139.凍った湖の上で
「静かだな……」
昨日とはえらい違いだ、なんて内心で苦笑しながら。
凍結した湖面と周囲の木々と遠くの山々はほぼ銀白色で、空は鈍色の雲から時折思い出したように雪の欠片が舞い落ちてくる。
普段の暖かな休日は大切だけど、こんな静謐の光景も嫌いではない。
今度はこっちと付き合え、と言われて祖父と叔父に父と一緒に簡単な朝食後すぐにワカサギ釣りへと引っ張り出されて二時間ばかり。
「もう少し飲むかい?」
「では、折角なので」
叔父が父のカップにもうぬる燗くらいには下がったであろう地酒を注いでいる様を横目で見ていると……。
「隼人はあと……四年か?」
「うん」
俺らの頃はもうちょっと曖昧だったけれど今やったらしこたまあいつに怒られるな、と豪快に笑う叔父に少し困った笑みを返していると。
「楽しみにしているぞ」
「うん」
珍しくそれとわかるくらい柔らかい表情の祖父にそんなことを言われて、今度はしっかりと頷き返す。
それから二言三言近況の話なんかをした後、また風の音だけがする時間が訪れるとそのタイミングを計ったかのように叔父から借りているウインドブレーカーのポケットの中で着信が震える。
『おはよう』
今日は何をしているの? という問いかけに、カメラを起動してこの風景だけを送り返すと、ウサギが凍えているスタンプが返ってくる。
寒がりなあいつには絶望的な光景だよな、と思うけれど……誘えば絶対来てくれる、とも確信している。
今度はさっき撮った上手い具合に二匹同時に釣れた写真を送れば「すごい!」系のスタンプが三連発で送られてきて思わず笑ってしまう……そうしてから、こんな様見られたら間違いなく餌食になるな、何て考えたら。
「おーい!」
余りの声量に鳥が二羽ばかり逃げ出すくらいの勢いで駐車スペースの方から非常に目立つレッドカラーの防寒具姿の望愛が駆けて来ていた。
悪い悪い遅くなった、と参上した下の叔父が大人グループに混じり早速釣り糸を垂らし始める一方で。
「詩乃も来たのか」
「うん」
歳も同じで家も近くで望愛とまるで双子だもんな、と思った途端に自分とそういう状態の誰かさんの笑顔を脳内に再生してしまう。
「だって、お兄ちゃん明日には帰るんでしょ?」
「ね、もうちょっと居ればいいのに」
「父さんの店を開けないといけないしな」
自分の心情は思い切り棚に上げてウインドブレーカーの首元を弄りながら答える。
「どうせ新幹線でしょ?」
「そうだよ」
別に隼人だけ遅れて帰っても良いでしょ? と言いたげな。
そんな二人の視線に、これは桃香が理由で早く帰りたいと言わせたいのか? 何て邪推してしまうが……まあ、昔から割と遊ぶので純粋にそう言ってくれているのだろう。
そして二人のこともまあ憎からずは思っているのだが、隼人の心の中の天秤は揺るがない。
「あ、それはそれとして……昨日はゴメンね?」
「うん、盛り上がり過ぎた」
「まあ、過ぎたことはいいよ……」
苦笑いしながら首を振ると、珍しく神妙な顔をした望愛が買ってもらったばかりだという自分のスマホを弄る。
「お詫び替わりと言ったら変だけど」
「ん?」
促されて自分の方の画面を開くと……レンタルしたスキーウェア姿でスノーボードを履いて雪煙を上げてターンをしている自分の写真。
被写体が自分なことを差し置けばスキー場のポスターに採用されてもいいかもしれない、というくらいの出来栄えだった。
「いつの間に」
「一昨日のうちに」
「そりゃそうだ」
苦笑いしていると、眼鏡を曇らせながら詩乃が提案してくる。
「どう? これなら大抵の女の子はイチコロだと思うんだけど」
