154.抱き心地触れ心地
「さすがに……」
「うん」
「お客さんをここまで立たせっ放しは、そろそろ申し訳ない気がしてきた」
桃香を抱き締めることについて満足か否かと言われればまだまだそうしていたい気持ちはあるけれど。
放っておくとどこまでもそうしていてしまう気がしてようやく手を離す。
そこに至るのが遅すぎるだろうと言われれば全くその通りではあるのだけど。
「え、えっと、お構いな……くじゃなくて」
「うん」
「もっと、構って?」
ちょんちょん、と手の甲を触られる。
「それは勿論、そうするから」
「やった」
「とりあえず、一回座ろうか」
「うん」
「はい」
「ありがと」
一度冷静になる意味も込めて一階の台所から準備してきたカップを炬燵の向かいに渡してから、焦げ茶色の布団を少しだけ捲って足を入れる。
「……えへ」
面を合わせて座っているのだから、当然真正面に柔らかい笑顔。
さっきまでもっと照れるべきことをしていただろうと言えばそうだけれど、少し気恥しさに目線を逸らせばセーターを飾っているリボンに目が留まる。
「はやくんが、選んでくれたのだよ」
それを抓みながら徒競走のメダルを自慢するかのように表情を崩した桃香が続ける。
「デザインも好きだけど、肌触りもよくって……」
「ん」
「お気に入り、だよ」
言ってから、桃香が向かいから腕を伸ばしてくる。
「ちょっと触ってみる?」
「いや、その……」
「?」
「良く、知ってる……よ」
「ぁ」
ぼそりと告げた言葉でようやく気付いたのか、桃香の目線が袖から身体の部分まで辿って行く。
そこで生地が変わるわけではないので、つまり主に背中の部分で。
「よかっ……た?」
「それは、うん」
その返事の後、生じた奇妙な無音に慌てて付け足す。
「柔らかくて、あたたかくて……」
「……」
そこまで言ってから、服だけに対する言葉じゃないことに気付く。
前者はまだ生地に対してとも言えるかもしれないけれど、後半は完全にそれを着ている桃香に対するもの。
「えっと、桃香」
「……うん」
「その、ごめ……」
「はやくん」
平に謝りかけた言葉を、制される。
「だきごこち……変じゃなかった?」
「……そういう意味でも、抱き締めてて幸せだった」
「じゃあ……いい、よ」
「……えへへ」
「ん?」
その後。
しばし無言で、ただちらちらと互いを伺いながらカップの中身を消費していた時間の中で、唐突に袋の空気が抜けるように桃香が笑う。
「今日は一杯のんびりできるから、いいね」
「確かに」
一昨々日は帰宅やら外食で、一昨日は四人で初詣をして。
そして昨日は。
「悠お姉ちゃんとおばさま、楽しそうだった、ね……」
「まあ、それはな」
一昨日、悠と彩にやいのやいのされながらも桃香の家に帰宅すると。
「隼人くん桃香ちゃん……何だか、二人が仲良しねって話をするとみんなが変なの」と少し困り顔の悠の母君と更に微妙な顔をした二人プラス彩の母との女子会に遭遇した。
要は隼人と桃香が交際を始めた件を知っている知らないの食い違いで、それを言ったものかどうかと誰が言うのかの無言の譲り合いで妙なことになっていたらしい。
まあそれに関しては隼人がまた赤くなりながら報告して我が子の事のように大層喜ばれたのだが、それだけで終わらなかったのが生粋のお嬢様の御不満。
「でも、私だけ知らないで話していたのはやっぱり寂しいわ」「じゃあ、父様にも同じ目に遭っていただきますか!」……と誰にも止められない流れで昨日は悠の邸宅にお呼ばれし、ちゃっかり参戦した彩も交えて異様に緊張し周囲だけが盛り上がるアフタヌーンティーを過ごす羽目になったところだった。
「でも、まあ、疲れた……」
「だよね」
深く深く溜息を吐く隼人。
単に事実を伝えるだけ、では済まない緊張がやはりあった。
「でも」
「でも?」
「みんなが、びっくりした後うれしそうにしてくれるのは……なんだか、うれしい」
びっくり、の主要因があれで付き合っていなかったこと、なのはほんのり自覚しているので少し耳と胸が痛い。
「それは、だってさ」
「?」
「桃香が、その……昔から」
