110.トリキメ
「あー、楽しかった」
「そっか」
「うん」
桃香の笑顔が、真下から見上げてくる。
桃香のベッドに腰掛け、太ももに桃香の頭を乗せている格好……ちょっと朝早かったから、という桃香に押し切られて。
「んー……」
「どうした?」
「結構厚みあるね、この枕」
「換えるか?」
「いやでーす」
楽しそうに拒絶されては、苦笑いするしかない。
「えっと、それとね」
「ああ」
「ちょっとスッキリした、かな……はやくんにお弁当作って二人で食べて」
モヤモヤしてたのは本当、という昨日聞いた言葉が蘇る。
「……ごめんな」
「ううん」
軽く髪に触れつつ謝れば、軽く首を振って貰える。
「ちょうど良かったしね」
「ん?」
「わたしは、何となく中学校の時の流れで花梨ちゃんたちと食べちゃってたし……はやくんもお友達と、だったでしょ?」
「ああ……」
言われて、こちらに戻って来たばかりの頃を思い出す。
「あれは、本気で焦った……というかどうしようかと思ったな」
「え?」
「桃香に、避けられて……」
「あ」
目を泳がせた桃香が、呟くように言う。
「だって、はやくん……かっこよくなっててホントにびっくりしたんだもん」
しかも起きたらいきなりでしょ? と桃香の声が小さくなる。
「あれは事故と言うか……それを言うなら桃香だって」
「?」
「綺麗になってて驚いたさ」
「……!」
互いに明後日の方を向いたりしながら、互いを伺って。
「はやくん」
「ああ」
「それ、ほんと?」
「前にも言ったけど……」
「……うん」
「それに嘘はつかないし、つけない」
「えへへ……」
桃香が袖を引いて隼人の手を引き寄せ、両手でしばらく遊ぶ……隼人はそれにされるがままになっていた。
「まあ、だから……昨日も」
「昨日?」
「桃香が先に帰るってなった時、正直どうしようかと思った」
「あ……ごめんね」
「いや、もう大丈夫なんだけど」
理由は隼人には秘密だった買い出しだともう判明しているので。
「あ、えっと、それでね……」
「うん」
「お弁当のこと、だけど」
「ああ」
手の動きは止めたけれど、隼人の手は捕まえたままで桃香が再度話を切り出す。
「夏くらいにはお料理も自信がついて、どうしようかな、って思ってて」
「成程」
隼人の方は相槌を打ちつつも……自分の手が桃香の上に在って若干落ち付かない。
「はやくんと七夕に約束したこと待っている間に、どうしても我慢できなくなったときに、作って行っちゃおうって決めてたの」
「……何を?」
「えっと……お弁当、どうだった?」
「そりゃあ、美味しかったけど」
「他には……?」
他、と聞かれても味も見た目も良かったので思い付かない隼人に桃香が少し焦れたように聞いて来る。
「うれしくは、なかった?」
「!」
自分で分かるくらい表情が動いたのを、桃香が満足そうに見上げてくる。
「嬉しかったよ、そりゃあ」
「うん、よかった」
桃香が声を少し小さくして、もう一つ尋ねてくる。
「わたしのこと、少しは意識し直してくれた?」
「……し直すも何も」
「?」
「常にしているものをどうしろと……」
桃香に先に帰られたくらいであの様だよ、と内心で自嘲しながら。
「えへ……そっか」
頷いて瞼を閉じた桃香が、あと、と付け足す。
「あとは、見せちゃいたかったのもあるかな」
「……何を?」
「はやくんのこと一番大好きなのはわたし、ってこと」
「……」
「ね?」
片目だけ開けて、少し悪戯っぽさも感じられる表情でじっと見られる。
「時々、思い切ってやっておかないと」
「……桃香の思い切りは心臓に良くない」
「控えめにやって効いてくれなかったら困るもん」
「む……」
「待ち遠しくなっちゃうときがあるのも、わかってね?」
「はい」
「えへへ……」
「どうした?」
「ちょっと厚くて硬めだけど、慣れてきたら気持ちいいな」
「そっか」
そろそろ退いた方がいい? との問いに首を横に振る。
重みが気にならないわけではないけれど、それ以上に桃香が満足そうな方が大きいから。
「ありがと」
それが伝わったのか、桃香の笑みが一段と濃くなる。
「特等席、だしね」
「……まあ、需要が限られてるからな」
「限られてるだけで、無いわけじゃないんだよ?」
最近の出来事を踏まえ、軽く薄桃色の唇を尖らせられてしまう。
「綾瀬桃香様指定席にしておきます」
「どのくらい有効ですか?」
「桃香が望んでくれる限り」
「うん!」
勿論わたしのもだよ! と触れたままだった手をぎゅっと握られる。
「ありがとう」
「どうしたしまして……わたしも」
「うん」
「うれしい」
「ええと、それで、なんだけど」
「うん?」
