50.帰宅
「これで最後ね」
「ん」
桃香から渡された皿の水気を拭いて、水切りの籠に入れる。
昨日の夕食の準備を殆ど悠たちに任せることになったペナルティーで今日の朝食一切は隼人と桃香で片付けまで全部することになっていた。
駆け足で戻りながら、いっそのこと本当に桃香を抱いて走った方が早いんじゃなかろうか……とか考えたりもしたが。
ともあれ、その使命感のためか今朝は普通に目覚めた桃香とキッチンであれやこれやするのはちょっとだけ楽しかった。
「はい、お疲れ様」
一息どうぞ、と彩が牛乳をたっぷり目に使ったカフェオレを差し出してくれる。
「この牛乳、美味しかった」
「牧場が近いので鮮度が違いますからね」
桃香と彩が頷き合っているのを見ながら、確かに三日間だけど毎朝お世話になったこれも名残惜しいな、と思う。
「お昼ご飯の後、もう少ししっかり片付けないとだね」
畳んで膝に乗せているエプロンを触りながらそう言った桃香に悠が軽く手を振る。
「父様がもう二日残って仕事していくからそこまで頑張らなくていいよ」
「そうなんだ」
「お仕事大変そう」
素直な感想を述べた隼人と桃香に、カップの中身を口にしてから悠が「いや……」と付け足した。
「単に母様が私達に言っている日程より一日早くサプライズで旅行から帰ってくるのを見越して一人で待ってるだけだから」
「わぁ……」
砂糖を半匙追加していた桃香が感嘆の声を上げていた。
「仲良しで、いいなぁ」
「……」
そんな隣からの言葉に殊更反応は示さずにいる隼人にテーブルの向こうから「自分たちのことをどこの棚に上げていますか?」という視線が二人前で届く。悠は口元を押さえながら、彩はいつもの澄ました顔で。
多分、桃香はそんなつもりはなくてただの感想なんだろうな……とは思ったものの、シュガーポットに蓋をしてから戻って座り直した位置が、さっきまでよりほんの少し隼人寄りなような気がした。
「まあ、なので」
もう一口、カフェオレを飲んでから悠が宣言する。
「お昼までは自分の荷物の片付けをしつつ、周りで楽しんでいてくれればいいよ」
「まあ、そうは言われても」
「きちんとしておかないと、ね」
あの後、二人でマイケルの散歩に出て戻ってから、箒と雑巾を借りて自分たちの部屋とその前の廊下くらいは、と掃除を始める。
近くのドッグランもある……というかドッグランもあった昨夕の公園まで行って到着後手はリードを外しつつ顔はこちらを見ながら「いってらっしゃーい」と桃香に手を振られながら言われた時は思わず俺は犬じゃない、と突っ込んだが。
「あの時の場所はもうわからないけど……」
「うん」
「わたし、あの公園の場所は覚えちゃった、かな」
「そう……だな」
しっかりと記憶に残るな、とは隼人も認める。
桃香を抱き上げた感触も含めて……思っていたより華奢で軽くて驚いたが。
「まだ、帰りたくないな」
「そうだな」
勿論ずっとこのまま滞在するわけにはいかないのを承知の上で、二人とも言っていた。
「楽しかったもんね」
「ああ」
頷いた隼人が窓を拭き終わるタイミングを待っていたのか、傍に来た桃香が隼人のシャツの裾を引いた。
「廊下はもういいと思うよ?」
「ああ、そうだな」
「じゃあ、次はお部屋ね」
「……それぞれのところをするか?」
「もう荷物は片づけてあるから……二人で一気にやった方がいいと思うの」
ね? とまずは自分の使っていた方の部屋のドアを開けつつ桃香が手招きをした。
「それに、話しながらが楽しいもん」
「こんなもの、でいいかな?」
「うん、いいと思うよ」
リクエスト通り他愛もない話をしながら、最後に窓のサッシを拭き上げて桃香と確認する。
「あとはもう一部屋」
「だけど、一休みしよ?」
「ああ、丁度いいな」
窓から離れ雑巾を置いてから軽く腕を上にあげて肩と背中を伸ばす。
「高いところ届いて便利だね」
「まあ、な」
そのままそのまま、と箒を壁に立てかけた桃香が目の前にやって来て軽くジャンプして揚げたままの隼人の手に指先でチョンとタッチする。
その動きでふわっと舞った髪はいつも通りの良い香りだった。
「えへ」
何がそんなに、とも思ったけれどご機嫌は上々の模様だった。
そんな桃香を見ながら、自分の体勢が丁度似ているから話題を繋ぐ。
「帰って、明日は延々と飾りの取り付けかな」
「お祭り、明後日だもんね」
「ああ、だから」
帰ってからも楽しいことはまだまだあるから、とさっきのハイタッチのせいで丁度目の前にあった桃香の頭を軽く撫でようとして……そのさっきの前まで行っていたことを思い出し思い止まる。
