37.翌日二人は
「どうしたの?」
「……!」
土曜日の午後、隼人の部屋で。
開始二〇分程度なので真面目に問題を解いている桃香の表情の中で昨日の夕方隼人の頬に触れた柔らかそうな桃色を何度か見てしまい……その何度目かで気付かれる。
桃香とは逆に全く集中できていない隼人が居た。
「何でもないよ」
「……ほんとに?」
「本当だ」
照れを隠すようにペンに付いた青いイルカで隼人側のその個所をつい抉ったが、自白しているようなものだと気付いた時には遅かった。
「えへへ」
「全く……」
桃香の方も赤くなってはいるもののそれ以上に幸福そうに笑うものだからそれ以上何も言えなかったし、何を言っていいのかもわからなかった。
そもそも約束していたとはいっても今日は勉強会が中止で顔を合わせることが無くてもおかしくないくらいには考えていた、桃香は普通に予定通りにやって来たけれど。
「外で、いきなり……」
苦情というよりは自分の首を絞める発言だった、観覧車での思い出的に。
そんな隼人に、机の外周を膝歩きで半分に少し足りないくらい回った桃香が耳打ちする。
「お部屋なら、いいの?」
「……!」
「だ、だいじょうぶ?」
思い切りせき込んでしまい、桃香に背中を擦られた。
「いや、その、あんまり良くはないだろ? ……そんな簡単に」
正直な感想は置いておきながら何かを説こうとした言葉が遮られる。
「五回目、かな」
「……え?」
「簡単には、してないってこと」
そんなにしっかり覚えていられるということは確かにそうなのかもしれない、と思いかけて引っ掛かることに気付いた。
「……俺が覚えているより一回多いんだけど」
「あ、だってそれは……」
にこりと笑って説明をしてくれた。
「はやくんが寝ているときに、しちゃったから」
「……え?」
「その……昔、はやくんが風邪ひいて、お見舞いにいったら寝ちゃってたから……早くよくなってほしいな、って」
想定外の驚きと、他の色々な気持ちのため、思わずテーブルに額から突っ伏した。
「桃香……」
「うん」
「その、うつらなかったよな?」
「えっと……」
「……」
「……残念だけど、だめ、でした」
確かに時間差をつけて二人連続で風邪を引いた記憶があって、思わず桃香に言ってしまう。
「桃香」
「うん」
「やっぱり、時と場合っていうのは大事だと思わないか?」
「……はい」
素直に頷いた桃香が、定位置に戻ろうとして、その前に一旦停止した。
「……嫌じゃ、なかったよね?」
「……桃香が風邪をひく以外は」
「うん」
今度は雑念を飛ばすように集中して、それでも緩むくらいに進めると、手は動かしながらも雑談が始まった。
「そういえばね」
「ああ」
「はやくん、短冊には何って書いたの?」
昨日あの後、駆け込みで商店街に飾られていた笹に結んで門限ギリギリに走って帰って来た。
「そういう桃香は?」
「わたし?」
自分自身を指差してから、にこりと笑う。
「今までと、いっしょだよ?」
「……え」
「『はやくんのお嫁さんになれますように』だよ」
絶句している隼人に構わず、思い付いた、といった顔で続ける。
「あ……ちょっと今まで通りじゃないかも」
「……何が?」
「ちゃんと今回からは『はやちゃん』じゃなくて『はやくん』って書いたからね?」
「そこかよ……」
「そうじゃないとダメなんでしょ?」
「まあ、それは……うん」
昨日言ったことに嘘偽りはないので頷くしかない。
その方法については未だに頭を悩ませているが。
「それで、はやくんは?」
「……」
「はやくんは?」
もうペンを置いてしまった桃香が一言ごとに接近してくる。
「もしかして、昔みたいにお揃いにしてくれた?」
色々と止めないと危ないので、口を割ることにした。
「『少しは成長できますように』」
「もう充分背は高いと思うよ?」
「そうじゃないって」
「えへへ……うん」
桃香が指先で軽く隼人の肘の辺りを突いた。
「ちょっとだけ、残念だっただけ」
「別にいいだろ……」
「別に、じゃないんだけど……」
「そうなったら廻り回って……桃香を待たせるのも終わりにできると思うから」
小さく突き出ていた唇が一瞬で引っ込んで、緩くなった。
「ほんと?」
「そのつもりで書いた」
「えへへ……」
頭を搔いてから、少し立ち上がるような仕草を見せる。
「はやくん?」
「やっぱり桃香の短冊だけは回収してくる……」
「朝にはもう神社でお焚き上げしたはずだよ?」
「まあ、わかってるんだけど……」
照れ隠しと、気持ちは嬉しいけれど少しは加減をしてほしい、と抗議の意を示したかっただけだった。
「というか、焚くんだな」
「お清めすればいいから間違いではないみたいね」
「……川には流しようがないもんな」
