48.朝のサービス
目覚めたときの自分の身体に対する第一印象、というのがある。
昨日は旅疲れからか深く眠っていたなというところだったが、今日はそれを更に強くした感じで……早い話が寝過ごしてはいないものの結構いつもに比べて遅い、ということだった。
それを時計を見ることで改めて確認し、この時間ならば昨日意気込んでいた桃香ももしかすれば起きている頃では? と思った。
確か、朝一番最初に……という約束だったな、と思い出したタイミングを狙ったかのように部屋がノックされる。
それがとても喜ばしいことに感じられてベッドから跳ね起き、シャツの首元に風を通しながら手櫛で頭を擦った。
「今、開ける」
そう言ってスリッパを引っかけてほんの少し、ほんの少しだけ急いでノブを回して引くと。
「……え?」
「ん?」
「あら?」
居る筈もない、というと語弊があるものの正直頭の中の世界には桃香以外存在しなかった隼人には想定外の悠と彩と目が合う。
「……」
「……」
「……」
自分が固まるのはまあわかるが、出てくる相手がわかっていた筈なのに何故に悠も彩も面食らった表情をしているのか……と思ったところに一つの考えが浮かび、大失態を痛感する。
「……」
取り敢えず無言で扉をそっと閉め、昨日まで一切使っていなかった鍵を慌ててかけて膝から床に崩れ落ち額を押さえる。
そこまでいったところで漸く廊下の二人が声を出した。
「隼人って……」
「……ええ」
「桃香と二人だけの時は」
「……あんなに甘い表情を、してるんですね」
聞いたことのない、強いて言えばおふざけでヒロインのような声を出した彩に近い声色の二人の声に、いっそのこと大爆笑して貰えたなら救いがあったのに、等と思う。
少なくとも素で感想を言われたくはなかったし、そのまま沈黙されるのももっと辛い。
「……」
隼人の方から何か言うべきか、と言葉を探そうとするもこんな場合に何と言っていいかもわからないし、そもそもさっき軽く言葉を発したのは桃香相手だと思ったから何とか言い訳するとして今ここで悠と彩を相手にして声を出すのは憚られる気もした。
他愛もないことと言ってしまえばそれまでだけれど、きっと残念がる桃香の表情はさせたくない顔だから。
そんな風に色々と迷っていると、年長者としてか悠の声がした。
「今のは、無かったことにしておくか」
返事のできない隼人の沈黙を肯定と取ったか続きが届く。
「先に桃香を起こしてくる」
そうして二人分の足音が一旦は隣の部屋に向かって行った。
五分後。
「駄目だ、桃香起きない」
漏れ聞こえるノックや呼びかけから想定は出来ていたが隼人の部屋の方まで戻って来た悠の声に軽めとはいえ意を決して廊下に出た。
「おはよう、隼人」
ほぼいつも通りに戻っている悠に頷いて返事とすれば「ん?」と首を傾げられる。
「だから、さっきのは忘れろと……それとも喉でも痛いのか?」
それを聞きつけたのか桃香の部屋の前に居た彩もこちらにやってくる。
「隼人、調子が悪いのですか?」
こういう時は真剣に心配してくれる彩に、首を横に振る。
「おや?」
「なーんか怪しい」
「というか、変ですね」
指を顎に添えつつ首を捻った彩が「ああ」と思い付いた顔をした。
「そういえば」
「ん?」
「昨日、隼人が桃香が起きる前に外に出てしまっていて残念がっていましたね」
一番最初におはようが言えなかった、と。
「おお、そういえば」
そういうことか、と二人で頷いてから呆れたような表情で隼人の方を見てきた。
「つまり、桃香が起きるまでしゃべらないつもり、と」
「隼人も桃香も変に意地っ張りなところありますからね」
ごめんなさいその通りです、というつもりで手を合わせてから頷く。
すると悠が溜息混じりに隼人の頭を小突いた。
「やれやれ……初々しさが薄れてきているな、とは思ってたけどそろそろ馬鹿の領域だったなんてな」
そんなことはない、と一瞬だけ目線で抗議するものの結果として馬鹿なこと、というか子供じみたことをしていることに関しては自覚があるので二重の意味で沈黙するしかない。
「まあ、桃香の嬉しそうな顔には敵いませんからね……私達でさえそうだから隼人なら尚更でしょう」
「それはそうなんだが……あ!」
彩の言葉に深く頷いた悠が、一気に晴れやかな顔で声を上げた。
晴れやかだがどこか不穏なものも感じる隼人の心を彩の「あら悪い顔を」という呟きが代弁してくれた。
「じゃあ、桃香にはサプライズを用意するか」
「?」
ビシッという音が聞こえそうなくらいに伸びた細い指先が隼人の鼻先に突き付けられる。
「隼人、桃香を起こしてきて」
「!?」
思わず出そうになった「何で?」という声を堪えながら必死に右手をワイパーにして抗議する、も。
「だって、私達が直接起こしてうっかり『おはよう』なんて言わせたら桃香の望みが叶わないだろ♪」
「それは確かに」
「まさか桃香の口を塞ぎながら起こすなんて可哀想なこと、私達にさせるのか?」
「それはやりたくありませんね」
「じゃあ、そういうこと、で」
ヨロシク、と片目を瞑った悠が軽く言い放った。
「昔みたいに頬にでもキスすれば起きるだろ、王子様」
それは桃香から、しかまだない……とも言えず。言ったとしてももう聞こえないとばかりに悠はもう背中を見せて歩き始めている。
「今朝は和食の気分だな」
「ワカメと豆腐のお味噌汁ですね」
