100.悪戯
「疲れた……」
自宅の階段を下りながら本日二度目のそんな溜息が口から零れる。
小さな子供たちを相手した肉体面と、その後で花梨たちに遊ばれた精神面とのダブルパンチが結構効いていた。
あと、その為に妙に桃香を意識してしまった自分との葛藤や、その後の二人での家路などにも。
いや、普段もしていないと言えば噓になるのだけれど。
「とりあえずお茶でも飲も……」
本日何度目かわからない頭を掻いて、一階に降りると父が電話をしながらパソコンに向かって何やら調べているのに遭遇する。
母は少し所用で隣に顔を出しているということを帰りがけに聞いていたので、暫くは着替えるの後にして不肖の息子ながら店の方を気をつけておくか……と思った矢先だった。
小さな物音と、古書店にはまるで似合わない声が聞こえた気がしてそのまま家屋部との境の戸を引いて店舗の方に父の履物を引っかけて出た。
「大丈夫?」
「……!」
古本特有の香りがする店には似合わない、と感じた声の印象よりも更に幼い感じの……間違いなく小学生か、という感じの少女に声を掛ける。
先ほどまでの催しで一緒だった子たちよりは間違いなく上だろうけれど、それを引き摺った声の掛け方をしてしまったな、と慌てて次の言葉を来店者用に改める。
「何か、お困りですか?」
「……」
背丈の問題はどうしようもないけれど、あまり上空からにならないよう膝を曲げて問いかける。
傾きかけになってもう少しすれば夕日と呼べる光の中でこういった店にこんな少女が居るのはやはり少し違和感があるな、と考えたところで……商店街の大人から何度か聞かされた二〇年近く前にご近所に激震が走ったという突然の美人女子大生バイト誕生事件とやらを思い出す、つまりは自分の両親の話なので詳しくなんかは聞かなかったけれど。
「ええと」
「はい」
「その本を、取りたかったんです」
姿勢を戻して自分の視線くらいの、彼女には絶対届かないであろう高さの背表紙を「これかな?」と指差すと。
「あ、その左となりです」
「っと、失礼しました」
自分の本を扱う時より二割増しで丁寧に棚から抜いて手渡すと、僅かに表情から緊張が抜けてくれたように感じられた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「いえ」
しっかりしている子なんだな、ときちんとした会釈に返答しながら。
「じゃあ、中の方に居るので何か困ったことがあれば」
それだけを言って、本を見てもらうにはあまり居ても邪魔だろうと奥に引っ込む。
引き戸を引きながらもう一度店内を伺うと、再び目が合ったので桃香のそれに比べれば全く華も価値も無いだろうなと思いながらも頑張って営業込みの笑顔を作ってからそっと音を立てないように閉めた。
ハロウィンの催しかそれとも他の何かがきっかけだったのかはわからないけれど余程本が好きなのかな? ということと、顔を合わせた時と本を手渡したときのそれこそ雪のような肌の白さが印象的な女の子だった。
「ふぅん……」
夜。
あの後、何となく気になってしまい手渡した本のタイトルから検索して少し古めの恋愛物だったと確かめる。
年頃の割に落ち着いて見えたし結構ませた子なのかな? と思ったところでふと自分の小学生時代を思い起こしてみるが……桃香と一緒の記憶が強すぎて果たして明確には何時からだったか? と思い、つい頭を押さえる。
何とも幸せなことだとは思うのだけれど、ついそうしてしまうのは恵まれすぎているくらいなのに今の状況が情けないという自覚はあるからだった。
その最初から傍にいたという幸運抜きでも桃香を抱き締められるくらいに、とは普段桃香の眩しさに流されつつも、随分面倒な性格を自覚しつつも頑張ってはいるつもりなのだが。
「……はぁ」
溜息が一つ出たところで、丁度隣の窓が開く音が聞こえて身を起こした。
「はやくん」
隼人が入って来た窓を閉めた後、窓際のいつもの定位置付近に腰を落ち着けるや否や、桃香もカーディガンの裾をふわりとさせて隼人の隣に座る。
「お昼は、おつかれさま」
「桃香もな」
「わたしは、そこまでハードじゃなかったよ」
小さな子と手を繋いでただけだし、と言う桃香に対して。
「まあ、多少負担が軽くなったなら良かった」
「大助かり、だよ」
「そっか」
隼人が頷くと、桃香も頷き返して……その後、少し声を小さくして付け足した。
「それに、ね」
「ん?」
「はやくんには、助けてほしいってよりは、一緒にきてほしいな、だったから」
ちょっと照れたような声色で。
「だから、ありがと」
「ん……まあ、クッキー貰ったからな」
「あ、そうだったね」
そんな風に言われては、また少し視線を逸らしながら受け取るしかできなかった。
出来なかった後で、もう少し言えないのかと思い直して付け加える。
「無くても、行ったけど……」
「そうなの?」
「桃香が、そう言ってくれるなら」
