34.それで付き合ってないとか信じない
「……何だか今日は空気が硬いな」
本日最後の授業の英語教師に続いてHR終了後の担任もそんなことを呟いて教室から出て行った。
事実、今日の午後辺りから教室は奇妙な緊張感に支配されていた。
実際問題、半数が席から立たず、立ったうちの半数も隣席の誰かと話をしながら……何かを待っている様子で留まっている。
「……はぁ」
一学期の間一度も席替えがなかったのがこの場合良かったと隼人は溜息を吐きながら立ち上がり、一瞬だけこちらを伺っていた桃香と目を合わせてから、教室を出た。
そして。
「あ、帰ってきた」
「ホントだ」
一五分余り後。
教室の扉を引くと、そんな囁きも聞こえたが一切構わずに隼人は真っ直ぐに桃香の机の前に足を進めた。
「桃香」
呼びかけて、不安の色も混じる顔が上がるのを待って、出来る限りの笑顔を意識して口を動かす。
「ただいま」
「うん!」
一瞬で昨日今日とは違う色の笑顔になった桃香が返事をしてくれた。
「おかえり、はやくん」
少々の拍手と歓声が上がるがそれも殆ど気にならず安堵の気持ちで桃香の表情を見ていると少し変化が訪れた。
「あ、あれ?」
「桃香?」
慌てて桃香が一粒ずつを両目元から払った。
「ご、ごめんね……なんでもないから」
隼人は勿論そうは思わなかったし、周囲はそれ以上だった。
「あーあ」
「泣かせた」
「泣かせやがった」
「……泣かせたわね」
桃香の後ろから教室全体の視線が飛んでくる。
「す、すまん……というか、ごめん、桃香」
「ううん、だいじょうぶ、だいじょうぶだから」
慌て気味に頭を下げた隼人と横に振る桃香、にさらに声も飛んでくる。
「あ、桃香の方に気を使わせてる」
「そこは安心させる言葉くらい欲しいよね」
「いっそのこと抱き締めちゃいなよ、私ならそうするし」
その主はわかりやすくいつもの三人なので抗議の目線を送るが向こうの意見が多少過激にしろ隼人に非があるのは自覚しているので目線程度で終わる。
むしろ周囲が止まらない。
「女の子泣かせたら問答無用で男が悪いってことだよな」
「絶対にそうとは言えないと思うけれど、でも、まあ今回のは」
「隼人いい人なんだけど、それも良し悪しが場合によってはあるよね」
今度は蓮、誠人、友也からも柔らかめの非難が飛んでくる。
「って言うかよ、そろそろはっきりさせてもらおうや」
「何を?」
「そりゃあ決まってるだろ?」
いつの間にか立ち上がって近くまで来ていた勝利が隼人に指を突き付ける。
「綾瀬桃香は俺の彼女だってことくらいはっきり言えってことだよ!」
「いや、その、ええと……」
今度は派手に上がった拍手と歓声は耳には入るが認識が追い付かない。
「よくぞ言った、結城君」
「私としてはもう少しじれったくても良かったんだけど」
「ま、色々と悪い虫が来るようじゃね」
「別にお前らのために聞いてねぇよ」
隼人本人にとっては衝撃だった指摘に意識が硬直し、ようやく戻ってきたところで桃香の方に目を遣るが。
「かの……じょ」
隼人より上かはわからないが少なくとも同等以上に赤い顔をして両方の頬を抑えていた。
「違う……」
「あ?」
「うん?」
まだ混線している思考回路だったが、誤解されたままなのは良くない、という意識だけが先行していた。
「桃香とは……特に、まだ、交際……しているわけじゃないんだ、けど」
「「「「……」」」」
教室に残っていた面々が手近な相手と顔を見合わせて、十数名単位が一斉に同調した。
「はぁっ!?」
「え? つまり付き合ってはいないってこと?」
「あんなに仲よさそうなのに?」
「綾瀬さん、授業中目を合わせては手を振ってるのに?」
「雨の日は必ず同じ傘に入っているのに?」
「……そういえば放課後商店街に行ったとき手を繋いでいるの見た」
