174.桃香のいない日
「結論からいうと」
「ああ」
「だめ、でした」
「みたいだな」
桃香の希望通り毎晩だけでなく毎朝も訪れるようになった桃香の部屋で。
クリスマスに贈ったストールを羽織って、まだ少し顔の赤い桃香が指で小さなペケを作って報告してくれた。
「熱、下がらなかったか」
「上がってもいないんだけど……」
若干、抵抗するような言葉遣いをするところを髪に触れながら言い聞かせる。
「無理して拗らせた方が余程長引くだろ」
「うん」
「今日は、休みだな」
「……うん」
たっぷりと間を空けてから、小さく頷いた桃香が、何かを思い出したように顔を上げる。
「そうだ、はやくんのお弁当」
「大丈夫」
言葉と手で制しながら説明する。
「ちゃんと、家の母さんに代打に立ってもらってる」
自作も考えたが冷蔵庫の中身の兼ね合いやら朝の手際やら何やらでそういうことになっていた。
デフォルトでそれをしてくれる相手が桃香になってしまっているのは今更ながら面映ゆいものがあるが。
「うん、じゃあ、ええと……気をつけて、いってらっしゃい」
「ん……」
寂しそうに手を振った桃香を、思わず……でも、普段より慎重に抱き寄せる。
「あの、はやくん」
「うん」
「うれしいけど……うつっちゃったら、大変だよ?」
「……大変なことには、なるかもな」
「……ね」
思い切り交際を宣言した二人がそこから半月後に時間差で風邪をひいたら。
美春たちでなくとも、邪推するには材料が充分すぎる。
「まあ、大丈夫だよ」
「はやくん、昔から丈夫だもんね」
「それもあるし……」
「……?」
「桃香の顔を見たら、こうしたくは……なる」
「えへ……そっか」
普段よりワンテンポ空けてから腕の中で甘えられると……若干元気が足りていない様と併せて更に庇護欲をそそられる気がした。
「えっと、じゃあ、あらためていってらっしゃい」
「ああ」
「……これも、なんだか新鮮」
「そう、だな」
基本的に二人で出かけることの多い関係性。
「ただいまも、してくれる?」
「ああ、勿論」
きっとその頃には桃香が恋しくなってしまっているだろう、と確信しながら返事をした。
「まずいな」
口の中だけで言葉にしながら、鞄を担ぎ直す。
実際の所は往きの通学路の半ばでもう物足りない気持ちが芽生えていた。
物足りないと恋しいは似ているようだけど別物だろ、と自己弁護したところで、大切な彼女のことをそう思うのは自然なことだろうとか、また別の言い訳が頭から浮かぶ。
「吉野君」
もう自分が桃香のことを好きなのは今更だろとか、そもそも交際していると明言した時点でそういうことだと公言したということだよな? とか足は動いているものの頭の中が此処に在らずな状況になって行く。
「吉野君?」
「はいっ!?」
そんな中で、鞄を二度ほど叩かれてようやく我に返る。
振り返ればいつもの表情のようでいて、気持ちお怒りを眉の辺りに見せた花梨が後ろにいた。
「もう三回ほど呼んだんだけど?」
「本当済みません……おはようございます」
「ええ、おはよう」
申し訳なさと気まずさに普段より低姿勢で受け応えてしまう。
「桃香は、やっぱり駄目だった感じ?」
「ああ、まだ熱が」
「そう……」
駄目なのも熱なのもどっちなんだ、と内心で頭を抱えることになる。
少なくとも、桃香の風邪よりは重篤なのは自分でもわかる。
「心配、しているの?」
「まあ、それは」
言いながら花梨にはもしかして見透かされている気がしてならなくて、頬を掻く。
「早く良くなるといいわね」
「……そう、だね」
「ふふっ……」
そんな隼人を見ながら、花梨が表情を緩めた。
「えっと、何か?」
「あなたたち、本当にお似合いね……ってだけよ?」
「おー隼人、綾瀬がいない間にさっそく浮……いえ、なんでもないです」
教室に到着するなり蓮がそんなことを口走り花梨に一睨みで黙らされる一幕はあったものの。
「桃香、やっぱりお休み?」
「熱が下がらなかったみたいで」
「心配ですね」
「まあ、念の為というやつだから」
美春と由佳子をはじめとした桃香を案じてくれる女子にそんな風に説明する。
「それに、今朝も割と元気そうだったし」
そう補足をすると、後ろの方で聞いていた女子たちから小さく歓声が上がる。
「……あ」
「そうかそうか、朝から気掛かりでわざわざ綾瀬の様子見てきたのか」
「お熱なのはどっちなんだろうねぇ」
言ってしまってから自分でも気付いたけれど、勝利と友也にも突っ込まれる。
一応、花梨や美春たち以外には家が近くとだけしか知られていないはず、だったけれど今はそれが逆効果なのかもしれない。
