31.門限は午後六時
「ゆらゆらしてる」
照明を落とし気味のスペースでそれに合わせた声色で桃香が水槽を覗き込んだ。
「癒されるかも」
「確かに」
首を縦に振って同意する。
昼食後、まだ時間に早いのでもう一度見たい場所を話し合ってクラゲの展示を見ていた。
午前中回っていた派手なショーに比べて薄暗く空調も効いている静かな空間は食事の時間と種類の違う息抜きになっていた。
「はやくん、クラゲ派だったの?」
「展示されてる場所とか込みで落ち着けるし、割といつまでも見れると思う」
傘の閉じ開きを眺めながら少しの間見ていた水槽から次の水槽に。
「あとは……」
「あとは?」
このスペースの中では比較的大きめの水槽にはかなり長めの触手を持った種類のクラゲが入れられていた。
「若干、桃香に近い気がする」
「そうなの?」
「なんかゆらゆらふわふわで……少しうねってるところとか」
「……うーん」
桃香は普段あまりしない表情をしながら考え込むような仕草の後、口にした。
「女の子をクラゲにたとえるのはほめ言葉、なのかな?」
「他愛もない感想だって」
それでも何かを考えていた桃香が、そっと隼人の手を離すと前に進んで軽く両手を広げると体をゆっくりと左右に動かした。
「癒された?」
「……面白かった」
率直に感想を述べると、桃香はクラゲから小ぶりのフグになった。
その姿に思わず、衝動的に桃香の頬を突いてしまう。
「!」
「ご、ごめん」
驚いた表情に、逆は時々されているがこれは駄目だろうと指を引っ込めようとする。
「えへ……」
でも、桃香は目を細めて引っ込めた指を追いかけて、そのまま隼人の二の腕にそっと衝突する。
そのまま甘えるように一瞬だけ頬ずりされて、離れた桃香が見上げてくる。
「いやされた?」
その柔らかな感触に、それも間違いはなかったけれど。
「総合的には、どうだろう」
「えー」
「……桃香の癒しは少し心臓に悪いんだって」
「そうなの?」
「そうだよ」
そんな問答をしながら、手を繋ぎ直す。
「実は、わたしも」
「桃香も?」
今度は繋いだ側の肩に、桃香が頭をこつんと当てる。
その距離限定の声で桃香が話してくる。
「わたしも、はやくんにふわふわしたりドキドキしたりしてるよ」
「……新学期始まったころはそんなことは言えないとか言ってた気がする」
一瞬、空いている手で脇腹の辺りを突かれる。
「いじわる」
「ごめん」
「……今は、知ってほしい気分なの」
浮かれちゃってるからかな、という呟きに隼人は素直に返す。
「今日ばかりは俺も人のこと言えない気がしてる」
「……じゃあ、おそろい、だね」
「お揃いがいいなー」
それから。
少し帰りの時間も気になり始めるころ、出口手前のショップコーナーで桃香が二本のペンをぐいっと差し出して主張していた。
「流石にそれは主張が過ぎる」
「えー」
「色違いの水族館限定グッズじゃないか」
仮に他の誰かが二人でそういうものを使っていたら、そういう機微に疎いという自覚のある隼人ですら気付くレベルだと思う。
水色の本体にシルエットとはいえペンギンやアザラシの柄、ノックが青とピンクのイルカになっているペンは桃香には似合うけれど、隼人が持っていたら目立って速攻で邪推されるに決まっていた。
邪でもなんでもなく限りなく真実なのだが。
「はやくんは、嫌?」
「嫌とは言ってないって」
何せ日常に持ち帰ることになるので、二人きりの勢いで昼のポテトを食べさせ合うこと程には簡単でなかった。
「じゃあ、わたしはお揃いにしたいな」
「……」
「だめ?」
桃香が二匹のイルカを連れて見上げてくる。
「……部屋で勉強するとき専用なら」
簡単ではないと思っていた筈だが、あっさりと抵抗は陥落した。
あとは何とかラインを引かなければ、と調整を試みようとするけれど……桃香はいつもその線を持って隼人の方にやってくる。
「せっかくだったら使ってほしいな」
「……やけに拘るな」
「だって……はやくんも使ってくれないと意味がないっていうか」
「そりゃあ、ペンだから使うけど」
「そうじゃなくって……」
視線を迷走させながらもごもごと何やら口の中で呟いている桃香に、もう少しだけ譲歩する。
「じゃあ、予備として筆箱には入れておく」
「よび……」
隼人の言葉を繰り返した後、何かを思いついたのか思い切り賛同が出た。
「そだね!」
一気に明るい顔になった桃香が手に乗せてペンをプレゼンする。
「ペンケースに入れておけば、テスト中にペンがこわれてとってもピンチな時にたすかる、かも」
「限定的すぎる」
「お守り、ってこと」
そう言われてしまうと確かに桃香が選んだものなら何かいいことがありそうな気がする、とか考えてしまうあたりが手遅れで。
勝利を確信したような余裕の表情で桃香が返事を待たずレジに向かって歩き始め、お願いしますと係の職員に差し出したのだった。
「仕上げにね」
楽しかった、と隼人まで満足させてくれる笑顔で水族館のゲートを出た桃香が指を立てて提案をする。
「あれも、乗っていこう?」
桃香が見上げた先には隣接する施設にある観覧車があった。
その存在は到着した時からちらほらと見えてはいたし、入念に下調べをしていた隼人は事前から把握していたが。
