40.小麦の香りの朝食を
「もしもし?」
入浴を済ませ、熱が引いたら旅行鞄の中身を最終確認しようか、そう思ったところで入って来た連絡に応答する。
『私はとんでもないものを盗んでいきました』
「ああ、桃香は今日からそっちに泊まるんだね」
男性よりの声を意識している悠に多少被せるように答えた。
何だか夕食後当たりのタイミングで隣が少し賑やかで、その後窓の向こうの部屋に桃香の気配がない気がするな、とは思っていた。
『隼人……』
「何?」
『ノリが悪すぎ』
「そう言われても……」
大分茶番だよな、という感想を抱くのは仕方がなかった。
『はい、桃香、手本』
『き、きゃー、はやくんたすけて』
「……姉さん」
『……ああ』
「桃香もノリはともかく大概だと思う」
『そうだな』
『ひどい』
頬を膨らませている様が容易に想像できる桃香の声に少し笑みが零れたのが呼吸にも表れたのか、悠の声が突っ込んでくる。
『隼人、笑ったな』
「ま、まあ」
『私が話したときは仏頂面だったろうに、桃香が出たら笑ったな』
「そっちには見えてないだろ」
『じゃあそういうことにはしておこう』
あちらも随分と笑みを含んだ声を出している悠、に小声で代わるように言った声がしたかと思えば通常とは全然違う彩の声が聞こえてきた。
『隼人君……早く助けに来てくれないと、私怖い』
「彩姉さんが一番怖いよ」
桃香との落差もあるが映画の予告コマーシャルにでも採用されそうな臨場感と少女らしい声だった。
『ほめ言葉で?』
「……凄いのは間違いないと思う」
満足そうに笑ったことが伝わる吐息の後、爆笑していた悠がそれを少しだけ引っ込めて業務連絡を行ってきた。
『桃香はこっちで連れていくので、隼人は前に伝えた時間に駅集合でよろしく。あと、朝食は少し遅くなるかもしれないけど皆で食べよう』
「うん、わかった……明日からお世話になります」
『うむ、任せておいてほしい』
やっぱり止そうかな、と思うくらい楽しそうで含みのある声だった。
『手薬煉引いて待っているぞ』
「……」
期待に反しない駄目押しを放ってから。
『じゃあ、また明日』
『駅まで気を付けて』
悠と、挟まって来た彩と。
『おやすみ、はやくん』
「ああ、おやすみ」
桃香の声に、時刻的には少し早い挨拶で返事をした。
「あれ?」
翌日、指定の駅に辿り着いて降りたホームで時計を見上れば集合時刻に時計の短針半周以上分余裕があった。
不案内な場所のため念の為一本早い電車を、から始まり朝目が覚めるのが早かったり家に居ても落ち着かなかったり家から最寄り駅までの歩くペースが様々な要因でいつもより速かったり、の結果だった。
まあいいか、と思いつつも巨大な電光掲示板をチェックすれば合流後乗る予定の路線を含むもののそれ以上に膨大な行き先が示されている。
そしてそれに対応するように多くの人が行きかっており……不安感が僅かに生じた。
「早く合流できるといいけど」
そう口の中で呟きながら、指定のポイントに到着して上手い具合に空いていた席に座って鞄の前ポケットに入れていた読み止しの文庫本を開いた。
「だーれかな?」
ページ数にして二桁に乗りそうなほど読み進めたところで後ろから両肩に手が乗せられた。
「桃香」
「うん、あたり」
声から香りから、触れてくる仕草の柔らかさからしてそれ以外なかった。
「おはよう」
「おはよ」
本を畳みながら席を立って振り返ればいつもの笑顔の桃香と目が合った。
「迷子にならなかった?」
からかっているのではなくて本気で心配してそうな声色に流石に大丈夫だと返したところで横から挟まってくる声がした。
「おーい、桃香、やるならこうだろ?」
「それはさすがに周りにご迷惑です」
手を置くんじゃなくて回せとジェスチャーで主張する悠と何だかんだで冷静に律儀に相手をしている彩だった。
「姉さんたちもおはよう」
「ああ、おはよう」
「おはよう、隼人」
鞄を肩に下げて通路に出ながら周囲を見る。
乗り換えなどで足早に過ぎていく人の多い中でもやはり主に悠で目立つのかちらちらと視線を送られている感覚はあった。
「これからどうするんだっけ?」
「まずは朝食ですね」
下調べはきっちりするタイプの彩が指で示して先導する。
「どこかのお店?」
「テイクアウトして新幹線の席で食べたい」
良いかな? という普段とはちょっと年齢が下がって相応な笑い方をした悠に特に考えていなかった隼人は普通に賛同する。
彩と桃香も承認済みだったようで彩に続いた悠の後ろに付いてそのまま歩き始める。
「ところで隼人に桃香」
壁の広告ポスター三枚分ほどを進んだところで付いてきているのを確認するためか、ちらりとこちらを見た彩が呼びかけて来た。
「うん?」
「どうしたの?」
「それは、わざと?」
「!」
「えへ」
言われてから軽く桃香の手を握っていたことに気付く。
桃香の方はわかっていたのか少し照れた笑い方をした後、離そうとした隼人の手を逆に捕まえた。
もう前に向き直った彩と肩越しに確認して楽しそうな顔をしている悠に、引率される生徒の元気さで桃香が言った。
「はぐれちゃったら、大変だもんね」
「間違いないな」
そう言うと悠が軽くスピードを上げて彩に追いつく。
「何です?」
「はぐれたら大変だろ?」
「悠姉は派手に目立つから問題ないですよ」
