144.仕事始めの日の朝
「……」
朝は一緒に、と誘われていたので。
綾瀬家がいつも朝食をとる時間の五分前にお隣の玄関の戸を引こうとして、しばし固まる。
八時間足らず前に桃香との関係を変化させた、ということはこちらの家族と隼人との関りも変化する……? とまで考えた後、だからといってどのようにすればよいのかは咄嗟に浮かばず、それにいきなり何か変えるのも変だろうと若干逃げの結論を出して。
ただ、いずれはご報告せねばならないことには違いないよな、と自分を戒めて。
「おはようございます」
玄関に入った後、奥に声を掛ければ。
「あら」
「おかあさん! ちょっと待って!」
女性二人の声がしたかと思えば、桃香が桃香基準で勢い込んで奥から顔を出す。
仕草と表情が「わたしが一番最初に顔を合わせておはようって言う!」という決意に溢れていた。
「おはよ、はやくん」
「ん、おはよう」
そんな姿に思わず笑みが零れてしまって、いい意味で緊張感も薄まる。
「じゃ、もうちょっとだから待っててね」
「ああ、ありがとう」
促されていつぞやのようにリビングのソファーに座ってエプロン姿の桃香を眺めることになったところで。
最近料理をしてくれる頻度が上がって助かるわ、等と言いながら桃香の母も顔を見せる。
「隼人くん、おはよう」
「はい、おはようございます」
「あと、明けましておめでとう」
「おめでとうございます」
朝と年始の挨拶をした後。
「ふふふ……」
「えっと?」
とても素敵な笑顔で、見詰められて。
「昨日は、大変だったみたいね」
「まあ、冬なので」
「走って帰ってきちゃうなんて、若さってすごい」
「いえ、その、調べてみたら普段ランニングする量の三倍くらいだったので……宿泊先確保も大変そうだったし」
「なるほどー」
絶やさない笑みが、どんどん、微笑ましいものを見る目に変わってきているように感じるのは隼人の気のせいだろうか?
「あ、えっと、その……」
「どうしたの?」
「昨夜は遅くに話し込んでしまって……配慮が足りず済みませんでした」
そしてその笑顔に勝手に圧を感じてしまい、まずはそんなことを口にする。
「隼人くん」
「はい」
「わたしとしては隼人君のことをとても信じているから、二人でいるのなら心配はしていないので」
そんな隼人を楽し気に眺めてから。
小さくも弾んだ声で。
「いつでも、おかあさん、って呼んでくれていいからね?」
「!!!!?」
驚愕と動揺を思い切り態度に出した隼人に満足そうに頷いてから。
スキップでも踏みそうな感じにキッチンに向かう後ろ姿にこれは生涯頭が上がらないのではないかと確信する隼人だった。
「それはそうと、お父さん遅いね」
「初競りだし、雪の影響もあるのかしら」
後はテーブルに並べるだけとなってから、そんな母娘の会話を聞きながら窓の外を見れば空の七割は青だけれど周囲の屋根や日陰には昨日の雪が残っている状況で。
仕事始めの業種もあることと併せて確かに普段通りに市場からは戻れないのかな、と思ったところで聞き慣れた中型トラックの音がした。
「荷下ろし、手伝ってきます」
「うん、そうだね」
「そうしましょうか」
流石に座りっぱなしという訳にはいかないと思い。
一応それも考慮して動きやすい服装にしておいて良かったと思いながら立ち上がって軽く背中と上腕を伸ばす。
勿論、桃香の作ってくれた朝食が冷めるのが勿体ないのもかなり大きかった。
「はやくんも手伝ってくれたおかげで早く終わってよかった」
にっこり笑って、最後に焼いた鮭を二人分……自分の父と隼人の前にそれぞれ置いて桃香が言うのを、若干の緊張感を持って隼人は聞いていた。
「まあ、確かに」
「……」
「大助かりだった、ありがとう」
「いえ」
「えへへ」
少しは表情を緩めてくれたおじさんの数百倍我が事のように嬉しそうな桃香が席について、朝ごはんが始まる。
なめ茸の味噌汁の温かさに癒され、程良い塩味の身を解しながら、もう何度目かの使用になっているこの家に置いてある自分用の箸も馴染んできたな、と思ったところで。
「そういえばラジオの交通情報で言っていたけれど」
「あ、はい」
「電車の方は除雪と安全確認をして十時頃から各路線運転再開のようだね」
「だとしたら、おじさんたちはお昼前に帰ってくるのかな?」
「多分、そうだろうと思う……ああ、昼は適当に買って帰ってくるみたいだから家で食べるよ」
その旨を言うと、桃香が残念そうにちょっと眉を寄せる。
気持ちはわかるし嬉しいけれど、流石にそこは甘え過ぎになるので自重するつもりだった。
「ただ」
「「?」」
そんなタイミングで二人に向けておばさんが口を開く。
「何せ疲れているだろうし折角なので、晩御飯は一緒に外で、ということに決まりました」
「やった!」
手放しで喜ぶ桃香を見ながら、結婚を機にお隣同士になる前から仲が良かった母親同士の方が連絡が密だよな、と内心苦笑いする。
「どこに行くの? お母さん」
「それは行ってのお楽しみ」
それはそれとしてこちらの母娘は仲良いよな、と感心する。
「もしかしてあそこか?」
「それはどうでしょう?」
「あ、わたしもそうじゃないかな、って思ってるよ」
そして楽しげに話すおじさんも含めて仲の良い家族で……なので、幾ら昔から可愛がって貰っている隼人でも、少々話は別だろうな、と常々思っている。
「あ、はやくん」
「! あ、ああ」
「ごはん、おかわりするよね?」
「うん、お願いする」
「はーい」
隼人のご飯が空になるや否やそんな風に申し出てくれた桃香に促されるまま茶碗を差し出しながらも、やっぱりやや複雑そうな視線を感じる。
「いっぱい、食べてね」
「ありがとう」
勿論、どれだけ苦労するとしても桃香の笑顔を譲るつもりは無かったけれど。
「ちゃんと、お腹いっぱいになった?」
「ああ、勿論」
「えへ、よかった」
ご飯を更にもう一度お代わりした上に、緑茶と蜜柑二つのオマケまで完食して。
そろそろ本年最初の営業の準備を本格的に始めているお隣からお暇をすることにする。
「今年も繁盛すると良いな」
「うん、ありがとう」
身なりを少しパリッとさせて、看板娘モードに移行しつつある桃香と軽くタッチを交わす。
「はやくんのところは?」
「今から分かるところは奇麗にして、父さんが帰ったら午後から、かな?」
「お掃除、頑張ってね」
「ああ、ありがとう」
ちょっとだけ、やることはあるとはいえ無人の我が家に帰るのが寂しいかな……と思ったところで。
「はやくん」
「ん?」
桃香が半歩寄って来て、耳打ちをする。
「お客さん、お昼前には落ち着くと思うから」
「ん」
「そしたらね、はやくんのお部屋で一休みに行くね?」
「……うん」
「えへへ」
見透かされたか? と一瞬思った後、そうでもあるけれど気持ちが同じなんだな、と内心で頷く。
「桃香」
「うん?」
「……」
「うんっ♪」
完全には二人きりではないから言葉には出さなかったけれど、口の形で。
待っている、と伝えた。