「イチコロしてどうする……」
思わず突っ込みながらも、確かに桃香は喜んでくれるな、と断言でき……それが自分の写真だと思うと一瞬置いて面映ゆい。
「なんか相談事あったら乗るからね」
「うんうん」
「……まあ、お気持ちだけは貰っておく」
中学一年生の女子、興味津々なのは理解できる。
けど、そろそろ放っておいて欲しいし、あっちにはあっちで花梨やら美春が居るのでこれ以上増えられても困る。
「えー、もうちょっと教えろー!」
「はいはい」
完全に聞き流しモードに入って、ちょうと反応があった竿を持ち上げていると。
「あ、そうだ」
詩乃が良いことを思いついた、と身体の向きを変える。
「おじさんは、お兄ちゃんの彼女さんの事って知ってるの?」
「え?」
「あ、知りたい知りたい」
「だからそうじゃないと言ってる」
言いながら、突然話を振られて驚いた表情の父に向かい「余計な事を言うな!」と全力で目配せをする。
「まあ」
「「うんうん」」
「とても良い子だよ」
そこら辺の機微は壊滅的、と母にすら言われる父にしてはまず満点の出来にほっと胸を撫で下ろす。
「ほれ、折角来たなら釣りをしな」
「ほーい」
「……エサ付けるの苦手」
「そこはやってあげるから」
詩乃の竿に虫を引っかけながら……。
「お姉さんにもしてあげてるの?」
「……一緒に釣りはレベルが高いだろ」
向こうじゃ機会はないしな、と思いつつも。
家業の都合で普段の様子からは想像できないくらい手際よく虫の類は「処理」する桃香の様を思い出す……曰く「実体があるから何とかなるよ」とのこと。
「大漁大漁」
「あら本当」
「頑張った」
「エサは全部隼人頼みだったけどね」
「うるさいよ、望愛」
釣果を伯母に渡している望愛と詩乃を見ながら、ウインドブレーカーを干して流石にちょっと冷えたな、と薪ストーブの前に行って指先を温める。
台所から漂ってくる香りは醬油ベースで、これは熱々のうどんとかかな? と期待する。
そんな時、一昨日から合間を見ては顔を緩めつつ真姫のことを抱っこさせてもらっている母が父と何かを話しているのに気付く。
「何かあった?」
昨日一昨日は赤ちゃんパワー凄いな、と思うくらい抱っこしている時はめんこいを連呼していたが、今は少し困った様に眉根を寄せている。
「どうしたの? 母さん」
「明日の事なんだけどね」
「うん?」
『明日は』
「うん」
『気をつけてね』
聞こえてくる桃香の声が心配の色で満ちている。
「なんだか、昨日までの予報より早く崩れるみたいだな」
『それも、ちょっと酷いみたい』
「ああ、そうみたいだ」
母と、親戚の皆も懸念を示した明日からの天気予報。
しかし、一月三日という日付のため。
「ただ、明後日含めてもう前後の新幹線は全部埋まっているから……腹を決めて乗るしかないかな」
『うん』
「まあ、多少予定からは遅れるかもしれないけど、帰るから」
『待ってる、ね』
そんな桃香に、殊更に冗談めかして言う。
「勿論嬉しいけれど、ちゃんと暖かいところで……風邪、ひかないように」
『……うん』
昔、隼人が帰れなかったときのようなことにならないように。
伝わったのか、少し桃香の声色が緩むけれど……拭い切れないのがもどかしい。
「じゃあ、明日、な」
『うん』
「早く……」
『……はやくん?』
「……早く、寝ろよ」
「うん、おやすみ」
何だかそんなことを言うと毛布みたいにも感じられた桃香の声におやすみを返しながら。
早く桃香の顔が見たい、と口に出しそうだったさっきの自分に焦る。
勿論確かに強く思っているけれど、言葉にするには甘いが過ぎる、そう思って。