男性並みに背の高い悠に腕を組まれてこちらは女性としての範疇で長身な彩は多少歩き辛そうにしながらも全く拒みはしなかった。
そんなことをしながらも、ちらりとこちらを見て「真似してもいいぞ?」とばかりに片目を閉じられるが首を振って遠慮する……桃香は少し思案顔だった。
そんな少し縦長の長方形の隊列で通路を歩いていくと何やらいい匂いが届き始め目的の区画に到着する。
「あ」
朝食は皆で、ということだったので日課のランニング後も水分以外口にしていなかった隼人の健全な高校生男子の胃袋が自己主張をしてしまい、桃香が男の子だもんね、と笑うのだった。
「おー……」
「美味しそうだね」
持っているトレイの上に並んだパイやマフィンの香りが下から容赦なく空腹がピークに差し掛かりつつある隼人を直撃してくるし、更には店の奥からも小麦の焼ける匂いやら珈琲の良い香りが漂ってくる。
隣でサンドイッチの包みを二つ持って一緒に会計に並んでいる桃香も同様に曝されながらも空腹感には余裕があって楽しんでいる模様だった。
「ええと、アイスコーヒーをMサイズと」
「あとは」
程なく順番が回って来て、全員で並べば場所を取りすぎるため離れている二人の分もすらすらと飲み物の注文を桃香がこなす。
絶対にタイミングを見て少しは出してくるように、と母からの厳命と気持ち多めの臨時予算が下っており、その旨主張した隼人が電子音と共に四人分の会計を済ませる。
「ちょっと変な顔してる」
「まだ妙な感じはするんだって」
パイたちが入れられた大きめの袋を片手に下げてから飲料の提供口に移動しつつそんな会話をする。
母方の実家付近ではまだまだ普及率は低かった。
そうこうのうちに小さなカウンターに細々とフレーバーは異なるが珈琲と紅茶が二つずつ揃う。
「持てる?」
「大丈夫大丈夫」
ボリュームの割にそこまで重くもない袋の持ち手を薬指と小指に通して両手に一つずつカップを持つ。
周りに注意しながら店の前の通路に出れば悠と彩に迎えられてそれぞれに飲み物を手渡した。
「余裕はありますけど、行きますか」
左手にしたコンパクトな腕時計を確認して彩が言った後、鞄から取り出していた封筒を開けた。
「じゃあ切符を」
「うん」
「桃香は手が空かないから少し我慢ね」
「はーい」
わざわざ言わなくとも……とは思ったけれど桃香は元気に返事をするのだった。
「さーて、じゃあ素敵な旅行になることを祈って」
アイスレモンティーのカップが泡立つビールジョッキに見える気がする悠の声量控えめの音頭で向かい合わせに回したシートの中心でプラスチックと紙のカップが合わさり柔らかめの音を立てた。
それを合図にしたかのように滑るように車体が動き始め、車内アナウンスが停車駅と到着時刻を告げ始めた。
「一時間と少し、といったところですね」
何故生地の破片が零れないのかと感心する器用さでミートパイを食べている彩の横で、こちらは素の言動からは程遠い優雅さで小さくサンドイッチを口にしていた悠が笑った。
「来年なら、私の車で行くんだけど」
「そっか、免許取れるもんね」
相槌を打った桃香ににっこりと笑って悠が頷く。
「ついでに父様の車をお下がりで貰う約束もした」
車種を言われてクエスチョンマークの模様な桃香に軽く説明する。
「イタリア製のスポーツカー」
「わ、すごい」
「凄いのは間違いないだろうけど……」
二人でタイミングを合わせて来年からのドライバーを見る。
「ん? どうした?」
「絶対上手いんだろうけど」
「……色々とすごそう」
黙っていないと舌嚙むぞ♪ とか言って楽しげにハンドルを握る様が容易に想像できてしまう。
「桃香、隼人」
「「?」」
そんな二人にカフェオレを一口飲んだ彩が告げる。
「その翌日には私がとるから問題ないですよ」
「「ああ」」
「どーいう意味だ」
「悠姉なら『黙っていないと舌嚙むぞ♪』とか言って楽しそうにハンドルぐりぐり回しそうだ、という意味です」
しれっと言った彩の隣で悠が本気の顔になりながら宣言する。
「よぅし、今度の私の誕生日の予定は決まったな」
「姉さん?」
「全員問答無用で乗せてドライブしてやる」
それはとても楽しそうだなぁ、と最後の一口を放り込んだごぼうサラダのサンドイッチを噛みしめながら隼人は思った。
タイミングを見ていたのか桃香が膝に乗せていた袋からベーコンエピの包みを手渡してくれた。
「全く、人のことを何だと思って……」
「余興に全く加減ができない人」
量の多かった隼人とペースがゆっくりな桃香が食べ終わるのを今や遅しと待ち構えていた悠がトランプをシャッフルしながら呟くと彩がすかさずコメントを出した。
その鮮やかな手つきに通路を歩いていた就活生と思しき女性が思わず一瞬足を止めていたのに気づいたのか薄めに微笑むと彼女は慌てて会釈をして去っていった。
「あと、愛想は途轍もなくいい人」
「お疲れの模様だったのでいいことあるように、のつもりだったんだけど」
先ずは軽くババ抜きからなー、と配り始めながら宣言する。
「なんだか修学旅行みたい」
「確かにそうかも」
手札を確認しながらにこにこしている桃香に軽く頷いて賛同する。
「わたしたちは、二月だね」
「ああ」
「同じクラスで、よかった」
その後、軽く肘の辺りを突かれ、手札の陰で囁かれる。
「同じ班にも、なろうね」