88.学園祭の忘れ物
「ふぅ……」
完全に夏の残り香も消え失せて窓からの風が心地良い。
朝食後、熱い緑茶を飲んだ後だから尚更だった。
「お」
西側の、桃香の部屋側の窓が開けられる音がして……そちらを覗けばにこにこと笑う桃香と目が合った。
「おはよ、はやくん」
「ん、おはよう」
「もう朝ごはん食べた?」
「ああ、ついさっき」
「わたしは、今から」
それで。
「食べ終わって、準備したら……お邪魔するね」
「ああ」
「お待たせ~」
「ん」
読んでいた本にしおりを挟んで顔を上げる。
やっぱり女の子は支度に時間がかかるよな、と思ったけれどそれは桃香が早く来て欲しいことの裏返しだった。
「昼からでもよかったんだけど」
なのに、何をそんなこと言っている……と内心で苦笑いする。
でも、そんな照れ隠しは簡単に桃香の笑顔に吹き飛ばされる。
「お昼からも、来ちゃっていいでしょ?」
「……まあ、うん」
「えへ」
荷物を置いた桃香が、隼人の部屋で唯一と言っていい暖色系の専用座布団を手に取って隼人の隣にやってくる。
「はやくんは、何してたの?」
「見ての通り」
テーブルの上の本を示せば、桃香も頷いて荷物の中から文庫本を取り出した。
「読書の秋だね」
「もう十月だしな」
「うん」
座って位置を微調整しながら、桃香が尋ねてくる。
「ラジオは、どうしよっか?」
「桃香に任せるけど……平日のこの時間ってどんな番組やってるんだろ」
「あ、そっか」
振替休日だったね、と。
「とりあえず、聞きながら考える?」
「そうするか」
携帯スタンドに置いてアプリを起動すればゆったりとした音楽が流れ始める。
「いいかも」
「そうだな」
頷き合って、お互いに互いの本を手に取る。
「……えへ」
「ん」
数秒だけ桃香が頭を預けて笑ったので、お返しに離れた桃香の髪に指を通してくすぐった。
「ん?」
暫く本に目を通した後、視線に気付いて隣を見れば桃香と目が合う。
「集中してるな、って」
「そうか?」
「うん」
区切り良かった? と聞かれたので頷いてしおりを手に取ることで返事にすると、桃香もそれを見て自分の指を挟んでいただけの本をしおりに変えた。
そろそろ話したい気分にふたりともなっていた。
「どんな本読んでたの?」
「歴史小説」
「はやくん、和服にあうもんね」
「そういう基準か?」
「なんとなく」
番組も区切りで通販ものに変わったのでラジオを消しながら桃香が尋ねてくる。
「おもしろいの?」
「なかなかだけど」
終わったら読んでみるか? と言えば桃香が小さく頷いて。
「挑戦してみるね」
「いや、そんな意気込まなくてもいいんだけどな」
両手を握り拳にする、そんな仕草がおかしくていい感じに力が抜ける。
「じゃ、ちょっとおやつにしよっか」
鞄から林檎を二つ取り出して一つはテーブルに置いた桃香が、立ち上がる。
「ナイフとか持ってくるね」
「俺が行くか?」
「だいじょうぶ」
にこっ、と笑った後、軽い足取りで階段を下りていく足音を聞きながら。
「いや……俺の家なんだけど」
そう呟きながら苦笑いをしてみるものの、そこから繋げることができる連想は全部が全部甘口だった。
「そういえば」
「うん?」
手際よく林檎を剥いている桃香の手先を何となく見ているとそんな風に話し掛けられる。
「風邪とか、ひいてないよね」
「健康体だよ、至って」
「よかった」
いつもより優しい成分が多めな微笑みと、淡い色合いのカーディガンとロングスカートの服装に、ふと思うことがある。
「どうかしたの?」
「……いや」
ただ、わざわざ口にするまでもないというか……益体が無さ過ぎるので心の中に留めたのだが何かを考えていたこと自体は伝わったようで。
「気になる、かな」
「大したことじゃない」
「……気になるよ」
「……ちょっとしたことだから気にしないでくれ」
「えー……」
ナイフを使っていた手を止めて、ちょっと唇を尖らせた桃香が良いことを思いついた……という顔をして告げてくる。
「気になっちゃうから、うっかり指先切っちゃうかも」
「あのな」
自分を人質に取るなんて斬新なことをするな、と溜息が出る。
「教えて?」
「……すぐに忘れてくれよ?」
そんな前置きをして。
「その、何だ」
「うん」
「もし、今度本当に風邪をひいて桃香に厄介を掛けることがあったとしたら」
頬の辺りを少し強めに引っ搔きながら白状する。
「今みたいな感じでいてくれると……凄く、安心できそうだな、って」
「そうなの?」
「……忘れてくれ」
「ううん、無理」
「おい」
さっきまでよりずっとご機嫌に、林檎の皮を剥く音が再開する。
「ちゃーんと、覚えたからね……調子悪いと、さみしい気持ちになったりするもんね」
「……」
「そんな機会あんまりない方がいいけど、さすがのはやくんも五年くらいすれば一回はあるかな?」
「……そりゃあ、人間だもの」
