32.夏の予感
「いやー、吉野君吉野君」
「さっきのはなかなか凄かったじゃん」
休み時間、美春と琴美が隼人の席に来て面白くて仕方なさそうに話し掛けてくる。
「何のこと?」
「またまた~」
「さっきの休み時間の移動の時よ」
思い当たることはあるが、隼人的には面白くはないので素知らぬふりをするが前方から友也も乗ってくる。
「あれはなかなかの目付きだったよ」
視聴覚教室からの帰り、上級生の男子から話し掛けられた桃香の付近を通過する際に一瞥しただけ、のつもりだった。
「……何をしているのかと思っただけ」
「『俺の桃香に何をするんじゃい』の間違いじゃないの?」
そんな隼人と、美春たちの視線に押されてその上級生は敢無く退散していったのだった。
「吉野君、どちらかといえば顔つきは可愛い系だからギャップも凄い」
「……母親似とは良く言われるけど」
琴美の指摘は隼人的には若干不本意であった。
「桃香の王子様の自覚があるようで大変よろしい」
「そんなんじゃなくて番犬くらいだよ」
「お、犬派なの?」
あたしは猫、どちらかというと犬……と一しきり話した後、話題が戻る。
「でも、何だっていきなり来るかなぁ」
「夏が近いからじゃないの?」
「可愛い彼女がいたなら、過ごす夏は格別だろうからねぇ」
別にそういうわけじゃあない……と言おうとしたが上手く口から出ない。
キス未遂の五歩手前くらいまで先日行った自覚は、ある。
「ほらほら、吉野君」
君のお姫様よ、と言わんばかりに突かれて顔を戻せば桃香がプリントを持ってやってきた。
「ね、この夏の補習受けるか、だけど」
「うわーお」
「やめてー」
「その夏は要らない」
桃香と隼人をにやにやと見ていたノリの良い三人が途端に顔を逸らした。
「桃香、強制受講にならないように期末テスト前にまた」
「うん、いいよ」
「吉野君も」
「……友達の夏休みのためなら」
頷いた隼人を嬉しそうに見ていた桃香が、隼人に改めて聞く。
「はやくんは、どうする?」
「予定を縛られたくないし……自主学習で」
「旅行とかあるもんね」
ん? という顔に周囲がなるが桃香は気付いていないのか構わずに続ける。
「じゃあ受講しないにしちゃうから……ペン借りていい?」
「いいよ」
隼人の部屋でくつろいでいるときのような自然さで言われて何も考えず承諾したが。
「ありがと♪」
桃香は隼人の机の上に出たままだった普段使いの何の変哲もないペンには目もくれずモスグリーンのペンケースに手を伸ばした。
隼人が気付いたころには既に手遅れで、桃香の筆跡に合わせて揺れる青いイルカに今度は桃香が最近新調したペンを知っている二人がニヤリと笑った。
「これはこれは」
「暑い夏になりそ」
「ちょっと今日は蒸し暑いね」
「夏が近いのかもな」
本格的な梅雨の季節に押し付ける先を見つけられなかった傘を畳んで桃香が隼人の傘に入る。
学校からそれぞれの家までは四分の一ほど来たところ、といった距離だった。
「雨なのはうれしいけど」
あんまり強くなると夜窓を開けられなくて困るなぁ……と桃香が呟く。
「一応、通話で話すことはできてるじゃないか」
「それはそうだけど……直接がいい」
「……まあ、うん」
「はやくんの顔みたいし、せっかく大人っぽいいい声になったんだから聞きたい」
思わず喉の辺りを擦ってしまう。
「そう、か?」
「あー、はやくん、今の声は作ったでしょ?」
「……ん」
完全に図星で、らしくないことをしてしまった、と思いながら顔を逸らす。
楽しそうに笑った桃香が満足した、という風に笑い声は収めて、ただ表情は笑顔のままで話題を振ってきた。
「そういえば、七夕も近くなってきたね」
「その頃には期末テストも済んでいるかな……」
