66.此処でも「お隣さん」
先程は少々慌てて置いた机を真っ直ぐに整えつつ新しい席に着きながら、想定していたより大きく視界を占める黒板に一番前だとこんな風に見えるのか、と素朴な感想を抱く。
「?」
そうしていると、横からの視線を感じて……そちらを見ればまだまだ新鮮な構図の中で桃香が頬杖をついて鼻歌でも流れてきそうな機嫌でこちらを見ていた。
「どうした?」
「ううん、なんでもないよ」
「そうか」
「うん、そうなんだよ」
そう言った桃香の目が細まって、ふにゃりと笑みに溶ける。
「えへへ……」
そんな桃香に、隼人も思わず頬が緩むのを感じてしまう。
「はやくんこそ、どうしたの?」
「……何でもないって」
「ほんとに?」
「本当だよ」
「委員長、アレ、どーすんの?」
「どう、って?」
「あんなの最前列に居たら絶対、苦情が殺到するのが目に見えてね?」
「何なら今からでも『アレずっと見せられるのかよ?』って感じだけどよ?」
「!」
現在は背中を向ける状態になっていた教卓の前で蓮と勝利が花梨に言っている言葉を聞いて、反射的に桃香の視線を外して真正面を向き姿勢を正す。
桃香の方も残念そうに頬を膨らませはしたが、流石にここは大人しく席に座っていた。
「具体的には?」
「そりゃあ、隼人を三コマばかり下げる、とか?」
蓮の提案に一部の男子から賛同の声が上がる、が。
「おう、池上」
「何だよ、結城」
「せめて、二人ペアで下げとけ……」
「お?」
じゃないと……と勝利が指で示した方を向いた蓮が琴美たちをはじめとする一部の女子の物言いたげな視線の集中砲火を浴びて、もう一度花梨の方に向き直って、言った。
「撤回します」
「はい」
こえぇよ……と呟きながらも大人しく宣言した蓮に、花梨が涼しい顔で頷いた。
そんな蓮の肩を叩きながら、勝利が言う。
「つーか、吉野がどうなろうと知ったこっちゃないけど、綾瀬に悲しい顔をさせるのは気が引けるよな、吉野は別にいいけど」
「確かにそうだ」
な? おう! と理解し合って二人で頷いている中、一応と花梨が聞く。
「結城君も良いのね?」
「俺だって女子から睨まれたくねぇよ」
「まあ、生憎、視力以外の理由での変更は先生から許可が出てないしね?」
「勉学に支障が出る場合はどうなんだ?」
「さあ? そこまでは先生想定してないんじゃない?」
肩を竦める花梨に、頭を掻きながら勝利が続ける。
「って言うか」
「言うか?」
「よく考えれば吉野がイチャイチャしなきゃ問題ないんだ」
「だな!」
別にしていない、と言いたい隼人だが……桃香以外の女子と自然に手を触れ合わせることとか視線を合わせて笑い合うことがあるかというと、それは無いので否定はできない。
というか、何で俺だけ? と素朴な疑問を抱くが。
「それは桃香にそれを求めるのは酷だからよ」
桃香の後ろの席から美春がコメントしてくる。
「あ……滝澤さん」
「何? その、居たの? って顔」
「いえ、別にそういう訳じゃ……」
とは言いつつも、確かに今の今まで気付いていなかった。
「あたしが小さいとでも言いたい訳かな?」
「い、いえ……そんな、決して」
「じゃあやっぱり桃香しか見てなかったんだ」
そんなことはない、とは言わせて貰えそうになかった。
「美春ちゃん美春ちゃん」
「どしたの? 桃香」
「わたしも、言いたいことあるんだけど……」
手を上げて桃香も美春に挑む、ものの。
「桃香、吉野君が隣の席で良かったじゃん」
「え? あ、うん」
「今の感想をドウゾ」
「とってもうれしい」
「はい、そういうところ」
「あ、あれ……?」
にっこり笑った後、不思議そうな顔に変わって……隼人同様に瞬殺されていた。
「まあ、そういう訳なのと……私は貴方達の苦情窓口になる気はないから」