いや、隣だから良いというものでもないだろうけれど。
「……そりゃあ、心配くらいするし」
「いいじゃんいいじゃん」
「思った以上に彼氏してるよ、吉野君」
前髪を掻き混ぜながら誰に向けたわけでもなくそう言うと、その周囲の八割くらいがあらあら、という感じに笑う。
ご近所で向けられていた気がするものが、最近教室でもそんな風になりつつある。
そんな空気の中、心配という以外にも純粋に桃香の顔が見たかったことは、知られるわけにはいかなかった。
「……っと」
午前の授業が終わり、今日は自分の鞄から弁当箱を取り出す。
そこくらいしか、普段との違いは無い筈だけれど。
「へいへーい、吉野君」
「やっぱり寂しそうだね」
後ろの席の琴美と、桃香の席の後ろの絵里奈にそんな風に話し掛けられる。
「そんなことは、無いと思うけど」
「あんなに桃香の席の方何度も見て物足りなさそうな顔しといて?」
「……そんなことは」
普段の癖なのもあってそちらを見てしまっていたこと自体は認めるけれど、顔に出すものは無かった筈、だった。
心の内では何を考えていたにしても。
「ちょっと、去年までの桃香っぽい感じもするよね」
「そうそう、ふとした時に寂しそうに窓の外を見てる感じが」
「……」
僅かに、胸が痛んだ。
「そんな訳で、吉野君には私たちとお昼を食べる権利を進呈しまーす」
巾着袋を机の上に置いた絵里奈に手招きをされる。
「……どういう訳で?」
「桃香が居なくて切なそうな吉野君を慰めてあげつつ、お悩みでもあれば桃香の親友的にいい機会だから相談に乗るよ? という訳」
「ほらほら、桃香と付き合い始めて半月経って色々あったんじゃないん?」
琴美に続いて、弁当箱と自分の椅子を持った美春が机の半分を間借りしつつそんなことをおっしゃった。
「謹んで遠慮します」
「えー」
「いけずー」
「だって、嫌な予感しかしないじゃないか」
「そんなに私達信用無い?」
「ある意味信じてるからだよ」
そんな言葉を交わしながらも、包みを持って席を立って、可笑しそうにこちらを見ていた友也たちの方へと。
「おや、どうしたんだい? 彼女持ち」
「いや、今日は仲間に入れてもらえないかと」
「綾瀬さんに誘われてほいほいこの村を捨てておきながらいざとなったら出戻りかな?」
口ではそんなことを言われつつも、誠人も友也も席を詰めてスペースを一人分捻出してくれる。
「別に伊織たちに囲まれててもよかったんじゃねーの? 今度、綾瀬にその写真見せるけど」
「何気に怖いことを」
「駄目だよ蓮、こういうのはそれをちらつかせて脅すのに使わないと」
「お、誠人頭いい」
言い合いつつ、各々弁当の蓋を開けたところで。
「そうは言っても、綾瀬さんは伊織さんたちとなら気にしなさそうだけど」
「まーな、面白くないことに」
確かにそのパターンで桃香がむくれるなら自分抜きで楽しそうだったこと、かな? と思いつつもベーコンと炒められたホウレン草を一口食べてから反論する。
「あの、それよりも」
「ん?」
「どうした?」
「その話題からは、離れない?」
すると、即座に勝利と友也が口を開く。
「じゃあ、普段からあのいちゃつきをもっと控えとけ、って話だな」
「あれを見させられてるこっちの身にもなってね、ってね」
その言葉に、友也たちはおろか密かに聞き耳を立てていたらしい近くの女子グループにまで頷かれる。
「いや、ご迷惑をおかけしているつもりは……ないんだけど」
「それはこのイカリングがゼロカロリーってくらい無理があるよ?」
「そんな……」
結構特大のおかずを箸で抓んだ誠人に却下され。
「中川さんたちもそう思うよね?」
友也が流れで笑顔で近くの女子たちに話を振り、彼女たちにも二度頷かれる。
「で、実際に綾瀬と付き合い始めてどうなんだ?」
「……ノーコメントで」
「いーや、多少は吐いてもらうぞ」
そんな会話をしながら……良くも悪くも桃香の存在は欠かせないレベルなんだな、と再認識する。
切り離すことなど出来ないし、考えられないくらい。
なので。
「あ……」
午後、二コマある授業の合間の休み時間。
反射的に口元を押さえ、周囲を伺うように見回す。
美春と絵里奈、友也には爆笑され、花梨と誠人には呆れつつも仕方がない顔をされている。
琴美と由佳子には、子供の失敗を見守るような温かい眼差しを向けられていた。
「今の、なしで……」
「いーや、無理無理」
「聞いちゃったもん、ねぇ?」
耳の先まで赤くなっているのを自覚しながら、久方ぶりに机の上に突っ伏するしかできなかった。