でも、何で七夕が出て来た? と尋ねる。
「夏と、あと雨……で会えなくなる」
「あんまり縁起良くは無い、かな」
「……うん」
隼人たちに良い思い出がないのは雪の方だったが。
「え、えっとそうじゃなくてね……商店街で、笹を飾るから」
「それは今年もやるんだな」
「イベント外さない人が多いからね、うちのご近所さんたち」
そして桃香も青果店の娘として季節行事は楽しみ方を心得ているようだった。
「短冊、あとで貰ってきて願い事、しない?」
「願い事……か」
「?」
桃香のことを見てしまうのはどうしようもないことだった。
確かに叶えたく思っていることはあって、その為に柄にもなく声を意識したりなどもしてしまっているが……。
「考えておく」
とても街の笹に吊るして願えることではないので、今はそんな返事をした。
「晴れてよかった」
にこっと笑って桃香が窓から夜空を指差した。
「七夕はまだ先だけどな」
「あは……そだね」
「まあ、俺たちも本業は疎かにしないようにしないと」
「夏休みのためにも月末はお勉強だね」
強制的に補修は嫌だもんね、と完全に安全圏に居る桃香が笑う。
「滝澤さんたちも無事だといいけれど」
「勉強会、みっちりやろうね」
対象者三名の腰が引けそうな妙なやる気を出している桃香が、少し違う笑い方をした。
「どうした?」
「うん……そういえば今日の休み時間」
「ん?」
僅かに隼人の眉が寄ってしまったが、桃香が言ったのはそのことではなかった。
「はやくんが、美春ちゃんたちのこと友達って言ってて、うれしかった」
「……まあ、色々と濃い時間を過ごさせて頂いているからなぁ」
苦笑いするしかなかった。
「夏休み、またみんなで遊びに行くのもいいね」
「ああ、それもいいな」
できれば今度はボウリングではない方向で、と肩を竦める。
「もちろん……はやくんと二人のおでかけも、連れて行ってくれるでしょ?」
「まだ桃香にアイスを奢れてないし」
先日の水族館付近ではタイミングを逃していたことを口にする、何かの口実にと先送りしていた一面も否定はできないが。
「この前みたいに少し遠いところがいいなぁ」
「……そう、なのか?」
「知ってる人がいないところだと、はやくんが『浮かれて』くれるから」
「……」
思い切り自覚はあるのでにこりと笑う桃香に直ぐには何も返せなかった。
「……あんまり遠いと桃香が途中で寝るからなぁ」
「あれは……その、ごめんね」
「まあ、全然構わないんだけれど」
無理に絞り出した返答も、今度は肩の辺りに感触が蘇って、正直嬉しさが勝るので裏目だった。
「今度、休憩するときに二人で考えるか」
「それもぜったい楽しいね!」
喜色に溢れた桃香の表情に、小さく笑い返してから。
「じゃあ、そろそろまた明日にするか」
「うん……おやすみ」
桃香の言葉に応じてから、二人同時に窓に手を掛けたとき、もう一度呼ばれる。
「はやくん」
「うん?」
「わたし、こんなに夏休み楽しみなのはじめて」
微笑んでから今度こそおやすみ、と窓とカーテンを閉める桃香の姿を焼き付けて。
若干暑くなり始めた時期で隼人は網戸を使うので完全には閉め切っていない窓からの夜風に部屋の中で何かが舞った気配があった。
「?」
放課後、桃香と貰って来た黄色の短冊が机の上を半分ほど移動していた。
とりあえず何か重しを、と机の上に出していたイルカのペンをそっと置きながらふとそれに書くべきものをもう一度再考して、その過程で思い出す。
昔はよくもまああんな願い事を記名の上で飾っていたものだな、と
半月後。
「……?」
そこにある筈のない紙の感触に戸惑っているとそれは滑り落ちて隼人の足元に落ちる。
拾い上げた淡い藤色の封筒には隼人の知らない筆跡で「吉野隼人様へ」と書かれていた。