「……大丈夫なのか?」
「なにが?」
「目を見て答えなさい」
隼人の頭の中には幼稚園や小学生時代に起きた幾つかのエピソードが蘇っている。端的に言えば木や大きな遊具の上で固まっている桃香の姿。
そんな理由で予定から除外していたのだけれど。
「大丈夫、なのか?」
もう一度、しっかり質問する。
「……一人だと絶対乗らない」
「ほら」
「でも、今日ははやくんとおでかけなんだよ?」
繋いでいた手と、隼人を見た瞳に力が籠ってから、ふっと抜ける。
「はやくんといたら、だいじょうぶ」
一人だと行かないところにも行けたんだよ、という声が聞こえた。
一緒に行ったからこそ、記憶にある。
「手は、離さないでくれるでしょ?」
「勿論、と言いたいところだけど……」
その言葉に一瞬だけ桃香の表情が陰る。
でも。
「乗り降りの時だけは少し離さないと無理かな?」
「……うん!」
「隣で、いいんだよな?」
「繋いで?」
足元が動き続ける普段は体験しない感覚に注意しながら桃香の隣に腰を下ろす。
それを待ちかねたかのように桃香に手を求められた。
「怖い?」
ちょっと緊張するだけ、と呟く声に、空いた方の手でさっきまでいた水族館の屋根を差す。
優しさを意識した声で桃香を呼ぶ。
「楽しかったな」
「ぁ……うん」
僅かながらも、隣の雰囲気が柔らかいものになった。
「また、行きたいね」
「それもいいし……他の場所でもいいかな」
「連れて行ってくれるの?」
「桃香が望んでくれるなら」
時間は沢山あるから……と続けてから、少し声を改める。
「その、一回少し言ったのと、母さんから伝わっているかもしれないけど……」
「うん」
「もう心配いらないように済ませて、帰ってきたから」
だからこれからもっと、と告げる隼人に桃香がだいじょうぶ、と返す。
「帰るのも言うのも遅くなって、ごめん」
「ううん、信じてる」
「……ありがとう」
「それにね」
こつん、と桃香の髪と体重が預けられる。
「もしそうなったとしても……今度は連れて行ってもらえるようにがんばってきたつもり」
「……!」
「どう、かな?」
胸に芽生えた衝動に、桃香の手を離す。
「はやくん?」
代わりに、空いた手を回して桃香の肩を抱き寄せた。
「……びっくり、した」
「手を離してごめん」
「ううん、こっちも嬉しい」
言葉通り桃香の身体から緊張が薄れていくのが伝わった。
「確かに、桃香は可愛いままで……凄く綺麗になったよ」
「!」
「小さいころの守ってあげたくなるような女の子ってだけじゃなくて、魅力的だと思う」
お菓子も料理も美味しいし、と呟くと、また作るね、と返された。
「だから、ええと……ありがとう」
「どうしたしまして……でいいのかな?」
二人の空間になってから初めての笑い声がお互いに出た。
観覧車はその間に随分と上空に上がって来ていた。
「ね、はやくん……」
「うん」
「いろいろ、その、読んだり、調べたり……したんだけど」
「……うん」
「頂上、が……その、あの、ええと……タイミング、みたいだよ?」
身動ぎして少しだけ身体を離した桃香が、顔を上げた。
言わんとすることは伝わるし、とうに意識はしていた。
「……勝手なことを、言っていいか?」
「はやくん?」
「もう少しだけ、待ってほしい……その、桃香とキ……とかしたりする前に、ひとつだけしたいことがあるんだ」
伝えられる言葉を探す隼人に、桃香が囁くように尋ねた。
「……待っていれば、いいの?」
「単に、こっちの問題というか、俺の心が小さいな……ってだけだから」
「わたしのこと……きらいじゃない?」
「そんなこと絶対にあるもんか」
思わず強くなった言葉に隼人自身が驚いたけど、次には当然だとも思った。
「うん」
そんな隼人に笑ってから、桃香がすぐ傍で頷いた気配がした。
「じゃあ……待ってるね」
「……待たせてばかりでごめん」
ううん、と首を振ってから桃香の体重が完全に寄り掛かった。
「これからはお隣で待ってていいんだよね」
「桃香さえよければ」
「うん」
じゃあ今はとりあえず、と声が繋がる。
「下に着くまでこのままで、いさせてね」
「桃香?」
隼人の腕の位置こそ違うけれど、預けられた重さにさっきまでの時間が蘇る。
一時間ほど断続的に耳にしている車輪がレールを渡っていく音に交じって小さな小さな寝息が聞こえた。
「はしゃぎ過ぎだって……」
呆れるように呟いたが、それは全部自分に返って来るとも自覚している。
下から桃香の手を握っている腕の肩の辺りに意識をやれば吐息も感触も髪の匂いも全てが甘く感じられる。
昔にも何度か似たようなことがあったな……と思い返せば、離れる間際が近くなった辺りでの無防備に寄り掛かる姿が桃香を女の子と意識するきっかけの一つだったと認めるしかなかった。
その時はまだ恋をしていたとは言えなかっただろうけど、その相手が桃香なのだろうとは朧気に感じていた。
「どうしようかな……」
桃香に言った「やりたいこと」を今日二人で過ごす中で少しでも満たせればという気持ちもあったけれど、桃香は簡単に隼人にしてしまっていて、隼人は出来ていたのかが自信を持てなくて……暖かな時間の中に少しだけ、悔しさも覚えた。