「しっかり、はやくんがよくなるまで付きっきりで看てあげるから」
ことり、と皿の上にウサギを置いて小首を傾げる。
「安心して、元気になってね?」
「うん、美味しいな」
「ね」
甘さという意味では旬の時期の物には及ばないものの、充分に頬が緩む味が口に広がる。
「もうちょっとだけ固めだともっとはやくんの好みだよね」
「よく覚えてるな」
「えへへ」
そんなことを言いながら、二切れ目にフォークを刺しながら桃香が続ける。
「昨日の劇だとアップルパイにされそうになって魔女が慌ててたね」
「熱で無効化する毒だと……」
ついそんなことを考えてしまうが、桃香に訝しそうな目で見られる。
「はやくん?」
「ああ、ごめん……この前読んだ本にそんなトリックが丁度あって」
「そうなんだ」
ふーん、と桃香は頷いてから。
「あ、この林檎には入ってないからね?」
「もしも桃香が入れてたら共倒れだよな」
「あはは……込められてるとしたら、農家さんの愛情かな?」
「ん、確かに」
二人で食べているのに一玉で十分なボリュームがあって、大切に育てられたんだな、と思えた。
「あ、わたしもはやくんが美味しいって思ってくれたらいいな、って大事に剥いたよ?」
「ん……ありがとう」
「でも、わたしの本番はパイ……かな?」
桃香が隼人の部屋のカレンダーに目を遣って呟く。
「もうちょっと寒くなって、向いてる品種が出回り始めたら作るからね」
「楽しみにしてる」
「愛情たっぷりで、ね?」
この前練習していたという片目を瞑る笑い方を若干ぎこちなくしながらも。
「……楽しみに、してる」
「うん」
そんな言葉をもう一度使った隼人以上に楽しそうに、桃香はまた林檎を美味しそうに頬張るのだった。
そして。
そんなことを話したから、何となく話題が学園祭の物になって続く。
「花梨ちゃんと琴美ちゃんの雪女、結構評判よかったみたいだよ」
「まあ、尾谷さんと瀬戸さんも気合い入れてたし」
「確かに、いちばん満足そうだったのは絵里奈ちゃんかな?」
「ははは……」
そんな話題が一頻り続いた後、桃香がそもそも殆どなかった隼人との距離をさらに減らして囁いて来る。
「そういえば」
「ん?」
にっこりと笑ってから、両手で隼人の手を捕まえて頭の上に乗せられる。
「……ふたりきりなら、いいんだよね」
「それもどちらかというとこっちの台詞かもしれないんだが」
「いいでしょ?」
促されて、桃香の髪の感触を楽しめばくすぐったそうに目を細められる。
「えへへ」
「……満足そうだな」
「好きだよ、はやくんにこうしてもらうの」
流石にもう自分が桃香に対して持ってる意味も気持ちも自覚してるけれど……そんなものかな? と思ったところで、そうかもしれないと桃香から触れられた時のことを思い返す。
そんなタイミングで。
「あともう一つ、忘れ物があるよね」
「ん……?」
もう吐息さえ感じられるくらいに更に近くで桃香が微笑んだ後、瞼を閉じた。
「ええと?」
「……」
「もも、か?」
困惑する隼人に、小さな声で桃香が囁く。
「昨日わたしに『目を閉じて俺に任せて』って言った人、だーれだ?」
「……」
間違いなく、隼人自身だった。
「あ、ちなみに、だけど」
「ん?」
おでこも嫌いじゃないけど、と前置きされて。
「あの時みたいに痛いことしたら」
「したら?」
「……パイ、作ってあげないからね」
「それは……困るな」
そう言いながら、昨日の桃香の言葉の中で一番強かったものを思い出す。
いつもよりもう少し、そういう気持ちにさせられる。
「じゃあ」
「……うん」
桃香の肩に右手を置いて、身体を桃香の方に傾けて。
左手で。
「!」
桃香の頬を突いてから。
「はや……」
「ん」
「!?」
抗議寄りに戸惑う桃香の声には構わず、頬から上げた左手で良い香りのする前髪を除けて、そっと額に口づけた。
「えっと……えっと」
「うん」
暫く何かを整理するような表情を浮かべた後。
「えへへ……」
ふわりと笑ってから、隼人の胸元に落ちてきた桃香の背中にそっと手を回して尋ねる。
「パイ、焼いてもらっていいかな?」
この聞き方で良いのか、という気持ちも少しあったけれど……ストレートに聞くにはまだ隼人も上手く自分を制御できない行為の後だった。
パイで脅されたのも、もしかすれば桃香もああいう言い方がし易かったのか、と思う。
「うん」
でも、明らかに熱を持った桃香の頭が腕の中で縦に振られて、これで良かったか……と安堵する。
「とびきりおいしいの、作るね……」
「楽しみにしてる」
「うん、あとね」
「ん?」
「バニラアイスもつけてあげる」
「大サービスだな」
「そのくらい、うれしいから」
「いっぱい、いっぱい作っちゃうね」
折角の2/14ですが劇中は残念ながらまだ10月の頭……。
二人が全開になるまではもうしばしお待ち下さい。