116.起きるのはNG
「ただいま」
「おかえりなさい」
「……」
「どしたの?」
桃香に迎えてもらうこと、自体は今まで何度もあったけれど。
桃香の家で、普段より少し丁寧な感じに、明らかに家事をしている格好でされると……どうしたって心の中でくすぐられるものがある。
「ちょっと遠くまで行って来たの?」
「ん?」
「いつものお散歩より長めだったから」
主な理由としては、単に無になりたいだけだったけれど……ペースと併せていつもはしぶしぶ帰るかぐやがもう帰りたそうな素振りを見せるくらいのハードワークだった。
「ええと、その」
「?」
「腹を空かせようかな、って思って」
「そうなの?」
一応、考えなくも無かった理由を述べれば桃香がぱあっと笑う。
「えへへ……そう、なんだ」
「ああ、あと……その」
「?」
「ちょっとした買い物とか、家の部屋の準備とかも、したので……」
「あ、あはは……」
正直に言うと、桃香の視線が在らぬ方向を彷徨った……その様子に隼人も五分ほど前のことを思い出す。
来客用の布団を準備しながら、今日桃香が家に泊まるんだよな、と悶々と考えたことを。
「「……」」
沈黙は、キッチンタイマーの電子音が破ってくれた。
「あ、いけない」
「ごめん、混乱させるようなこと言った」
「ううん……もうちょっとかかるけど」
「ああ」
「頑張るから、待っててね?」
たっぷりめに麦茶が注がれた大ぶりのグラスを渡された。
適当に変えてもいいよ、と言われた桃香が音が欲しくてつけているというテレビを何となく眺めながら。
時間としては僅かでも気持ちの置き方はちらちらと盗み見ている桃香に全部占められている。
「いや、無理だろ……」
隣にくっついていないと聞こえないくらいの、小声で呟く。
心から好きな女の子が、自分の為に家事をしてくれている姿……今まで全くなかったわけでもないが、今回は二人きりで誰に咎められるわけでもない。
いずれそうできたら、と気持ちの何処かで思い描いていた姿が現実で降って来て……苦しいくらいの幸福感に慣れない心が悶えている。
「はやくん?」
「んっ!?」
「どうしたの?」
そんなことを考えながらの盗み見の回数が二桁に乗り、回数当たりの時間も無意識に増え……凝視、レベルになったところで遂に桃香と目が合った。
「い、いや……別に」
「そう?」
「ああ、そう、だ……」
慌てて逸らした視線の隅っこで桃香が小首を傾げ……にこりと微笑む。
「そっか」
「?」
「えへへ……」
小さなフォーク片手にスリッパの音がこちらにやって来て。
「おなか、空いたんでしょ?」
「!」
「ちょっとだけ、味見どうぞ」
二回、小さな吐息で冷ましてくれた里芋を口に差し込まれる。
「あ、でも」
「?」
「かえって食べたくなっちゃうかな?」
「……かも、しれない」
ごめんねー、なんて少し舌を出して笑いながらも隼人側に屈めていた身を起こした桃香の表情を目が追ってしまう。
「ちょっとだけ、急ぐね」
「いや、大丈夫だからあわてずに」
「そう?」
「ここまで来て桃香の料理食べれなくなったら……泣くぞ」
「あはは……大袈裟だよ」
「……」
本気でそうなる自信はあるものの、邪魔をしたらいけないと大人しく黙る。
黙った後で、あまり目を遣るのも、と思い……ソファーに深く座り直してから今度は耳の方で桃香が立てている幸せな音に集中することにした。
そうなれば当然、揃い過ぎた要素のため……。
「はやくん、はやくん」
「ん……」
「起きて、起きて」
とんとん、と肩を二回叩かれるのを三度ばかりされて……そろそろか、と目を開ける。
「あ、おきた」
「……ん」
気配と香りで想像できていたけれど髪も含めれば視界の全部を桃香が占拠していて、いつもより優しさが多めの笑顔を浮かべていた。
「おはよ?」
「ん……うん」
「お寝ぼけさんだ」
寝惚けているんじゃなくて惚けているだけだ、とは口に出せずに頭を掻こうとして……掛けられていたブランケットを避ける。
「これ、ありがとうな」
「ううん」
改めてみると自分には絶対に合わないな、と思ってしまうオレンジ主体のチェック柄だった。
「気持ちよさそうだったね」
「……暖かかったし」
「いっぱい、動いた後だったみたいし」
「ん……それと、あと」
「?」
「何というか、その……」
不思議そうな桃香の視線から、思わず目を逸らす。
