう一つの方を裏返した桃香が気の抜けた声を出す。
「あ」
「ん?」
「美春ちゃんのだった」
「……そ、そうか」
後でメッセージ送っておくね、と言った桃香が不思議そうな声を出した。
「はやくん、がっくりしてる?」
「……いや、何と言うか」
想像したことを口に出そうとしてから、桃香の顔を見て思い止まる。
「どしたの?」
「いや、ちょっと桃香が苦手そうな話だな、と思って……」
そう説明すると、興味と恐怖の間で迷ったような顔になる。
「えーっと……二辛くらいまでなら言ってみて」
「カレーショップかよ」
思わず突っ込んでから、隼人的には0.5かな……と思うので触りだけ口にする。
「こういうのって……大体俺たちの父さんくらいの代の生徒の手帳を拾う物じゃないのか? って思っただけ」
「はやくん、小説読むの好きだもんね」
クスリと笑って桃香が納得したように言った。
「ははは……まあ」
「でも、これ私たちの時代のデザインだし、美春ちゃんの名前書いてあるよ?」
「だから、例えば、だって」
「そっか、だよね」
頷いた桃香が全く平気そうだったので、もう僅か口が軽くなる。
「まあ三十年に一人くらいなら滝澤さんと同姓同名の人も居そうだけど」
「はやくん」
「あ、ごめん」
抗議するときの声色の桃香に苦手な方面の話題を引っ張り過ぎたかと思わず謝るが、その表情は予想に反して唇を尖らせ頬を膨らませているものだった。
「そういうの、って大抵セーラー服の可愛い女の子でしょ?」
「……え? あ、まあ、そうかもしれんけど」
「……じーっ」
擬音を発音しながらの桃香の物言いたげな目線に、思わず謝る。
「ごめん」
「うん」
じゃあいいよ、と頷いてくれた桃香に手を伸ばしてから、告げる。
「じゃ、そろそろ電気消して帰るか」
「はーい」
小さめの手をしっかり捕まえてから、目を合わせた桃香が頷くのを確認して、スイッチを切った。
「……あれ?」
「はやくん?」
努めて明るめの声で会話をしながら廊下を抜け、一階に降りよう……としたところで隼人は階段を見上げて目を擦った。
「どうしたの……?」
「一辛位だけど、言っても大丈夫か?」
「う、うん……」
しっかりに隼人の手を握り直して身を寄せてから桃香が頷いた。
「……この校舎、三階までだよな」
「うん」
「一瞬、もうちょっと上の階まで階段があるように見えた」
「はやくん」
桃香に頬を突かれる。
「今日は早く寝ようね」
「……だよな」
苦笑いして頷く。
「でも、こんな時間に学校に居たら、不思議な気持ちはするよね」
ちょっとわかる気はするよ……何て言ってくれた桃香と歩調を合わせて階段を下る。
「どこか別の時代のこの学校につながってる、って感じ?」
「そうそう、そういうの」
「迷い込んじゃうにしても、はやくんと一緒じゃないと嫌かな?」
「まあ、一人でよりはいいかな」
勿論そんなの起こられても困るけど、と笑い合って一階に到着した時だった。
「ん?」
立ち止まった隼人に、桃香がリードを引っ張るかぐやのような状態になって体重の差で強制停止させられる。
「どうしたの?」
「何か聞こえたというか……呼ばれた、気がして」
「え……やだ」
一瞬怯えた桃香が、一転ニコッと笑う。
「あ、そっか」
「ん?」
隼人の前に回り込んだ桃香が、もう一度隼人の胸に額を当てる。
「桃香?」
「はやくんったら……わざわざ怖いこと言わなくても、おいで、ってしてくれればちゃんと行くよ?」
「いや、別に、そういう搦め手ではないけど」
「またまたぁ」
妙なテンションの桃香に、最初は甘えたい故なのかと迷ったもののこれは微妙に現実逃避している線が強いな、と判断する。
と、そんな瞬間に。
「……!」
隼人にはさっきよりはっきりと聞こえ、桃香にも聞こえたのか……。
「は、はやくん……」
再度震えながら前から抱き着いて来た桃香の背中に軽く手を回してやる。
「よ、呼んでる……」
「ああ」
その回した手を、宥めるように軽くポンポンと叩いて……ゆっくりと混乱している桃香にも伝わりやすいように口に出す。
「呼んでるな……」
「~っ……」
「滝澤さんが」
「ほえ……?」
「桃香を」
桃香が瞬きした瞬間、さっき通過してきた階段の踊り場に軽い内履きの裏ゴムの着地音がして。
「おーい、桃香」
「……貴女ね、校舎内だしスカートなのよ?」
四段くらい飛び降りた美春と、あきれた様子でゆっくりと一段ずつといった感じの花梨が現れた。
「え? えっ? えー!?」
「つまり、滝澤さんも普通に生徒手帳を忘れて取りに来たわけだ」
「いやー、非常時用のお札を一枚挟んでるから無いままだと落ち着かなくって」
「で、私達は職員室で桃香と吉野君がちょっと前に取りに来たと聞いて追いかけたのだけど……」
「二人は職員室側の階段から二階に上がったから」
「こっちから追いついた、という訳ね」
冷静に状況をすり合わせて確認して頷いた隼人と花梨を他所に、美春が軽く舌を出しながら桃香と隼人に手を合わせる。
「あ、お邪魔したみたいでゴメンね」
「……桃香がこうなる状況を作っておいてそれもどうかと思う」
「も、もぉ……」
桃香は照れればいいのか怖がればいいのか怒ればいいのか……ともあれ盛大にほっとした、といった感じの声と隼人からは見えないもののそうであろう表情で崩れかけていた。
「あ、あれ?」
「落ち着いて」
「う、うん……」
指先から血の色が引くくらい強めに隼人のシャツを握った桃香が手を離すのをゆっくり促して。
「桃香の鞄にだっけ? 瀧澤さんの手帳」
「うん」
いつもの表情に戻った桃香が、美春に生徒手帳を差し出す。
「なんだかちょっと懐かしいかも」
「あ、そうだねー」
「ね、滝澤さん」
「コラ」
「えへ」
何か共通の出来事を思い出しているらしい二人を見ながら。
「さぁ?」
とりあえず花梨に目で伺うものの肩を竦められるのみだった。
「それよりも、吉野君に桃香」
「うん?」
「どしたの?」
花梨がわざとらしく左手を上げてシンプルなデザインの腕時計を示しながら隼人たちに告げる。
「二人が忘れ物取りに行ってから結構経ったって先生心配してたけど?」
「あ」
「……!」
さっきとは別の理由で真顔になった隼人と桃香は、頷き合って速足で職員室に向かうのだった。
「廊下は走っちゃダメよー」
「……貴女がそれ言うのかしら」
浪漫俱楽部大好きなんですが……ここは脱線自重