76.桃のタルトと珈琲と……?
「お邪魔します」
「あら、いらっしゃい隼人くん」
桃香の母親に、上機嫌な表情で迎えられる。
週末、いつも通りに過ごそうか……というイメージでいた隼人に昨晩桃香が囁き声で提案した。
『気分を変えて、明日はわたしの部屋なんてどうかな?』
という流れで、今日は隼人がトートバッグにノートやペンケースを詰めて隣を訪問する形だった。
「学園祭の準備、頑張ってるんだって?」
「ぼちぼち、です」
「桃香は部屋にいるから、そのまま上がってね」
「はい」
頷いた後、それなりに勝手を知っている家の階段に足を掛けた。
「えーっと」
窓からの訪問……はもはや日常になってしまっているけれど、この正規ルートからの桃香の部屋はいつぶりだろうか、等と素で思ってしまう。
冷静に考えればとんだ不届き者だよな……と内心で反省はするものの。
夜に桃香にそっと触れつつ会話するあの時間を無くすることなど桃香は納得しないだろうし、隼人にも無理な相談だった。
「桃香?」
約束通りの時間なのを確認した後、軽くノックして呼びかける。
『はやくん?』
「ああ、おはよう」
『うん……ちょっと、待って、ね』
少し物音がした後、桃香の声に招かれる。
『どうぞ』
「おかえりなさいませ、ご主人さま」
「……!?」
驚きに出そうになった声を、桃香の部屋で出すわけにはいかないと慌てて飲み込む。
両手を揃えにっこりと微笑んで迎えてくれた桃香は言葉遣いの通りロングスカートのメイド服にホワイトブリムを見事に纏っていて……じっと隼人を見つめていた。
「どう……ですか?」
小さな声で、尋ねられるものの。
「なんで……?」
間抜けな問いかけだな、と思う以上の余力が隼人の脳内には存在せず、そんな声しか出なかった。
「ええ、と……真矢ちゃんにお願いして、借りてきました」
「い、いや……出所、ではなくて」
「その、はや…………ご、ご主人さまに驚いてもらいたくて」
桃香が、そっと隼人の方に進み出る……当然、身長の差がある分視線に角度が生まれる。
「駄目、でしたか?」
「駄目……なんかじゃない」
「では、ちゃんとご主人さまのお気に召すようにできていますか?」
普通は見ることのない良く知っている少女のこんな姿と、しおらしく言葉遣いまで改めている桃香に……その非日常ぶりに、奇妙な興奮で眩暈がする思いだった。
「俺の、ため?」
「はい、勿論です」
失礼しますね……と桃香が両手で隼人の左手を胸の前で包んで、囁いて来る。
「変でなければ、褒めてほしいです」
「……可愛らしく、出来ている」
「でしたら……」
隼人が屈めばさえ、その表情との距離を無くせられる、くらいにまで近付いて。
「ご主人さまからご褒美も、頂きたいです」
「!」
思わず飲み込んだ息に、喉が鳴ってしまう音がはっきりと出てしまっていた。
痺れそうな空いている右手を桃香に伸ばして……良いのか? と問おうとした瞬間、桃香が目をぎゅっと閉じながら言った。
「あ、で、でも……借りものなので服に皴が残っちゃいそうなのとかは、ダメ、です、から!」
三分後。
「……危なかった」
床に突っ伏しながらようやく整った息で小さく呟く。
「あ、あの……」
「ん……」
「だいじょうぶ?」
格好はそのままで隣に座った桃香が、接し方の部分は戻して心配そうに覗き込んでくる。
「ちょっと大丈夫じゃなかったかもしれない……」
あの瞬間、確実に頭の中で箍やら螺子やらが弾けて外れていたのが自覚出来ていた。
「えっと……」
桃香がスカートの膝の辺りを握りそうになってから、慌てて離し……所在を無くした手が隼人のシャツに辿り着いてから、囁くように尋ねてきた。
「ちゃんと、できていたよね?」
「……見ての通りだよ」
過去最大級に揺さぶられてしまっていた。
「そっか、よかった」
「……」
「効き目、あったみたいで」
どちらかと言うとそれは劇薬に使う類の「効き目」じゃないだろうかと隼人は思う。
嬉しそうな桃香の額をほんの少し抗議の意味を込めて、軽く指で押す。
「桃香」
「うん」
「こういうのは……反則、って言うんだ」
「わたしが思ってるより、いっぱい良かった……ってこと?」
「だから、滅多なことをするな……って事だよ」
「……はい」
少々本気で言うと、桃香は大人しく頷いた。
「滅多じゃない時以外は、しないね?」
「……またやるつもりなのか」
「はやくんにたくさん効いて欲しいときには、しちゃうかも」
「どんな時だよ」
「……それはないしょ」
悪戯っぽく……あと、満足気に笑った桃香が続ける。
「あと、戻しちゃう前にだけど」
「ん?」
「今日の珈琲だけは、お給仕させてね?」
それに関しては、一切の異議無く頼める隼人だった。
「はい、どうぞ」
「うん」
桃香がそっと前に置いてくれたコーヒーカップとカットされた桃のタルトが乗せられた皿から視線を上げると、微笑みで返される。
最初のインパクトは流石に落ち着き、何より桃香が普通の調子に戻してくれているので、平穏な気持ちで普通に見たなら……これはこれでいいな、と思えるくらいのシチュエーションだった。
「桃香の分は?」
「わたしは今メイドさんなのと……」
「と?」
一瞬迷った桃香が、頬を軽く染めて付け加える。
「万が一クリーニングに、ってなると……たいへん、だから、ね」
「……そうだな」
貸した特殊な服が洗濯必要な状況に……あらぬ誤解を招きかねない。
ついでに言えば二人の家が御用達しにしているクリーニング店も、同じ商店街の中にある昔ながらの腕利き店舗のため、非常によろしくない。
「ええと……いただきます」
「うん」
話題を変えるのにちょうどいい、とばかりにカップに口を付ければ苦めの味が今の心境にも合っていた。
その後、タルトを一口食べればまたふわりとした甘さに満たされる。
「おいしいくできてるかな?」
「ああ……」
春に再会した後、からの時期だけでも桃香が腕を上げているのはわかるくらいだった。
「ほんとは、オムライスとか作ればよかったんだけど……お部屋に持ってくると変、だもんね」
「……」
「はやくん?」
トマト味のハートマークを連想してしまう、けれど濃い目の珈琲で脳裏から追い出す。
そして、その間中桃香の方から感じているものを指摘する。
「ただ、あんまり見られながらだと……その、食べにくいんだけど?」
「だって……メイドさんだし?」
「……ん」
ならば仕方ない、のか?
