87.ずっと前から
「何って言うか……」
「ああ」
「すごかった、ね」
「そうだな」
演劇部の皆様からの感謝と共に戻ってきた帽子とマントを整えつつ桃香が呟く。
ステージのある体育館から一旦校庭に出ながら隼人も口を開く。
「白雪姫って、あんな話だっけ?」
「だいたい……そうだったと思う」
桃香が持っていて昔二人で読んだ絵本と大筋は同じだった、がアレンジは激しかった。
「あー……でも」
「でも?」
「ちょっと林檎、食べたくなったかもしれない」
「うん、わかる!」
二度大きく頷いた桃香が、そうだ! と手を合わせた。
「明日、ちょっと時期は早いかもだけどお父さんにおいしそうなの仕入れてもらって、おやつにしよっか」
わざわざそれは、と普段なら思うところだったけれど一度口にした欲求はもうその甘い酸味を求めていた。
「……是非」
「うん」
指で丸を作って頷いてくれる桃香に、もう一つポロリと零れる。
「あと、なんだけど」
「?」
「そのうち……パイの方も食べたいかもしれない」
「ぱい?」
絶対、いつもの休日の時間にも、桃香が淹れてくれる珈琲にも合うと思えて。
一瞬置いてから理解してくれた桃香が、今度は力こぶのポーズになる。
「まかせて!」
「よろしく」
「うん! あとね」
「ん?」
「リクエストは、いつでも言ってくれていいからね」
にっこりと笑ってくれる桃香の黒い三角帽子が、一瞬だけ真っ白なコック帽に見えるくらいの頼もしさだった。
「もうちょっとだけ、回る?」
「そうするか」
校庭に並んでいる屋台は営業はしているものの最後の追い込み、といった威勢も景気も飛ばし気味の雰囲気になっていて。
否応なしにお祭りの終わりを感じさせるものになっていた。
「もしかしたら、売り切りでお得なのもあるかも」
「かもな」
「はやくん、おなかちょっと空いてるんでしょ?」
「ん?」
ああ、さっきのリクエストか……と内心で頷いてから、実際の首は横に振る。
「いや、あれは……桃香が作ってくれたのを食べたいな、ってだけで」
「そうなの?」
「ん」
「そうなんだ」
桃香に軽く体当たりをされ、そのまま腕を抱きしめられた。
「……どうした」
「ううん、なんでもないよ」
「そうか」
「うん」
ご機嫌な声の桃香がもう一度腕に力を込めて……それから離れるかな、と思った瞬間だった。
「あれ?」
「姫ちゃん?」
隼人には聞き覚えがない声が、背中側から掛けられた。
「あ、えっと」
そうっと隼人の腕を離した桃香が振り向いてから、少し迷い気味に声を発する。
「ひ、久しぶり……」
「だね」
「うん」
町でも見覚えがある他校の制服姿の女子が二人、桃香に片手を上げていた。
桃香の口振りなどからそれなりに話す間柄だけど花梨や美春ほど親しいわけではない、と感じられた。
あと、その「姫」と発する口振りも琴美や絵里奈が戯れに口にするものと違って自分たちと区別をするために使っているような意味合いがどこか滲む。
「誰彼構わず振っちゃう姫様もついに陥落したんだ」
「え?」
「ついに作ったんでしょ? 彼氏」
「……ぁ」
少しだけ隼人の方を見てから、桃香が慌てて両手を振る。
「ま、まだ……そういうわけ、じゃ、ない……けど」
「「まだ?」」
「う、うん」
「「あれで?」」
「い、いちおう……」
「「噓でしょ?」」
美春たちばりに随分リアクションをシンクロさせるのが上手い二人だな、と呑気なことを考える……ほどほどにどうでもいいことを、と言ってもいい。
「ふーん」
「え、えっと?」
「姫、こういう人がタイプだったんだ」
若干不躾な視線だな、と思いつつも……こちらに戻ってきてから、再び桃香と一緒にいるようになってからは時折浴びるものだったので笑み寄りの曖昧な顔で受け流す。
「タイプというか……好みは、すっごく好みだけど……それだけじゃないけど」
「ほほーん」
「それとも、もしかして男除けの偽装彼氏?」
「あー、人前で腕組んじゃう所あたりそれっぽい」
「!?」
肩を跳ねさせた桃香が、声もいつもの調子ではないものになった。
「ち、違うよ!」
もう一度、隼人の腕を抱きしめるようにして。
いつもより少し早くて、ずっと強い口調で。
「はやくんは……ずっと前から恋人になってほしいたった一人の男の子だよ」
「……桃香」
「ずっと、ずっと前から……」
「あ、ええと、じゃあ」
しばらくの沈黙の後、向こうから切り出される。
「うん」
「断る度に言ってたあれって、本当だったんだ」
