120.おやすみとおはよう
「ね、はやくん」
「ん」
「まだ、起きてる?」
「そりゃな」
廊下を挟んで隣の部屋から聞こえてくる桃香の声に応える。
「さっき、布団に入ったばっかりだろ?」
「だよね」
自分のは慣れたもののため手早く位置取りをして落ち着いて、むしろ普段ベッドの桃香がポジションを整えている物音を意識して聞き流していた所だった。
「寂しいのか?」
「うん」
「……」
若干からかうように聞いたのに、本気の色が濃い返事をされて若干戸惑う。
「そうかそうじゃないか、って聞かれちゃうと……そうなるよ?」
「……いつもの夜よりは近いと思うけれど」
距離はともかく、遮蔽物が格段に薄く少なく、現にこんな風に声は届いている。
「いつもも、はやくんが戻っていった後はちょっとだけさみしいよ」
「……そう、か」
さすがにそれはどうしようもない、と謝ったものか迷っていると桃香の言葉は続く。
「あ、でもね」
「うん?」
「さっきまではやくんがいてくれたのにまた明日までだな、ってさみしさだから……」
一瞬、桃香の声が暗がりに消えた後で。
「いつ帰ってきてくれるかな、よりずっと……うれしいさみしさ、かな」
「……ん」
こんな時は抱き締めた方がいいのだろうか? と思ったものの、触れないとか言った建前が先に出るのが自分のどうしようもないところだと、溜息が出る。
「桃香」
「うん」
「ありがとう」
ただ、これも本当に生まれた気持ちを素直に言葉にする。
「あ、いや……桃香が寂しがっているのにそれはおかしいよな」
した後で、慌てて訂正しようとするものの……。
どう言い直せばいいのかがわからずに口だけが空転する。
「ただ、その……ええと」
「うん」
「桃香の大事な存在にしてもらえてるのは、嬉しいから」
「えへへ……そうなんだよ」
とっても大事な人……と桃香の言葉がふわりと消えて行ったところで、問いかけが追いかけてきた。
「はやくん」
「ん」
「明日も、いっしょにいてくれる?」
「勿論居るよ」
「よかった」
掛けている毛布より柔らかく温かい笑い方が伝わって来た。
あと、小さな欠伸も。
「安心したら眠くなってきちゃった、かも」
「……寂しくなくなった、か?」
「うん」
「よかった」
「えへ……ありがと」
心地良い無音の余韻の中で。
「おやすみ、桃香」
「おやすみ、はやくん」
そして、小さな囁き声がその後で聞こえた気がして……。
俺も、とだけ返して瞼を閉じた。
「おかえりなさいはやちゃん、じゃなかった……!」
気付いたら目の前には桃香が居た。
今はもう随分と上書きされたけれど、この春まで何度も思い出していた姿の方の桃香が。
だから、これは夢だな、それも桃香の傍から離れた時によく見ていたもの……と早々に気付いて。
「おかえりなさい、あなた」
「うん、ただいま!」
昔の俺は素直に元気な返事をしていたもんだ……と苦笑いする。
「ごはん、できてるよ!」
木の実と葉っぱと土の御膳にも、まあそうだったよな……と思った直後、笑いを引っ込める。
比べて今の桃香は誰に見せても恥ずかしくない料理を作ってくれるようになったな、と。
精々今は手伝い程度……な自分と比べて本当に。
「おいしいよ、ありがとうももちゃん」
「えへへ、だいすきなだーりんにあいじょうたっぷりだもん」
「うん、僕もももちゃんのこと好きだよ」
本当に素直だな昔の俺……と幾つかの意味で頭を抱えたくなる。
昔のままもどうかとは思うが、今の自分は何と可愛げが無くて面倒臭い奴なんだか……と溜息を吐いた後、よく桃香に愛想を尽かされていないものだと感謝する。
「はやちゃん、そこは『はにー』でしょ!」
「えー、そうなの?」
「およめさんのことはそう呼ぶものなの!」
今の俺が桃香に言ったら流石に絶句するかな、なんて思いながら。
ゆっくりと訪れた落下するような感覚に逆らわずに夢の中でもう一度瞼を閉じた。
