133.雪の記憶
変な場所にならないように、ぶつけないように……慎重に触れた後。
香りとか柔らかさとか温もりとか肌の感触とか、そういうことに意識をやれるようになった直後。
触れたままでいる時間はどのくらいが適正かはわからないけれど、まだ余り長くは、と思いそっと離れる。
「えへへ……」
前はとても見れなかった桃香の表情を、今回はくすぐったくなる声に引かれて目に映す。
「こっちも、うれしい」
「……よかった」
心からの安堵の息を吐いてから、肩に置いていた手を背中に回して抱き締めると。
桃香がまた囁くように言葉を発する。
「こんなにうれしいクリスマス、夢みたい」
「……頬、抓るか?」
照れを紛らわせるにしても我ながら酷いな、と口にしてから思う。
「そんなのより、さっきみたいなのがいいな」
「……!」
それは確かに魅力的な提案だと思う自分と、落ち着けと思う自分が居て……。
「桃香」
「うん」
「その、何回もするのは……もう少し慣れてから」
意識して深く呼吸して心を落ち着けながら、そっと桃香を離す。
「そうなの?」
「この後、おじさんおばさんに挨拶をして帰る身にもなって貰えると」
「わたしは平気だよ?」
「……俺は無理」
もう幼馴染の範疇を逸脱した手の出し方をしている自覚は、ある。
「お隣の大事な娘さん、なんだから」
「えへへ……」
そんなことを考えたタイミングで、手を握られる。
「ん?」
「大事にしてもらえてるのは、伝わってるよ」
「なら、良かった」
「お父さんとお母さんにも」
「……まあ、だよな」
今まで数度の夜に差し掛かるお出掛けと、今日こんな時間に部屋に上がり込んでいること。
あと、多分もう隠しきれていない二人の夜の時間。
許して貰えているのは、多少は認めてもらえていると解釈したい。
「だと有難いけど」
「お父さん、ああいう態度だけど……はやくんじゃないそもそも門前払いしちゃってると思うし」
「ん……」
「渋ってるみたいなこと言ってはお母さんにしょっちゅう『じゃあ隼人君より良い子居るの?』とか言われて黙っちゃってるよ?」
「ははは……」
今のところ全てのお伺いを笑顔で即オーケーしてくれている桃香の母は間違いなくお小言の多くなる母や寡黙な上にそういう話題を出しにくい父と計四名の両親の中で一番の味方だった。
「ちなみに」
「うん」
「わたしは、絶対にいないって思ってるよ?」
「それは……ありがとう」
「えへ、どういたしまして」
へにゃりと崩れた桃香の表情に笑ってから、握られていた手を握り返す。
「俺の方も」
「うん」
「ずっとそうでいられるようにする」
「えへへ……お願いね」
ただし、幾らそうだとしても。
「じゃあ、もういい時間になりそうだから」
「むー」
「駄目だって」
残りのジュースを一気に注いで、暖かめな桃香の部屋の空調以外の分もある熱を誤魔化すように飲み干した。
「じゃあ」
食器を二人で流しまで持っていった後。
予想通り複雑そうとにこやかが好対照に並んだ桃香の両親に一言挨拶をしてから玄関先まで送ってくれた桃香に振り返る。
「もうちょっと行きたい……」
「女の子には遅い時間」
「すぐそこだよ?」
「でも、駄目」
「……」
じっとこちらを見ながらも、さりげなくサンダルに爪先を入れる桃香に溜息を吐く。
「じゃあ、そこまで」
「!」
「そこまで一緒に出てから、帰りを送るから」
「すぐそこだよ?」
「それ以上は一切妥協しません」
「じゃあ、それで」
折り合いをつけたところで軒先に出て。
「寒いね」
「言わんこっちゃない」
「でも、はやくんのプレゼントは、あったかいね」
「そんなに厚くは編んでないぞ」
自分で出来そうな中で、桃香の普段に合いそうなデザインを選んだため……そこまで防寒向きではないものに仕上がっている。
「気持ちの問題だよ」
「そうか」
「うん」
多分一分にも満たないだろうけれど、一緒に行くからにはとストールを前で押さえているのとは反対の桃香の手をそっと取る。
「向こうはもっと寒いんだよね」
「寒いというか、風が強いか雪が降ってるから……こんなことは出来ないかな」
隣家とはいえこんなにのんびり外に出ることは冬にはまず考えられず、防備を固めることから始めないといけない。