万が一、形として残るよりはいいのか、と内心思ったところで今度は桃香が本当に立ち上がった。
「おやつにしよっか?」
「ああ、うん」
「今日は……とっておきだよ」
とてもいい笑顔で階段を下りて行った桃香と、母が何やら台所で話しつつ桃香が何かをしている気配がする。
隼人が寒さは割といくらでも耐えられるが暑さはそうでもないことを知っている桃香が今日は冷たいものでも準備してくれたのか……などと少し頬を緩ませていると、階段を上ってくる足音がした。
「はやくん、開けてもらっていい?」
「はいよ」
すっと襖を引くと少しだけ驚いた桃香の顔と対面する。
「わ」
「どうした?」
「反応が早くってちょっとびっくりしたよ」
そんなに待ち遠しかった? と笑って桃香がガラスの器を見せてくれた。
「おいしい桃の、おとどけでーす」
「桃香が剥いてくれた?」
「そうだよ」
にっこり笑ってフォークを手渡ししてくれる。
「長年の研究で美味しくなるように切ったからね」
勧められるまま一切れ刺して口に運ぶ。
「……!」
程よく冷たく、瑞々しく甘い果肉だった。
「おいしい?」
そう聞かれて思わず三度ほど頷くと桃香は満足そうに笑ってから自分も口に運ぶ。
「んー」
幸せそうに頬張る姿に思わず隼人も笑ってしまった。
「なに?」
「本当に美味しそうに食べるな、って」
「だって、おいしいもの」
うちのお父さんの目利きは間違いないもんね、なんてそれはご本人に言ってあげな、と思う発言を聞きながらもう二切ればかり口に運ぶ。
「ん?」
「……ん」
そんな様子を桃香に見られているな、と思うと口が空になるタイミングで桃香が隣にやって来て口を開けた。
「また、食べさせろ、と」
「だって……好きなものを好きな人が食べさせてくれたらきっとおいしいもん」
その甘えられ方は嫌いではなくむしろ好ましくあるのだが、やっぱり躊躇なくできることではなく、可否を考えていると。
「はやちゃんはしてくれたことあるよ?」
「……俺もこの前水族館でやってる」
「わたし的に桃でやってくれるのはポイント高いんだけど」
「別に……そういうゲームをしてるわけじゃないし」
「うん、そうだよね……でも」
胡坐をかいている隼人の膝にそっと指先を触れさせて小首を傾げた。
「はやくんがしてくれたらうれしいのは、ほんとだよ」
「……」
「ね?」
桃香を惹きつけたいのに逆のことばかりだと心の中で溜息を吐いて、もしこれがゲームなら完敗だな、と自嘲気味に思った。
「一回だけだからな」
「うん」
フォークを刺して桃香の方に差し出すと言葉通り嬉しそうに口を開いて寄せて来る。
「ひゃっ!」
「あ、ごめん」
フライドポテトより大きな一切れだったため唇と頬の境付近に接触させてしまう。
「ううん、ちょっと冷たかっただけ」
改めて桃香の方に差し出すと笑顔で頬張る。
「ん~」
果実もそうなんだろうな、と思うくらい頬に手を添えた表情が蕩けていた。
結局、気付けばもう一切れ差し出していて、それについては桃香が遠慮するはずも無かった。
それどころか。
「おかえし、するね?」
「……いや、自分で」
「はやくん」
「……わかった」
「はい、どうぞ」
結局、お互いに半分も自分では食べられなかった。
「えっと……片付けて、くるね」
「あ、ええと……よろしく」
動作は緩やかだけれど手際がいい桃香がすぐには片付けにかかれない時間の後、ようやくそう言って立ち上がりかけたとき、ラジオも切って静かだった隼人の部屋に着信音が響いた。
「彩お姉ちゃんだ……」
出るね? と確かめて来る桃香に必要以上に焦った気持ちで二度首肯する。
「もしもし? もう……昨日も会ったでしょ? え? はやくん? いっしょに……いるけど」
ちらりとこちらを見られて、くすぐったい気持ちにさせられる。
確定事項のように言われたのは心外だが、事実は事実だった。
「え? 八月の一日からね……うん、だいじょうぶだと思うけどお互いに確認して連絡するね」
例の出掛ける件のことか、と少し胸が弾むような気持ちになりかけたところで。
「ほぇ……?!」
桃香の表情が突沸した。
「お、お姉ちゃん!」
その言葉の直後、返事も聞かず切れたのか桃香が電話をテーブルの上に戻す。
もう片方の手は赤くなった頬を抑えていた。
「どうしたんだ?」
その基準がよくわからない、とさっきまでの自分たちのことを棚に上げた考えをした後、桃香に尋ねる。
「何って言われた?」
「旅行のことと……」
「うん、それはなんとなくわかったけれど」
「それと、あとね」
「あのあとどうしたかとかを……ちゃんと説明できるようにしておいた方がよいのじゃないですか、って」
いつも読んで頂いてありがとうございます。
今更ですが、作中の日付は2023年カレンダーで進めています。