「はやくんはやくん」
「何だ?」
「ほっぺにクリーム、付けてもいいからね?」
期待に満ちた瞳で見られる、も。
「やれと言われると逆に難しいって」
「だよね」
「ご馳走様」
「はい」
珈琲もタルトも空にして手を合わせれば桃香が満たされた笑顔になる。
「じゃあ、えっと……」
「うん?」
「着替えようと思うんだけど、ね」
衣擦れの音の後、耳元で囁かれる。
「お写真、とかはどうしよっか?」
「……はい?」
「残さなくても、いいの?」
「!」
「どう、する?」
「…………」
「……はやくん?」
「……欲しい」
「え?」
「桃香のその恰好を、写真に残したい」
葛藤は長考ではなく口にするか否かの迷い、だった。
「……うん」
考えれば桃香からの提案だから問題はない筈だが、頷いて貰ってほっとする。
も、束の間。
「えっと……」
「桃香?」
「ポーズ、はリクエストある?」
桃香が小首を傾げながら。
「ぽぉず!?」
「たとえば……」
ぎこちない仕草ながらも、指でハートを作られてしまう。
「こう、とか?」
「ぐっ……」
「はやくん?」
「普通、で」
「ふつうでいいの?」
「それと……両方、とか言ったら、どうする」
「もちろん、大丈夫だよ」
にこりと笑って、指の形を微調整する桃香だった。
「変じゃないように撮ってね?」
「……ん」
「これで、オッケー……かな」
隼人が問題なければ、と渡した写真も全て確認して桃香が笑う。
「ウィンクも練習通りちゃんとできてる」
「……したのか」
「はやくんには、可愛く見てほしいもん」
「そっか……」
手渡したその手で、隼人の手に触れながら桃香が小さく注意をしてくる。
「誰にも、見せちゃだめだよ?」
「……見せられるか」
多分、明るみになった時のダメージが大きいのは隼人の方。
「じゃあ、えっと……今度こそ、着替えるね」
「あ、ああ……」
「やり残したことは、ない?」
また、思わず咽てしまう隼人。
「大丈夫……だ」
「ほんとに?」
「本当」
これ以上は本気で大丈夫でなくなる、気がした。
「えっと、それじゃはやくん……こっちから一回お部屋に戻れる?」
部屋が向かい合わせになっている窓を、桃香が示すも。
「え? ……鍵、かけてるけど」
「あ……そ、そっか」
「こんなタイミングで戻るなんて思ってなかったし」
「だよ、ね」
表情と指先をあわあわとさせながら何かを考えていた桃香が……思い切った顔をして提案、してくる。
「はやくん……」
「あ、ああ」
「あっち、向いていてくれる……よね」
「そ、そりゃあ……できる、けど」
「じゃあ……絶対、ね」
勿論だ……と言いかけて、ようやく気付く。
「い、いや……普通に部屋に戻って又来るし」
「え……何か、変じゃない?」
「忘れ物したという体なら何とでもなるだろ」
「あ……そ、そうだよね」
二人して。
絶対に秘密だという気持ちのせいで普通の選択肢が抜け落ちていた。
「じゃあ、その……忘れ物探すのに一五分くらいかけて戻る、から」
「一〇分くらいで、大丈夫だよ?」
「わかった、そのくらいで」
ドアノブに手を掛けた隼人に、頷いた桃香が、あっ……と声を出す。
「どうした?」
「えっと……もうちょっとだけ、待って」
「え?」
髪と長いスカートの裾をふわりとさせて桃香がもう一度至近距離に来て、隼人の胸に手を触れさせる。
「お帰りを、待っています……ね」
もう一度、惑いそうになる声と言葉遣いで耳打ちされる。
「いってらっしゃいませ、わたしのご主人さま」