少し切り替えるように、声色も意識して切り出す。
「お弁当、本当にありがたいんだけど……毎日で、いいのか?」
「うん!」
眠そうな素振りも若干あったくせに、はっきりと返事をされる。
「……その、幾つか要望はあるんだけど」
「そうなの?」
「ああ」
先ずは。
「量の方を、少し加減してもらえると」
「あ、あはは……」
心当たりはあったのか、桃香が視線を逸らしながら誤魔化しの笑い方をする。
「はりきり、すぎちゃった」
「ん……」
だよな、と頷きながら今日の夕食をほんのりと思い出す。
隼人の秋刀魚の隣に普段の五割増しの大根下ろし……必要でしょ? とばかりに置いた母さんにも桃香がそうなってしまうであろうと読めていたんだな、って思わされた。
「今日の八割くらいでお願いします」
「はい」
素直な返事に思わず笑ってしまう。
「あとは、無理は絶対にしないでほしい」
「……うん」
素直に頷いてから、でも、と続ける。
「前の日のうちにある程度準備しちゃったりするから……家の晩ごはんとかとも絡めて」
「なるほど」
「明日も、はやくんの好きなものだよ」
「んー……ミニハンバーグ、とか?」
何の気なしに呟くと、桃香が可笑しそうに笑う。
「だいせいかい」
「……ははは」
軽く拍手もされて、隼人も笑みを零してしまう。
「あとは、枝豆ご飯のお握り、とか?」
「すごいすごい」
「え? 本当に?」
「うん」
脳内で再生した豆の触感と味に思わず涎が出たところで。
「でも、大変だったんだよ?」
桃香が軽く溜息を吐く。
「……何、が?」
「お豆、家のお父さんがビールのお供にしようと狙ってくるんだもん」
「多少は融通して、な?」
「ちゃんと小鉢に山盛りであげたのにもうちょっととか言って取ろうとするんだよ?」
「……そう、か」
別のところで好感度が下がっていないか不安になるところだった。
愛娘に手を出している自覚は、無論ある……というか、お怒りを買っても仕方ない距離で触れ合っている。
でも、このどうしようもない自分の内心を片付けて晴れて桃香と、となった時には……。
「はやくん、はやくん」
「ん?」
「難しい顔してどうしたの?」
「まあ、ちょっとな」
「そうなんだ」
果たしてどのようなことになるのやら……と思う前に、そも昔の自分が桃香にできて今は出来ていない、のが何なのだろうかとも悩みが尽きない。
一応考え続けているが、本当にそうか? と言うことくらいしか思い付いてはいない。
「だいじょうぶだよ?」
「ん?」
「お父さんもはやくんのこと嫌いじゃないし」
「……そ、そうか」
「ちなみにお母さんは、はやくんのこと、お気に入りだよ?」
「ん……」
そちらは、昔から一貫して優しくしてもらっている。
「はやく捕まえておいで、って」
「……そ、そうか」
それでいいのか? と思ったけれど、まあ味方でいてもらえるならそれで、と思うことにした。
「あ、そうそう、わたしも確認があったんだけど」
思わず考え込んだ隼人を引き戻すように、桃香が口を開いた。
「お弁当、当面……なの?」
「まあ、その、一応」
「わたしは別にもう卒業まででも全然やっちゃうんだけど」
そしてそれすら通過点のつもりで言ってるのが何となく、伝わってくる。
「それは、ありがたいんだけど……その、当面と言うか、偶には」
「?」
「桃香に休んでもらう日、も作れればと思って」
「……学食にいく、とか?」
クエスチョンマークを三つくらい浮かべながら呟いた桃香が、思い付いた! と手を打った。
「もしかして、はやくんも……ってこと?」
「……期待はしないでくれよ、色んな意味で」
思わず目を逸らした分、桃香が見つめてくる。
「それは、無理かな?」
「……いや、でもな」
「はやくん、昔から言ったことはしてくれるし、手先は器用だし」
「……」
手先は、の「は」が矢鱈大きく聞こえてしまった気がするのは流石にひねくれ過ぎだろうか……。
そんな隼人の内心を他所に、にこにこと見上げながら桃香が手を上げてくる。
「はやくん、はやくん」
「うん?」
「いいこと、思い付いちゃった」
「何……だ?」
「二人で作っちゃう?」
「何を?」
口にしてから、一体最前まで何の話題をしていたんだと自分に呆れる。
「それは、お弁当、だよ?」
「……だよな」
「お休みの日に、次の日の分を作っちゃう、とか」
立つのか? 二人で? どっちの家の台所に? ……等と若干混乱しつつも考え続ける隼人だが、一つだけどれだけ削ぎ落としても確かなことがある。
「どうかな? はやくん」
「……検討はする」
どうしたってエプロン姿の桃香は魅力があって、一緒に料理をすること自体は例え手伝いの領域でも楽しいのだろうな、と。