172.安眠
「おはよ」
「……!?」
眠ってしまっていたのか、と思ったところをその声にそうだったと教えてもらうことになる。
「あれ……」
昼の短い時期とは言え窓からの光が陰っていることに気付いて、首を動かして時計を視界に収めて、また驚く。
「もう四時前」
「そうだよ」
くすっと笑ってから桃香が抱いていた方の隼人の手のひらを撫でる。
「はやくんも、寝不足?」
「いや、そんなことは……」
多少桃香たちの方のことが気になって普段より短め浅めではあったけれど、ここまで派手に寝てしまうほどではないはずだった。
「いっぱい寝れて、えらいね」
「……」
「あふ」
普段からそういう系統の声ではあるものの、今は完全に子供をあやすような声色の主に両手は塞がれているので後ろから軽く本当に軽く頭突きする。
「ただ、その」
「うん」
「桃香が言ってたみたいに、桃香をこうしていたら……最終的にはあたたかいし、落ち着く、ので」
「うんうん」
「安眠してしまっていた」
途中で何を口走っているんだ、という気持ちにもなっていたけれど半端に止めるほうが却っておかしいかと思って言い切る。
「はやくんはやくん」
「ん?」
「はやくんだけの抱き枕なら、なってあげるよ?」
一瞬、とんでもなく魅力的だ……と思ってしまい。
「まだ拙いだろ」
「……まだ?」
「……ああ、まだ、だ」
そしてまた内心焦りつつ、冷静を装おうと努めるものの。
「それに」
「うん」
「……いや、何でも」
「はやくん」
「……」
「そ・れ・に、どうしたの?」
楽しそうに回している方の手を弄られながら、言葉の端に言うまで離さない意思を感じさせられる。
「……桃香の」
「わたしの?」
「弁当とか、お菓子とか美味いから……その、枕だけになられても困るというか」
まだ寝惚けているのか、それとも桃の香りを吸い過ぎたのか……ほぼ間違いなく後者。
「つまりそれって……」
「ああ」
「はやくんのおよ……んにばっちり満点、ってこと?」
流石に言い淀んだ部分には敢えて触れない。
「……前々から言ってるけど」
「うん」
「桃香は俺には勿体無いくらい素敵な子なんだよ」
「えへへ……でもね」
「ん?」
「わたしが好きな男の子ははやくんだけ、だよ?」
言葉に合わせて、手を両手で包まれる。
お返しとばかりにその手に力を込めて桃香の背中に密着する。
「……別に」
「うん」
「だからって誰かに譲る気なんて一切ない」
「えへ……」
もうしばらく、隼人の手を弄りながら何かを反芻していた桃香が。
「ちょっと動いて、いい?」
「ん」
解放された手は一旦自分の腰の上に避けて、鼻先を髪に埋める体勢から首を伸ばす。
「よいしょ」
首を浮かせて寝返りをした桃香の笑顔がこちらを向く。
「……はやくん?」
「いや……器用だな、って」
「なにが?」
「髪の扱い」
真っ先に思った桃香の表情への気持ちより、二番目に考えた感想の方を口にする。
「ずっとこの長さで、慣れてるから、ね」
「ん」
「むかし、はやちゃんがほめてくれたもんね」
「……ももちゃんの髪ふわふわでお姫さまみたいだ、だっけか」
「うん、そう」
ちゃんと覚えててくれたね、と頭を撫でられる。
まだ若干残っている眠気と併せて心地好かった。
「あ、でも」
「ん?」
「はやくんの好みが変わったなら……そっちにしても、いいよ?」
悪戯っぽく笑った顔が、何かに気付いて少し慌てる。
「あ、これ……重いかも」
「そりゃあそんなにボリュームあれば」
「あ、あはは……う、うん、そうかも」
そんな桃香が、一度瞼を閉じてから枕にしてない方の隼人の手を引き寄せて零れていた髪を一房預けつつ、話題をリセットするかのように問いかけてくる。
「どんなのが、好み?」
「ん……」
今度は隼人の方が目を閉じて疎いなりに少女の髪型を色々考えてみるものの……昔からの絶対はどうしたって変わりそうになかった。
「やっぱり」
「り?」
「今の桃香のま……!」
腕枕の上で身動ぎしていたので予想はしていたけれど、目を開いた瞬間それ以上にアップの桃香に少し驚く。
「ま?」
「今の桃香が似合うし好みなので、このままでお願いしたい」
この一週間そうであることを心がけているので、そんなことを口にした。
「えへへ……そうなの?」
「ああ、そうだ」
「そっか」
じっくりと二度頷いた桃香が、それから極上の笑顔で返事をする。
「はーい」
糖度を増した返事の後、その笑顔がもうほとんど残っていなかった二人の距離を一気に無くしてきた。
「これ、いいかも」
「……何が?」
近付いて離れて。
何となく三歩進んで二歩……などと考えていたところを軽く弾んだ声に引き戻される。
「寝転がりながらだと、はやくんが背高いのも関係なくできちゃうから」
「ん……」
確かに桃香の顔のアップは多少慣れたものの、この距離がキープされているのは新鮮な気がする。