それを切っ掛けにして向こうはとうに銀世界だよな……と思い出していると、桃香が隼人の手を握る力を少し強くする。
「お正月」
「ああ」
「気をつけて、行って来てね」
「ん……」
「行方不明とか、もう嫌だからね」
「その、あれは……」
少し泣きそうな桃香の顔にとあることを記憶から掘り返しながら言葉を探していると、二人の間を何かが風に乗って通り過ぎた。
「あれ?」
「どうした?」
「今、ちょっと鼻に冷たいのが」
夜空を見上げた桃香に釣られて上を向けば家々の灯りを返す白い欠片が幾つか落ち始めていた。
「雪……」
「もしかすれば降るかもしれないとか天気予報は言ってたっけ」
言いながらも桃香を促して軒先まで、屋根の下まで戻る。
「綺麗……だね」
「こっちで、このくらいの量を見る分には、な」
「あのさ」
「うん」
「あの時の事なんだけど」
しばし無言で肩を寄せて雪を眺めてから、先程途中になった雪に纏わる記憶を続ける。
「一応弁解すると、そこまで行方不明でも無くて時間はかかったけど……きちんと、駅には辿り着いたから」
「すごく遠いんでしょ?」
「……山の中の道とかもあって八キロばかり」
「大雪の中だったのにそんなことして」
「叔父さんたちには凄く、叱られた」
後にも先にも無いくらい。
冬休みに電車が運休するほどの大雪の中、帰ると書置きだけして預けられていた母の実家を抜け出した、昔の話。
「夏休みは、俺が足を骨折して入院していたせいで桃香に会いに行くこと出来なくて、冬こそはと思っていたら雪で電車が止まって行けませんって言われてさ」
「……わたしも、すごく楽しみだった」
「その、子供だったから、駅まで着けば何とかなるとか考えてしまったんだよな……もう桃香に会えないように意地悪されてるみたいに」
「……」
「よく考えれば、そんなことないのに……あの時はそう思い込んでいて桃香にまで心配かけて」
「はやくんのお母さんが電話でそんなこと言ってるのを聞いて、心臓止まるかと思ったんだから」
「……ごめん」
桃香の手を強めに握って、謝る。
「本当に馬鹿だったんだよな」
「……」
少し、沈黙があった後、桃香が手を握り返してくる。
「でも、わたしも」
「?」
「はやちゃんが、もしかしたらひょっこり駅から出てくるとか思って何度もこっそり駅を見に行っちゃって」
「そう、か」
「体冷やしすぎて、あと会えなくて泣いてご飯食べなくて、肺炎になりかけて入院寸前だったから」
「……母さんに聞いて、本当に桃香に何かあったらどうしようって、雪道歩いている時以上に後悔した」
「うん、でも、そういうことだから考え無しだったのは、おあいこ……かも」
ね? と呼ばれた声に桃香の方を見れば小さく微笑んで見上げてくれていて。
「いや、まあ、馬鹿具合は間違いなく俺の方が上だろ」
「それは、そうかもね」
「というか……あの状況で帰ってくるって、俺、どんな超人だよ」
「そのくらいすっごい、って思ってたの!」
多少覚悟して今まで話さなかったことを口にしたけれど。
でも。
「その、桃香」
「うん」
「こっちに帰って最初に、謝らなくちゃいけなかったよな」
「……」
「あと、あんなことがあったから……一度帰ったらあっちに戻りたくなくなるのも本当だったけど、帰ると言いにくかったのも、あったと思う」
「そう、なんだ」
「うん」
暫く何かを考えた後、手を解いた桃香が玄関先の段差に上がって、隼人の二の腕を両方掴んで自分の方を向かせる。
そして、手を上げて。
「!」
ぺち、という小さな音が鳴る程度に触れられる。
「危ないことは、もうしないでね」
「はい」
「そのことに関しては、わたしからはそれだけ」
「……うん」
そして、心から安堵した隙に。
「えいっ」
「!」
二の腕に思い切り抱き付かれ引っ張られ身体が桃香側に傾いた……と思った瞬間。
桃香にさっきと同じ場所を唇で触れられる。
「約束は大事かもしれないけど、ちゃんと帰ってきてこうしてくれているはやくんの方がずっと大事」
「……うん」
ああ、この大切な女の子を絶対に泣かせてはいけないという気持ちにさせられる感触と体温。
「ね?」