逸らしながらも、伝えなければいけない気がして口にする。
「幸福感、すごかった……し」
「!」
ゆっくりと、桃香の顔の笑みが濃くなってくる。
「そう、なんだ」
「ん……」
そんな桃香の表情がむず痒く、後悔ではないけれど……素直に口にし過ぎたか、程度には思う。
「ね、はやくん」
「ああ」
「ぎゅう、ってしていい?」
「……ほどほどに、なら」
「えへへ……」
少し低めのソファーの前に膝立ちをして肘置きに片手を付いていた桃香が、その手を放して隼人の上にそっと降って来た。
「ほどほどに、って言ったんだけど……」
「……むり、かも」
仮に相手がかぐやの突進だった場合は窘めるくらいに強めに胸に埋められる。
桃香なので全く拒むつもりどころかその発想もないけれど。
「はやくん、はやくん」
「ん」
「わたしも、しあわせ」
「……良かった」
まだ「指一本触らない」の前だよな……と思いながら、ここでそうしないのは駄目だろうとそっと両手を桃香の背中に回す。
「……あ」
「どうした?」
「なんでも、ないよ」
桃香の声に含まれる嬉しさがさらに膨れて、甘えるように頬ずりされる。
「なんでもなくはないけど」
「どっちだよ」
「えへへ……」
じゃあそろそろ、テーブルに並べるね……と名残惜しそうに身体を起こす桃香の背中に回していた手には全く力を入れず、桃香を開放する。
離したくない本音に従うと本当に離せなくなる気がして。
「少し早いけど、食べちゃおうか」
「結構減ってるし、そうだと嬉しいかな」
「はーい」
返事をしながら、桃香が壁に掛けられた時計を指差す。
「はやくん、二〇分くらい寝てたんだよ」
「……」
「どしたの?」
少し迷ったが、正直に告白することにした。
「……一〇分ちょっとくらいだよ」
「え? そんなことないよ、だって」
あのくらいでお散歩から帰ってきて……と計算を始めた桃香が、ぴたっと動きを止めた。
「……もしかして」
「……」
「起きてた、の?」
ゆっくり頷いてから、膝の上にブランケットを畳む。
「これをしてくれた辺りから……ぼんやりと」
「そう、なんだ……」
桃香の頬の、少し引いていた紅色がまた寄せ返して。
「どうして教えてくれなかったの……」
「そりゃ、だって」
「……」
「あのタイミングで起きたところで、どうしろ、と……」
「うー」
幸せそうな甘い声色で「かわいい」だの「やっぱりすき」だの「今度はわたしのお膝でね」等と合間合間に呟かれる状況でどう目を開けて対応すればわからなかった、のだ。
「それに」
「それに?」
「そもそも起きたら駄目、だったんだろ?」
「!!」
もうちょっと起きないよね? と囁かれた後、桃香の髪と唇に頬を触れられた感触は鮮やかに残っている。
「ああしてるしか、ない、だろ?」
「そうかもだけど……」
ソファーの前まで戻って来た桃香に、ミトンの手で抗議するように二度叩かれる。
「でも、だって……」
「うん」
「好きな人があんな風にしてたら、そうしたくなっちゃうよ?」
「そうとは、限らないだろ」
「わたしはなるもん」
ミトンがもう一発、追加される。
「なったんだもん」
「ん」
ごめん、と呟いてから。
袖から覗いている桃香の手首にそっと触れつつ返す。
「その、桃香」
「……うん」
「嫌なわけが全くない……というか、嫌いじゃないというか」
「うん」
「またして欲しいと言うか」
「ほんとに!?」
「……頻繁だと、色々持たないけど」
「えー」
何言っているんだ俺、と口から出た言葉を本当にそうだと思う。
「桃香のしてくれることは、全部嬉しい、よ」
「本当?」
「当たり前だって」
「……うん」
もう一度、桃香がさっきの位置に戻って、額を胸にくっ付けられる。
「晩ごはんも、うれしいって思ってもらえるかな?」
「用意してくれるだけですごく嬉しい」
「じゃあ、お口に合えば?」
「さらに幸せになれる……かな」
「そっかぁ」
満足そうに呟いてから。
「今度こそ、用意するね」
「ああ、その」
「うん?」
「ごめん、邪魔をして」
「えへへ……いいよ」
にっこりと笑って、ミトンを外した指先で鼻を軽く突かれた。
「~♪」
さっきより更にご機嫌に、鼻歌混じりに食器を出している。
そんな桃香のエプロンの後姿に、頬に手を当てる。
「……もうやばい」
桃香の、転寝ではない寝顔を見てしまうかもしれない日に。
こんなことは意識しないわけがなかった。