130.年の瀬
「あ、おかえりー」
「ただいま」
自宅に戻って自転車に鍵をかけていると隣からそれを見付けたのか桃香が声を掛けてくれる。
あちらは少し前に帰り着いていたのか格好は普段着で髪が通常より少しだけお洒落寄りだった。
「あと、お疲れ様」
「ん、そっちは……楽しかったか?」
「うん」
笑顔で頷いてくれる桃香に、さっきまでのような大勢で盛り上がる空気も決して嫌いではないけれど、やっぱりこれが落ち着くな、と内心で呟く。
そんなタイミングで夕方の風が一吹き周囲を走って行って……屋外には薄着の桃香が身を縮めるのを見て。
まだ両家とも夕食には早い時間帯なのと、部屋を桃香へのクリスマスプレゼントも含めてきちんと片づけてあるのを脳裏で確認して提案する。
「ちょっとこっちに、寄ってくか?」
「うん」
桃香の返事も表情も期待通りの物だった。
「はい」
「うん、ありがと」
先に部屋の炬燵で待っていてもらった桃香に、インスタントココアのカップを渡しながら。
桃香が家に隼人用の箸を準備してくれたみたいに、そろそろココアだけじゃなくてカップも要るかな……なんて考えたりもする。
「姉さんたち、元気そうだったか?」
「うん、すっごく」
桃香の口振りから、今日もさぞ遊ばれてきたのかな、と想像する。
「ちょっと久しぶりに女の子同士でお出かけだから、盛り上がっちゃった」
そしてそれは桃香の表情からもその通りだったらしい。
「みたいだな」
「わかるの?」
「髪型を弄ってた感じなのと」
桃香の香りがいつもと少し違う、と言い掛けて流石にそれは普段からそれを楽しんでいると白状するものだと思い止まり言い方を変える。
「少し、香水か何か、かな? そういうお店でも見てきたんじゃないか?」
「わ、大正解」
後はスキンケア関係とか見てきたんだ、と小さな音を立てて拍手をしてくれた桃香が、そのまま右手を差し出してくる。
「手首の辺り、ちょっと試したんだけど」
「手触り、ってことか?」
セーターの袖口から見えている肌に指先で触れるものの。
「……いつも通りすべすべだけど」
「えっと……香りのするミスト、の方」
「あ、ごめん」
なら撫でる前に教えて欲しかった、と内心で呟きつつ……触れてしまっているのでその手で桃香の手を引き寄せる格好になる。
そこに顔を近付けながらも、手の甲に口で触れたりとか指を食みたい気持ちが生まれるには生まれる……この前頬に逃げた癖に何考えてやがる馬鹿野郎、と思い切り自戒して押し留めるが。
「種類まではわからないけど花の香り、かな?」
「あたり」
ほっとしながらも、桃香の手をそっと戻す。
「どうだった?」
「……桃香は普段からいい匂いだけど、少し変えるって意味ではいいのかもな」
言ってから、先程折角ぼかしたのに桃香の香りを楽しんでいるのを口外したことに気付く。
「そう、だったの?」
「……あれだけ一緒に居たら、まあ」
咎める色は全くない、確認の言葉に安堵しながら頷く。
一緒どころか腕の中に収めたりもしているのだからわからない方がどうかしてるだろうと謎の弁護を試みたりもしながら。
「わたしも」
「ん?」
「はやくんの匂い、好きだよ」
別に俺はいい匂いと言っただけで好きとは……等と誰に言うでもない、自分でも言い訳でしかないと分かっていることを内心呟く。
「ちょっと藺草っていうか和室みたいな感じの」
「なのか」
「安心できるな、って匂い」
言いながら、炬燵から立った桃香が隼人側にやってくる。
「また、していい?」
「少しだけな」
炬燵布団の下で胡坐をかいている隼人の背中側に桃香が膝立ちをして。
「えへへ」
両肩に桃香の手が置かれた、と思った次には後頭部に本当に軽く桃香の鼻が当たる感触がした。
「あ、それで、忘れないうちに」
「うん?」
「お正月、なんだけど」
もうさすがに鬼にも笑われないよね? なんて言いながら炬燵の定位置に戻った桃香がカップの中身を一口飲んで今が丁度適温だったのか頬を緩めてから壁のカレンダーに視線を移す。
「はやくんは、一月三日に帰ってくるんだよね」
「ああ、その予定」
「一日開けて五日に、悠お姉ちゃんがみんなで初もうで行こう、って」
「そうか……」
その提案もアリだな、と思いながら向かいでカップで指先を温めている桃香を見つつ頷く。
「?」
冬休み、帰省以外の時間の大部分はこんな風に過ごしているだろうから、初詣は桃香と二人きりでなくても良いか、という意味。
やはり早めに桃香用のカップを準備しよう。
「桃香もそれで良ければ」
「うん」
もちろんだよ、とピースサインが帰ってくる。
「じゃあそう返事しておくね」
「よろしく」
「はーい」
こと、と小さく音を立ててカップを置いてから返事を入力している桃香を何とはなく見てからカレンダーの方を向く。
「はやくん」
「うん?」
「何か考え事?」
「ああ」
わかるのか、と表情で聞くと、当たり前だよ、と答えられた。
「こっちに戻って来たからさ……長期休みに突然姉さんたちが『スキーに来たついでに寄った』だの『温泉行く途中でたまたま』だので呼び出されることもないんだな、って」
苦笑いしながら昔の出来事を言うと、桃香もそうなんだと小さく笑う。
「何だかんだ言って、あの二人とは年に一回、半日ぐらいは会ってたんだよな」
「どんなこと、してたの?」
「ん? 本当にスキーだったりワカサギ釣りだったり、向こうの有名店に案内頼まれてそのままご飯食べたりとか」
今となっては懐かしいか、と頭の中でだけ呟く。
「えっと……」
「うん」
「わたしのことは、何か、話したりした?」
「桃香の、ことか」
遠慮がちな問いかけに、首を横に振る。
「そうすると、逢いたくなると思って」
「ぁ……」
「多分、頼んだら帰りに一緒させて貰ったりとかも出来たんだろうけど……もうそうしたら絶対に向こうに行きたくなくなる、から」
思えばそれを察してくれていたであろう、お互い様で今より子供だけれどずっと大人だった二人の様子を思い返す。
あと、昔から頑固で意固地で仕方ない奴だったよな、俺……何て思う。
「わたしも」
「うん」
「お姉ちゃんたちいつも行く前に、いつの日に出発するかは教えてくれてたけど……多分、一回でもはやちゃんの顔見たらがまんできなくなっちゃう、って思って付いて行かなかったの」
「そっか」
桃香も意地を張る時は張るよな……そう思いながらも、そうさせた理由は全て隼人側にあって。
様々な気持ちが胸に痛いが、それを誤魔化すように減らず口を叩く。
「俺の方にはいつも不意打ちで来てたのにひどい話だよな」
「あはは……そうかも」
笑いながらも、桃香がそっと手を伸ばしてきて。
反射的に普段よりもさっきよりもかなり強い、もしかすれば少し痛いかくらいの力でそれを握る。
「あ、ごめ……」
「ううん」
気付いて慌てて離そうとするも、桃香の方がそれを許してくれなかった。
「今は、離しちゃだめだから」
「……そう、だな」
「帰ってこなかったら、いやだからね」
何を当然なことを、と言い掛けるも……不安にさせたのは誰だ? と思い直す。
「勿論、桃香のところに戻るって」
たったの三泊四日だって、と意識して笑いかける。
この時は、そのつもりだった。