「ん……」
目が覚めて、普段とは違う視界に少し驚く。
いつもは天井が目に入るけれど、今は横向きに寝入っていたようで隙間を開けた襖が目に入る。
眠る直前まで桃香と話していたんだっけ、とすぐに思い出して向こうに意識をやると安らかな寝息が聞こえて、安心と温かい気持ちに満たされる。
寝顔を見たい欲にもかられるけれど、今は止そうと思い止まり、時計を確認すると普段の起床より三〇分ばかり遅い時刻だった。
「あ」
桃香のことを考えたところで、見ていた夢のことを思い出す。
その気恥ずかしさに……そりゃあ教室でああいう扱いはされるか、と納得しそうになったものの、今はそうじゃない筈だと内心で首を横に振る。
「どうしようかな……」
切り替えるために意識して声に出しつつ、いつ、桃香に声を掛けて起こそうかと迷う。
桃香の声を聞いて笑顔を向けて欲しい気持ちはあるけれど、昨日は慌ただしかったから出来る限り寝かせておきたい気分ではあるし、季節柄まだ外は暗い……あと桃香は結構よく眠るのでまだまだ先でも良いか、と思うのだけれど。
懸念としてかぐやがそろそろ起きそうだというのがあって、愛犬とはいえそれに桃香を起こされるのは若干癪、な気持ちも無くはない。
本当にどうしたものだか、と考えながら……考えているうちに、やはり桃香の顔が見たくなる。
触れると見るは違うから、でも春に寝顔を見た時はそこそこ根に持たれたぞ? じゃあ盗み見か? いや、もっと駄目だろう……なんて葛藤のうちに、でも身体は音も立てず廊下に出て桃香が使っている部屋の前に居る。
そうして体感三分ばかり葛藤していると。
「……はやくん?」
普段の柔らかさを通り越して全く力の入っていない、寝惚けた声が向こうから聞こえた。
「ごめん、起こしたか?」
「……でも、はやくん呼んでなかった?」
「いや……」
咄嗟に否定しかけて、全く出来ないと思い直す。
「……うん、その、桃香の顔が見たくなった」
「え? あ、そう……なの?」
「ああ……」
少し驚いたような声の後、布地が擦れる音がして。
「どうぞ」
「うん」
思わず廊下の板の間に正座してから、襖を引いた。
「えへ……寝起きの顔で、ごめんね」
「いや……」
軽く整えただけの寝乱れた形跡が残る髪とまだ眠気に潤んでいる瞳に色香さえ感じてしまう。
あと、とても直視は出来ないが寝間着の首元のボタンが一つ開いてしまっているのも危険だった。
「桃香はいつも、可愛いよ」
「!」
瞬きの後、桃香が残っていた眠気の八割は吹き飛んだ顔になる。
「うれしい……けど」
「ん」
「どうしたの? はやくん」
「……事実は事実だから」
喜色満面で見つめられて、思わず目を逸らしてしまう。
「あ、もしかして……」
ぽん、と桃香が胸の前で両手を合わせる。
「おなか、空いちゃったの?」
「違う」
朝食は食べれる程度には空いているが、若干昨晩食べ過ぎた影響も否めない所だった。
少なくとも、眠っている桃香を起こす理由ではなかった。
「本当に、桃香の顔が見たかっただけ……だから」
「そう……なんだ」
くすっと笑ってから、桃香がもっと笑顔を表情に満たしてくれる。
「これで、よかった?」
「うん」
「はやくんも、ちょっと寂しくなったの?」
「かも……な」
夢のことを片隅に思い出しつつ……正確には恋しいかもな、とは頭の中で呟く。
そんな隼人の脳内を知ってか知らずか、桃香が両手を差し出して首を傾げる。
「ぎゅって、する?」
「……触れない約束」
「わたしからだから、いいよ?」
「いや、しない」
「いじっぱりさん」
でも、すっごくはやくん……と、くすくすと笑う桃香の声が消えてから。
「明るくなったら、かぐやを散歩に連れて行ってくるので……朝食はその後で、お願いします」
「はーい」
にこりと笑ってから、桃香が一つ提案をしてくる。
「じゃあ、それまでお話してよっか?」