「はやくんのことが、大好きなこと?」
迷いなく言い切るんだな、と思わず笑顔をまじまじと見てしまう。
「だって、ほんとの事だよ?」
「まあ、桃香は素直だものな」
「うん」
それは、応援したくなるよな……と思ってから。
そりゃあそれに対してこっちは尻を叩きたくもなるか、と自省する。
「それで、なんだけど」
「うん」
「桃香が嬉しそうで、喜んでくれているのは俺も嬉しいんだけど」
一瞬、壁に目線をやってから。
取り敢えずの懸念事項を口に出す。
「その、明後日から……学校、じゃないか」
「そうだね」
にっこり笑ってから。
「宿題、終わった?」
「それは去年のうちに片づけたけど」
「えらいっ」
「……いや、一緒にやっただろ」
「そだね」
珈琲とラジオをお供に、この部屋で。
「いや、桃香」
「うん」
「わかって聞いてるだろ……?」
「えへ」
ちらりと舌を見せてから、ご機嫌な口調で言葉が飛び出す。
「はやくんとわたしが、お付き合いしていること?」
「……そうだけど」
「はやくんが、わたしの素敵な彼氏さん、ってこと?」
「素敵かどうかはさて置くけど……」
何故言い方を変えて二度言う、と思いながらぼそりと返すと。
炬燵の天板分の距離のせいで空振りになってしまったけれど、桃香の人差し指が隼人の鼻目掛けて伸びた。
「さっき、花丸あげたでしょ?」
「ん……」
「ね?」
自分で花丸が貰えるなら、果たして隼人は桃香にどのくらい大きな点数をつければいいんだろうか……と自問してから。
これからは自分の減点対象、な所を直していくんだよな……と口にする。
「桃香も」
「も?」
「俺にとっては……誰よりも素敵な女の子だよ」
「わ……」
一度言ったものの、少し足りないと感じて付け足す。
「いや、そもそも誰も比べ物にならないというか……」
けれど、そこまで言ってから努力はしているものの自分の許容を超える言葉に思わず目を逸らしてしまう。
そんな視界の端と衣擦れの音で桃香が立ち上がったのがわかって。
「はーやくんっ」
「んっ!?」
一歩だけ踏み出した桃香が次に両ひざを付いて……そのまま隼人は抱き締められていた。
「も……」
視界の全部を桃香のセーターに占められながら嗜めるような言葉を出そうとして。
こんな密着した状況で口を動かして良いものなのだろうか、との迷いを別の方向に解釈される。
「あ、ごめんね……苦しかった?」
「苦しいというか……」
なのに、今離れて自由を得たことを残念に思う男子の性に頭を抱えたくなる。
そのくらい、天国が近付いた時間だった。
まあ確かに幾つかの意味で非常に苦しいことになったけれど。
「そういう意味でも桃香は魅力的なんだから、気を、つけて、欲しい」
思い切り恥ずかしい自白だけれど、流石にああされて意識していないわけがないのは伝わるだろうと口にする。
「えっと……その前にちょっとだけ聞いていい?」
「……?」
隣にそのままちょこんと正座する形になった桃香に確認される。
「嫌でも変でも……なかった?」
「とても良かったからこそ、問題なんだ」
今まで接触したことのある場所の中でも別格に柔らかく結構あるように見える見た目以上にボリューミーで……。
「はやくん?」
「いや、なんでもない」
下手に考えると危ない、と首を横に振る。
「ただ、その、桃香が大事だからこそ、桃香の周囲からの信用も大事にしたいし」
「うん……」
「桃香を悲しませるような結果も生じさせたくないから」
な? と伝わってくれるだろうかと笑い掛ければ。
「うん」
「ん」
「ちょっと、うれしくてはしゃいじゃったね」
「そう思ってくれること自体は、嬉しいからな」
「うん」
わかってもらえたか、と思いながらも。
その安堵に対して矛盾すると思いながらも。
「あと、その」
「?」
「伝えるのも表すのも下手だけど」
そっと膝の上に重なっていた桃香の手を取って、桃香の目線の高さまで上げた後。
「桃香の全部に、物凄く、惚れているので……」
「わ」
薬指の先を軽く唇で食んで。
「ちゃんと美味しそうだと思っているし、恋人同士がすることは、いずれ全部桃香としたいと思ってるよ」