その程度ならまだ許容の範囲だった、が。
「てっきり口約束で婚約くらいしてると思った」
「まあ、預かりものとはいえ桃香、吉野君の家の鍵まで渡されてたし」
「えー、美春、それ詳しく」
「お料理も練習していたしね」
「花嫁修業、的な?」
「うっきうきで唐揚げ仕込んでたわね」
「そもそもボウリングいった時は彼女って言うの否定しなかった」
「……言葉の綾というか、流れでタイミングがなかっただけじゃないかな」
「そうだ! 勉強会のあと、路上でキスしてたじゃん!」
「よくわかんないけど、それは多分……顔が近かっただけです」
最低限の反論は述べるが、徐々に徐々に過去の実績が発掘され始める。
「桃香の水族館限定ペンの色違い、吉野君持っているし」
「ボウリング行った次の日、唐突に隼人のアイコン、同じペンギンだけど違う写真に切り替わったよな」
「おー、デートの匂わせってヤツだ」
「そういえばお洒落して電車に乗ってる綾瀬さん見かけたけど、隣にいたのやっぱり吉野君だったんだ」
「えー、それ見たかった!」
白熱しつつ持ち寄られる情報に、隼人も別の意味で熱を持つ。
「なあ、桃香」
「うー……」
「見られても平気っぽいこと言ってたじゃないか」
「……こうなるとは思ってなかったんだもん」
桃香は完全に顔を両手で覆い、隼人は首ごと目を逸らして教室の外を嵐よ過ぎてくれと願いながら眺めているしかできなくなっていた。
「そういえばデートどころか、夏休みに旅行を計画してるっぽいことも言ってたよね」
「旅行……ってことはお泊り?」
「二人きり? それともどちらかの家族に同行? 公認?」
「どちらにしても大事だわ」
もちろん、二人とも黄色い悲鳴を聞いている耳の先まで茹で上がっている。
「そもそも綾瀬さん、大事な相手がいるってずっと男子の告白断り続けてたもんね」
「「「「あー」」」」
それを最後に、一旦一連の証言が途切れる。
それを待っていたのか、花梨が引き取って隼人に尋ねた。
「それでも二人はまだ普通の幼馴染と主張するのかしら?」
「うん……」
「一応……」
「まあ、そうだろうとは思っていたけどね」
なんで? と美春が花梨を見たが、花梨は澄ました顔で事も無げに言った。
「だって、仮にそうだとしたらいつも吉野君のこと惚気てくる桃香が少なくとも私達には三日以上隠せるとは思ってないもの」
そしてこの一週間はテストその他で慌ただしかった、という論法だった。
「花梨ちゃん……」
「何?」
「何もそこまでぜんぶ言わなくてもいいのに……」
「どうせなら今言ってしまえばほんの少しダメージが増えるだけじゃない?」
「うー……」
まだ顔を隠したままの桃香に代わって、隼人も口を開く。
「あの、伊織さん」
「何かしら?」
「その……さっきまでのって、交際もせずにやるのが憚られること、だったかな」
口をからからに乾かしながらの質問に花梨は肩を竦めた。
因みに周囲の視線はほぼ全員「当たり前だ」と言っていた。
「私はそういう経験がないから何も言えないけど」
「……はい」
「少なくとも私なら恋人でもない相手とはしない内容のことが多々あったわね、というかあんなに堂々とはやらないわ」
堂々としていたつもりはなかったけれど、隼人も桃香も返す言葉がなかった。
「まあ、私としては他人が口を出すことじゃなくて、二人が二人で決めればよいと思うけれど」
人の目、は少し考えた方がいいのかしらね、と指摘される。
またしても隼人も桃香も返す言葉がなかった。
そんなタイミングで。
「あのー……」
扉をノックして顔を出した女子が一人。
「何か、とても盛り上がってたみたいだけど」
「まあ、いろいろとね……真矢はどうしたの?」
それは当然、という風に真矢は教室内から隼人と桃香の位置を確認し声を掛けて来た。
「桃香と吉野君、連れて来てって頼まれたんだけど」