「うん」
「好みじゃない男避けのダミーだとばっかり思ってた……」
「……違うよ」
桃香と話しながら隼人に向けられる視線に、俺はUMAか何か、か……等と内心で苦笑しながら、後は桃香にそこまでさせるほど大層なルックスでなくて済みませんね、と考えたりもする。
そんな余計な事でも考えていないと、桃香を抱き締めてしまいそうだった。
そんな、味わったことはないけれどきっと酩酊にも似た感覚の中、桃香に手を握られる。
そうして桃香がはっきりと言い切っていた。
「嘘とかじゃなくて本当の……わたしの大切な人」
真剣で真っ直ぐな表情と言葉に、むしろ彼女たちの方が顔を赤くして桃香からは目を逸らしていた。
「今までぶった切ってた選り取り見取りの中には結構人気の先輩とかも居たはずだけど」
「わたしにはどんな人もはやくんの足元にも及ばないよ?」
「……そ、そう」
「何か……ごめんなさい」
「? ううん、別にだいじょうぶだよ?」
桃香が首を横に振った後、また少し沈黙の時間があって……それから来場者に時間を告げて退出を促すアナウンスがかかった。
「あ、時間だ」
「じゃあ行くから」
「うん」
小さく手を振った桃香に、彼女たちは背を向けて数歩歩いた後、どちらからともなく振り返って。
「えっと、やっぱり……」
「その、ごめん!」
「え?」
桃香の方に戻って来て、そんな言葉を発していた。
「もうちょっと……嫌な子だとばっかり思ってた」
「可愛いからって調子乗ってる、みたいに……」
「え? えっ?」
隼人が横目で見る桃香と言えば、完全に困惑している模様だった。
「もっと、話してみればよかったかな……同じクラスだった時に」
「うん……そうかもね」
「むしろ、今からでも遅くないというか……今度色々教えてほしいというか?」
「え、えっと……全部を全部は言えないよ?」
「「さっきあんなこと言っておいて!?」」
「あ、あはは……」
「おかしいでしょ!?」
「ねえ!」
そしてその困惑の後、一気に空気が華やいで。
「じゃあ、今度こそ行くけど」
「機会があれば」
「うん、またね」
二人に、桃香がさっきより大きめに手を振っていた。
そして、その手で。
「じゃあ、わたしたちも戻ろっか」
「ああ」
再び桃香が、隼人の手を捕まえていた。
「はやくん……」
「ん?」
「お顔、赤いよ?」
「……お互い様、だ」
そんな言葉の後。互いに無言で、手だけを繋いだままで。
隼人の方は少し周囲を気にしながら、戻っていく途上で……教室に到着する直前にやっと人が途切れてくれる。
手に少し力を込めてから、呼びかける。
「な、桃香」
「うん?」
「俺も……桃香が一番大切な女の子、だよ」
こちらを見上げた桃香が瞬きの後ふわっと笑うから、少しだけ目を逸らしてしまう。
でも、言葉だけは続ける。
「恋人になってほしい相手も、好きって言いたいのも、桃香だけだから」
「うん!」
結構思い切り、桃香に肩から体当たりをされる。
「えへ」
「何だよ」
「うれしかったんだよ?」
「……そっか」
「うん」
頷き合ったタイミングで丁度教室の扉の前にまで辿り着く。
同じ呼吸で繋いでいた手に一度力を込めてから離して……並んで通るには狭いから隼人に桃香が続く形になる。
「あ、戻って来た」
「おい、隼人~!」
「あと、桃香も」
そして二人の姿を認めた途端に美春や蓮たちに囲まれる。
「ん?」
「どうしたの?」
「どうしたもこうしたもああしたも」
「何やら校庭を手を繋いでゾンビから逃げるカップルのドッキリがあったぽいけど?」
「今回は証拠写真まであるわよ!」
突き付けられたどう見ても自分たちな後ろ姿に。
「あ」
「そういえば」
「そんなことも……あったね」
顔を見合わせて、思わず笑ってしまう。
今まで忘れていた、と言わんばかりに……実際、忘れかけていたくらいで。
「はい?」
「ちょ、割と大事じゃないの?」
「そうだね、ちょっと怖かったかも」
「ちょっとだったか?」
「ちょっとだもん!」
軽く抗議するように頬を膨らませながら隼人の二の腕をぺちぺちと叩く桃香に、そんな二人に。
「あ、あれー?」
「本当にどうしたのさ?」
「おーい、他にネタないのかよ、滝澤」
「無茶言わないでよ」
色々、言われてしまっているようだったが。
何故だか今はそれさえ妙に可笑しくて。
「はは……」
「えへへ」
一瞬だけ人差し指を口の前に立てた桃香ともう一度笑い合って口を噤んだ。