「えへへ……」
そっと桃香の手が伸びてきて、鼻やら頬やら髪やらに間を置きつつ触れられる。
「いや、だったら言ってね」
「……桃香なら別に」
「ありがと」
少々くすぐったいもののその行為自体は許容範囲。
ただ、そうされ続けていると。
「わ」
「俺も、いいか?」
「うん」
こちらからも触れたくなってしまう。
その気持ちのまま耳から頭、そして髪へと手が伸びる。
「くすぐったいね」
「嫌なら止めるけど」
「ううん、へいき」
髪を梳くった手が背中まで辿り着いたところで、また別の衝動が生まれて……今まで動きを忘れていた桃香の頭の下にあった手も用いて抱き寄せる。
まだおぼつかない方の手で改めて髪に触る。
「むしろ、やめちゃやだ」
「ん……」
そうなることを心得たように瞼を閉じた桃香の囁きに、そんなのは無理だ、と一瞬返そうとしたものの。
そんな時間さえ惜しいとばかりに桃香の唇で自分の声を塞いでいた。
「……」
そうするようになったのは最近ではあるのだけれど。
それでもかつてないほど長い……と唇同士を重ねながら思う。
思ったところで、桃香の頭を押さえてしまっているからかと気づき離そうとした矢先。
「!?」
しばし大人しくしていた桃香の手がお返しとばかりに首の辺りに回されてきて……完全にタイミングを見失う。
もう少し食べてしまってもいいのだろうか……? 等と、それは桃香のことは普段から意識しているので得たりもした知識から引き出した、ところで。
「桃香ちゃん」
「「!!!?」」
階下からの声に、弾かれたように離れる。
去年まで用いていた、幼馴染ですと主張できなくもない……くらいの距離に。
「ゆっくりしていくなら、晩御飯こっちで食べる?」
「い、いえ……もうちょっとしたら帰ります」
膝立ちのまま襖を少し開けて階段の方に応答している桃香が耳の先まで真っ赤なのを眺めながら、胡坐の体勢で心臓の辺りを押さえる……無論、自分の。
「あ、あははは……」
タイではあるかもしれないけれど過去最高に真っ赤になって困った笑い方をする桃香に、多分俺も同じ色だな……と思っていると。
「じゃあ、帰る準備……するね」
「あ、ああ」
とはいえ今日は殆ど昼寝して過ごしたので仕舞う物も必要もないのでは? と考えた瞬間だった。
「えいっ」
「!」
胡坐の中に、座られる。
「重くない?」
「平気だけど……どうしたんだ?」
「帰る、準備」
まるで車に乗ってシートベルトをするかのように隼人の手を自分に回させながら。
「帰れる、準備」
「そっか」
「うん」
古い造りの我が家では縁は無いものの、時折コマーシャル等で見るお掃除ロボットとやらみたいだな、とか考えながらも。
桃香から伝わってくるものに、こっちも充電されているから違うのか……と妙な納得をした。
「じゃあ、また夜にね」
「ん」
両親がテレビを見ていた居間を極力二人とも何でもなかった風に通り抜けて、隣の玄関まで送ったところで桃香が髪を揺らしながら告げる。
「今日は」
「うん」
「あんまり相手できなくて、ごめんな」
発端は桃香だったとはいえ、結果的に爆睡してしまった隼人がそう言うと。
「ううん、わたしも結構はやくんといっしょ、だったから」
「なのか?」
「うん、二回ほど起きたけど、はやくんの気持ちよさそうな寝息聞いてたら、わたしも、ね?」
にっこり笑ってから、二歩ほど隼人側に戻ってから耳打ちする。
「やっぱり、はやくんのとなりがいちばん、だね」
「……なら、いいんだけどな」
「えへへ」
身を離す直前に頬を突かれつつ……。
「ずっと変わらないよ」
そんな言葉と笑顔で手を振って桃香が自宅に吸い込まれていった。
そして。
「……?」
自室に戻れば少しそこまで、だったため携帯していなかったスマホにメッセージの通知が。
『昨日は彼女をお借りしてごめんなさいね』
一瞬期待しながら確認すれば花梨からで……若干残念に思った直後、そうではないぞとこの場にはいない相手に弁解する。
『ところで、腕か膝は大丈夫かしら?』
「んなっ!?」
二つ目のメッセージを読んで、今度こそ声が出た。
言われて意識すれば僅かに痺れていた腕はようやく本調子に戻りそうなところだった。
確かに桃香が一番眠そうで耐えられそうではなかったけれど、そこまで見透かされると舌を巻くしかない。
そのまま何と返せば、と考え込んでしまったところで既読で今見ていることを察しられたのか他の面々からも連続で入電する。
『それはそうとあらためて桃香のことよろしくね』
『末永くお幸せに』
『これからも甘々なの期待してるから』
『応援してるよ!』
「な……」
いつも通りといえばいつも通りだけれど、それより若干弾け気味でもあるそんなメッセージに。
一体、何を語ったんだ? と灯りが点いた向かいの窓をまじまじと見つめるのだった。