「そうなんだ」
桃香の呟くような声が余韻も消えて、外の風の音を聞いた後、袖口の辺りをちょんちょんと突かれる。
「でもね」
「うん?」
「はやくんにお菓子食べてもらうのも……うれしいから」
「そう、か」
うん、と頷いた桃香がもう少しだけ隼人側に寄って、ふわりとした髪とその香りが隼人に触れる。
「あ、そうだ」
「どうした?」
最前の、お菓子という単語があったので隼人も桃香に遅れて思い出す。
「今度は、わたしの番だったね」
「……俺は言う前に桃香に渡されてしまったけどな」
「え、えへへ……」
笑って誤魔化した桃香が、至近も至近だった位置から顔が見易いくらいの距離に離れて一度咳払いをしてからにっこりと言って来た。
「お菓子をくれないと、いたずらするよ?」
「……」
お菓子以上に甘い声色の気がした「いたずら」に思わず興味をそそられてしまい当初の予定を忘れそうになるが、辛うじて踏み止まる。
「じゃあ、これを」
「えへ……ありがと」
手渡した小箱を手のひらに乗せて、まじまじと見つめてから。
「開けていい?」
「勿論」
「うん」
僅かながら期待することがあるので、桃香の手先をさり気無いふりを装いながら見ていると……。
箱を開けた直後、一度瞬きをしてから不思議そうな声が聞こえた。
「あれっ?」
「……」
「はやくん、この箱……空、なんだけど」
中身のお菓子忘れちゃった? と言おうとしたと思われる言葉の「わす」まで口にした桃香が言葉を飲み込んだ後。
「そっか……」
「?」
「はやくん」
両手で隼人の左手を捕まえたかと思うと。
「ももか?」
予想外の行動に戸惑う隼人に構わず、自らの顔の高さに隼人の手を持ち上げた後。
「んっ」
「!?」
隼人の小指の第一関節と第二関節の間に、桃香の柔らかな唇の感触がした。
「あ、えっと……その、桃香?」
「……」
桃香が一瞬で離した後も、その十数倍は驚きと痺れるように熱い触れられた場所の感覚に支配されながら、呆けたように。
「どう、したんだ?」
「……だって」
そんな隼人の反応に徐々に染まって、もう耳の先まで赤い桃香が口を開く。
「はやくん、わたしに、いたずら……させたかったんでしょ?」
「いや、そうじゃないんだ」
そういう風に受け取られたか、とようやく理解しながらも隼人も顔の熱を自覚する。
「……?」
「その、軽くイタズラのつもりで……その箱、二重底」
「…………え?」
「ちゃんと中身、入ってるから」
「あ……あぅ」
まだ両手で隼人の手を持ちながらも、持っている位置と顔がどんどん下がって……前髪に、表情が隠れる。
そんな桃香に、最初に口火を切った方として隼人が先に口を開く。
「その、ややこしいことをして、ごめん」
「ううん……わたしこそ、はやとちりして、ごめんね」
「いや、まあ、嫌じゃなかったんだけど」
「そ、そうなの?」
「……まあ、だけど、その箱みたいに個人的には桃香にはされるよりしたい、と言うか」
「そ、そうなんだ……」
消え入りそうな声でもう一度そうなんだ、と呟いた桃香の声色に、我に返る。
「い、いや……その、深く捕らえないでくれよ?」
「え? ……ちょっと、無理、かも」
「桃香……」
「だって……」
もう互いに何を話しているんだ、という感じになりながらも……一つ、強い疑問点を確認する。
「え、ええと……桃香」
「う、うん」
「イタズラするにしたって……何だってそんな」
「だって……」
しばらく口を噤んでから。
「だって、花梨ちゃんたちとあんな話した後だと……ちょっとだけ、ちょっとだけはやくんのこと」
「……」
「か、嚙んでみたく……なっちゃった、の」
嚙むにしては随分と甘かったな、と思いつつも……その甘さが疼く様に効いているのもわかっている。
「痛かったりは、しないよね?」
「当たり前だ……」
そういうことじゃない、とお互い思っているはずだったけれど。
こういう時にどう収集すれば何て二人とも知らなくて。
「え、えっと……あのね」
「ああ……」
「このままじゃ遅くなっちゃう、よね?」
「そうだな」
普段からそうだけれど、今日は特に足を踏み外したときには惨事だな……と思いながら踏み切る直前に。
「あ、えっと……はやくん」
「うん?」
「嫌じゃ、なかったよね」
そんな心細そうな声に、一度桃香の傍に戻って。
「当たり前だろ?」
「……うん」
もし、ここでお返しと称して桃香の耳辺りを食んだとしたら……と言う衝動に耐えながらそれだけを囁く。
囁くだけ、にする。
「……」
その後で。
言いそびれたおやすみをメッセージで済ませた後、天井に向かって伸ばした手を広げて小指を見つめる。
おやすみどころでない、もう十数回目の行為。
まだ鮮やか過ぎるくらいに残っている桃香の唇の感触。
出来ればそれをもっと確かに別の場所で確かめたいと強く願いつつ……日付が変わってから時間を経てから、電池が切れるような眠りへの落ち方しか出来なかった。