言葉だけで宥めることにした。
「だから、そんなに寂しそうな顔するな」
「……ぶー」
「何だ何だ」
「今のははやくんがしてくれなくて寂しい顔」
「……掃除していた手でそんな綺麗な髪には触れない」
「……じゃあ、かわり」
喜んでいいのか残念なのか、という顔をした桃香が隼人の胸に頭を押し付けて何度か擦り付けた後、多少満足したのか離れる。
「……困ったな」
「え? いやだった?」
しょげる桃香の表情に慌てる。
「そんなことはないけど……向こうでうっかり桃香の方に手が出ないように気を付けないと」
最初はもうちょっと躊躇いも有った筈なのに……今となっては自然と手を伸ばす、になっている。
これが幼馴染の範疇かと問われれば、相当強引に行けば納められそうだけれど、苦し過ぎる気がした。
「えーっと、うーん……」
かなり葛藤した後、桃香も同意した。
「そうかも」
「な?」
お互い頷いた後、それを踏まえた言葉が同時発進した。
「気を付けろよ、桃香」
「気をつけてね、はやくん」
「……」
「……」
しばらく見つめ合った後、先に桃香が口を開いた。
「実際に触ってくれるのははやくんだもん」
「……桃香が要求してるのが要因だって」
それに容易に応じているし楽しんでいることは全く触れずに言い切った。
「むー……」
「だろ?」
「じゃあ、もうさわ……」
触れない、という選択肢が出かけて桃香が寸前で思い止まる。
そうなると互いに欲求が満たされないという不毛な争いなので止めようとした隼人もこっそり胸を撫で下ろした。
「よし、なら、こうしよう」
「?」
「誰かの前でしてしまったら、原因の方が罰ゲーム」
言ってから、頭の片隅で何を言ってるんだ俺は、と思ったりもしたが。
「うん、受けて立つよ!」
桃香が想定以上に食いついて来たので引っ込みがつかない。
それで、と桃香が尋ねてきた。
「負けた方は、どうなるの?」
「……そのときのやらかしの度合いで相手が決める」
「うん、わかった」
両手を握って頷いた桃香を見ながら、隼人は思う。
言ってみたものの……多分これはお互いがやらかした上で、なあなあで決着がつかない争いになりそうだな、と。
そして何より、七夕の翌日の焼き直しだった、と。
「じゃあ、気をつけて」
帰りの電車はわかりますね? と言いながら、帰路が分岐する駅で彩が小さく手を振った。
「桃香、寝落ちするなよ」
「はやくんがいるから大丈夫」
「おい」
「隼人、ちゃんと桃香を連れて帰るんだぞ」
「わかってるって」
「えへ」
いつもの調子の悠の言葉に隼人は渋い顔で答えて桃香ははにかんだ。
「隼人、桃香」
そして悠が二時間ほど前、駅まで送ってくれた父親と同じ表情と台詞で笑った。
「また、来年の夏もおいで」
そして。
「来年の夏も、だって」
「ん……」
帰宅後、片付けから色々なことを済ませた夜……自分の部屋の窓に腰掛ける隼人を見上げながら、桃香が笑う。
「一緒に、行くよね?」
「……それまでに桃香に嫌われてなければ」
「じゃあ、大丈夫だね」
「そっか」
にこりと断言されてしまっては、迷いのなさに苦笑いするしかなかった。
「来年の夏は……どんなわたしたちかな?」
「とりあえず……」
一応は桃香の部屋に入るのを最低限に自重している関係で、桃香の肩にかかっている先にだけ小さな波の有る髪に触れる。
「桃香がそう言ってくれるんだから、一緒にいるだろ」
「……うん」
頷いた桃香の表情が問いかけてくる。
「俺も、そうしたいし」
「えへ……」
くすぐったそうな、くすぐったくなる笑顔がもう少し隼人寄りの位置に座り直した。
「今は……」
「ん」
「二人きりだからいいんだよね?」
「誰も見てないからな」
軽く桃香の頭に触れて、触れるだけでなく髪を少し梳いたりもした。
「どうしよう」
「……何が?」
「もう、こうしてもらわないと寂しくなるようになっちゃった……かも」
「それは困ったな」
絶対ではないのだけれど、可能な限り。
苦笑いは七割、桃香と同じことをひそかに考えている自分に向けてだった。
「困っちゃうの?」
「少なくとも雨の日は無理だから」
「……それは、がまんする、ね」
てるてる坊主、と呟く桃香に同意する。
「少なくとも」
「も?」
「明日明後日は晴れてくれないと、だな」
「うん、そうだね」
じゃあ、おやすみ……と至近距離で言い合った後。
自室に戻って向こうの窓にそっと手を振った後、住み慣れた部屋の布団に寝転がって旅行の余韻と思い出に浸ることにした。