タイミングを計っていたのか、花梨が隼人と桃香を交互に見て微笑んだ。
「幼馴染だろうが恋人同士だろうが自重してね? 二人とも」
一連の話が終わって、やれやれとばかりに勝利と蓮が席に着くが、その位置は隼人の隣とそのまた隣で……教卓の真ん前だった。
先ほど真っ先に絡まれたのにも理由があったらしい。
「おちおち居眠りもできないな、ここだと」
「良かったじゃねーか、勉学に励めて」
見かけに反して授業態度が良い勝利と、学校生活の比重が大分部活に注がれている蓮だった。
そんな二人を横目で見ながら、一仕事終わったかしらね……と言った雰囲気で肩にかかった髪を整えていた花梨に話し掛ける女子が一人。
「あ、あの……伊織さん」
「あら? 瀬戸さん」
今日だけわざとな桃香と違い、普段から眼鏡姿の大人しい彼女が遠慮がちに教卓のところに居る花梨に届け出ていた。
「私、一番後ろだとさすがに支障があって」
「ええ、わかったわ」
花梨が頷くや否や、蓮が手を上げる。
「俺、変わるぜ!」
「ここでも良いぞ?」
次いで自分の席を指差した勝利に花梨がコメントする。
「二人とも目は良さそうだものね」
「目『は』って何だよ、伊織」
「すっげー含みを感じる」
「いいえ? 別に?」
そんな風に花梨と話していた勝利がついでに思い出した、と隼人を差す。
「あと、そこに両目の視力2.0越えが一人居たな」
「え?」
絶対に立候補する気はなかったというか、そんな発想にすらならない隼人なので突然の流れ弾に驚く、が。
「そ、そこは、絶対に無理、です!」
両手を全力で振って由佳子が辞退していた。
「……そうですか」
「ですって?」
「よかったね、桃香」
瀬戸さんからも、つまりは普通のクラスメイトからもそんな扱いなのか、と複雑な思いをさせられながら、桃香が反射的に自分のシャツに伸ばしかけた手をそうっと引っ込めていたのには気付かないふりをする隼人だった。
花梨と美春も気付いていて、花梨は意味深に、美春はニヤニヤと桃香を見ていた。
「っしゃ、短い付き合いだったな、結城」
「はっ、清々するぜ」
そんな隼人と桃香の反対側で、蓮と勝利はわざわざ席を蹴って立ち上がり、大きく手を振りかぶっていた。
「「最初はグー」」
「ぐあぁぁぁぁ」
「じゃ、精々勉学に励むんだな」
大袈裟に席に突っ伏する蓮を置いて、よく見ると勝ち誇った表情で教壇の前から去って行った勝利だった、が。
「いらっしゃい、しょーり」
「隣お前らかよ!!」
「そうだよ、お久しぶり」
「全然久しぶりじゃねえよ」
「……こっちは比較的無害だと思うんだけどな」
一番後ろで友也と誠人に挟まれて頭を抱えていた。
「良かった、んでしょうか?」
そんな様を見ながら呟く由佳子に。
「全く気にする必要ないわよ」
「そうそう、あの二人仲良しだし」
「……吉野君って、たまにいい度胸してる時あるよね」
「な」
花梨と隼人がフォローし、美春と蓮がコメントしていた。
「じゃあ……よろしくお願いします」
「こちらこそ」
「よろしくねー」
よく一緒にいるグループの近くに混じるので委縮しているのかな……と隼人が思ったところで、由佳子に窺うように見られる。
「えっと、瀬戸さん?」
「その……吉野君と綾瀬さんのお邪魔にはならないようにしますので」
「べ、別にそういうことを言いたい訳じゃ!」
「ないからね?」
慌てる隼人と桃香に「どうなんだか?」と呟いた花梨が以前とは一つ横にずれただけの隼人の後ろに座った。
「姉夫婦で慣れてますから……」
「いえ、だから、瀬戸さん?」
さすがにそこと比べられるほどではない筈だ、と焦りながら。
でも、やはり。
「?」
桃香が近いのは嬉しいな、と内心では拳を握って。
多分桃香の方が強く引き寄せた幸運に感謝した。