「さっすが彩、わかってるな」
やれやれ、と言った感じに悠を追う彩も、頑張って、と手を振る以外のことをするつもりはなさそうだった。
「桃香、入るよ」
もうこれで起きてくれたなら、と声は控えず桃香の部屋に入る。
まあ、そのくらいの物音で素直に目覚めてくれるのなら端からこんな話になってはおらず……隼人が使っている部屋とは左右対称に配置されているベッドをそっと窺う。
「……」
まだカーテンが引かれたままの薄暗い部屋で静かに瞼を閉じている桃香の表情はとても穏やかで暫くの間このままでも、と思わなくもなかったが、今は時間が完全に二人だけのものではないのもわかっているので。
思い切りカーテンを開けて朝の光を招き入れる。
一気に明るくなった部屋でも桃香は睫毛を少しだけ震わせただけ、で……ただ、その反応の仕方でさっきから疑っていたことを確信する。
「桃香」
「……」
「起きてるだろ?」
今度は僅かに頬の辺りが動いたような気がして改めて間違いないなと考えるが……ここまで来たならこのまま素直に目を開けてくれるとも思わなかった。
「桃香」
シーツから出ている華奢な肩を軽く叩くが勿論反応はない……というか、しない。
これで駄目なら、ともう一度口を開く。
「さっきの廊下の……聞こえていたか?」
「……」
「起きなかったら……するぞ」
昨日桃香がしていた様にベッドの傍に膝を付いて距離を詰める。
ふわりと香る桃とミルクが甘かった。
「いいのか?」
と口にしながら人差し指を立てて……ふと思い立ち、自分の口に触れさせてから桃香の頬にそっと押し付けた。
「ん……」
完全に反応した後、それでも自分の望んでいたことではないとでも言いたげに強情に目を開けない桃香。
隼人が頬に触れる前にしたことは当然知る由もない。
「まだ起きてくれないのか?」
「……」
「それなら、頬以外のところに、本気でするしかなくなるんだぞ」
そう言ってから少し待って、膝立ちになり、自分の身体と桃香を挟んで反対側の方に片肘を付いた。
「本当に、良いんだな?」
最後は囁くように言って、それから桃香の方に身を屈め……。
「桃香?」
「や、やっぱり……はやくん」
ちょっと待って、と口にした桃香に構わず。
「もう遅い」
距離を無くして、額同士で小さく鈍い音を立てた。
「はやくん、ひどい」
「……そうだな」
「はやくん、いたい」
「ああ」
「はやくんのいじわる」
一言ごとに枕でぽすんぽすんと叩かれながら、ベッドサイドで胡坐をかく。
「わたし、覚悟を決めようと……したのに」
「待って、と言ったのは桃香じゃないか」
「……ダメって、言ってないもん」
「……!」
「ダメじゃなかったのに」
涙目になった桃香と目が合って、逸らしながら頭を下げる。
桃香も枕を膝に下ろした。
「ごめん」
「うん……」
「ただ、その、誰かに煽られてするのは……絶対違うので」
「それは……うん」
「からかうみたいになって、ごめん」
直接見ずに探したので少し手間取りながらも桃香の手を握る。
「わたしも……」
桃香もその手を握り返してくれた。
「お願いするみたいなことはしちゃってたから」
「ん……」
しても、良かったのか……と心の中でだけ呟く。
「その、もう少しきちんとしたタイミングで……いずれさせてもらうつもりなので、その時はよろしく」
我ながら何を口走っているんだ、とは思うものの、桃香はしおらしく頷いた。
「……はい」
「……」
「こちらこそ、よろしくね」
「ん」
何の予約を? と自分で突っ込みながらももう一度桃香の手を撫でて、離す。
「その、そろそろ着替えて下に行くか」
「うん」
そう返事をした桃香の視線に気付いて、そちらの方を振り返る。
「いっしょに、行くよね?」
「ああ」
「じゃあ、わたしが終わったら呼びにいくから」
「ん、わかった」
「桃香?」
「うん」
男子高校生の着替えなどほぼ一瞬で済ませてベッドに腰掛けてそのノックを待っていた。
確認すればさっきみたいな事故はなかったのにと思いながら立ち上がろうとすると。
「入っても、いい?」
「ん? 勿論いいけど」
「お邪魔するね」
普段より素早く部屋に滑り込んできた桃香が小首を傾げる。
「どう、かな?」
「どうって……」
ポニーテールと合わさって男子の性か首筋や肩口の白い肌に視線が引き寄せられて……その感覚は記憶にあって、思い出す。
確か、GWの時に。
「あの時の?」
「うん、はやくんが褒めてくれた服」
褒めたというには随分と下手な言い回ししかできなかったことを覚えていた。
「買っていた、っけ?」
「次の日、こっそり買ってきたよ……びっくりさせられたら、楽しいかなって」
「……そう、なのか」
確かに驚いたけれど、と小さく呟くと桃香は得意げに笑う。
「夏のためのお買い物だったからね……あ、ちゃんと二人じゃないときはもう一枚羽織るから」
「……それは、そうして欲しい」
「うん」
二人じゃない時はそうなのか、と反芻してしまう……確かに鎖骨の曲線や白い肌が美味しそうで大変に困る格好だからそれに越したことはないけれど。
そんな隼人に顔を近付けて桃香が囁いた。
「今日はのんびりの日って決まってたよね」
「ああ」
「いっしょにいていい?」
「……勿論」
あともう一つお願いがあるんだけど、と桃香が付け足した。
「夕方、二人でお散歩しよ?」