09.決めておいた方がいいこと
「おはよ」
窓からの声に呼ばれれば、制服姿の桃香が笑っている。
やたらとキラキラして見えるのは朝日を浴びているから、だけではなさそうだった。
「ああ、おはよう」
無論、隼人に昨夜の後遺症が残っているというのもある。
「朝ごはん、もう食べた?」
「そりゃあ、うん」
元々朝の早い隼人だったし、食べない派でもなければこんなにゆっくりしている時間でも、もうなかった。
「じゃあ、えっと、ね……」
少し照れたような笑顔で提案される。
「今日からは、いっしょに行こ?」
「じゃあ、あらためて……」
互いの支度を済ませて、両家の丁度間の地点で合流。
「制服、変じゃないかな?」
ローファーのつま先を合わせて、小首を傾げる。
毎日見てはいた、でも見慣れるには鮮やかで、こんな近距離で静止されると眩しかった。
「どうかなー?」
そのまま器用にターンして髪がふわりと遊んでいく。
商店街の桜がまだ咲いていたなら学生服の広告に採用間違いなしだった。
「……」
「はやちゃん?」
「いや、その……うん」
「変、なのかな?」
桃香のしょげる様は、別の意味で効果がある。
「……き、昨日」
「きのう?」
制服の感想ではまず出ない単語に桃香の表情が素に戻る。
「昨日……までの、桃香と……同じようなものだと思って貰えれば幸いです」
「……!」
桃香にも隼人の状態が伝染する。
「はやちゃん……」
「……はい」
「うれしいんだけど、うれしいんだけどね」
朝の冷え込みはもう二人には関係なかった。
「一昨日も昨日もわたしが悪かったんだけど……蒸し返さない配慮、ってあると思うの」
「……仰る通り、です」
ぐうの音も出ない、お互いに。
「えっと、それで、感想……なんだけど」
「……」
もう一度。
「高校生になったわたしの、制服姿どうかな?」
言ったつもりだった隼人に、桃香の目は「それもわかるけど」と言っていた。
「せっかくだから……ちゃんと言って、ほしいな」
昔からお願いモードに入った桃香に勝てたためしはない。
「あ、もし、その……わたしと同じだったら、あの手を使ってもいいから」
「それ……蒸し返すって言わない?」
「まだ冷めてないからセーフだもん」
少々抵抗するが、押し切られるのは明らかだった。
「……えっと」
「うん」
桃香は奇麗になった。
昨夜も自然に思い付いた言葉が頭に出るが。
「……はやちゃん?」
口元を抑える隼人に疑問符の顔。
「ごめん、ちょっと言葉選びを誤った」
それを素直に口にできるならこうはなっていなかった。
でも、だからといって今までの「可愛い」と言ってしまうのもこの場合では間違えている気がした。
「……大人っぽくなって、良いと思う」
だから、これが精一杯の表現だった。
「本当に……そう思う?」
「……うそじゃ、ない」
全部本当を言えたわけでもないけれど。
言えるようにならないといけないと思いつつも。
「うれしい」
それでも、桃香の笑顔は嬉しかった。
「じゃ、じゃあ……行こっか?」
「うん」
たっぷり時間をかけてようやく横に並ぶ形になって歩き出す。
すぐに到着するわけではないが、先に決めておいた方が良いことを確認する。
「教室まで、一緒のつもり?」
「あ、そっか」
そこまでは考えてなかった、という桃香の顔。
「うーん……いまさらどうなのかな、って気もするし」
「でもまた、色々と……」
楽しそうな花梨や美春たちの表情がそれはもう現実的に思い浮かぶ。
それを気にするなら学校の大分手前で別れる必要がありそうだが。
「それでも、できるだけ、一緒がいいな」
「うん」
そのこと自体に、異論はなかった。
「……最終的にはそうなりたいもん」
そんな呟きの意味に思い至る前に。
「ところで、なんだけど」
桃香が話題を変え……いや、戻してくる。
「さっき最初に……何をどんなふうに間違えたの?」
「……ぐっ」
朝食の最後に飲んだ緑茶辺りが出そうだった。
「だから、あれはチョイスミスで」
「気になる、かな」
歩調の違いで前後しながら見上げてくる視線。
「誓って変なことじゃない」
「ホントに?」
微妙に納得いってなさそうな表情に、さて困った……となった隼人の耳に重めのエンジン音が入ってきた。
「危ないから」
「うん、ありがと」
もっとこちらに来るように促したすぐ後で、角を曲がり速度を上げようとしているバスが二人の傍を通過していく。
「あれ?」
「あ!」
そこで気付いたこと。このバスは、本来ならもっと学校近くで見なければならないものではなかったろうか?
「もしかして……」
「もしかしなくても!」
二人同時に時計を見て、慌てて駆け出す。
「ちょっとゆっくり過ぎた」
「ごめんね、わたしがいろいろ言ったから」
「いや……」
その桃香に対してもっとスマートな物言いができていたなら、と思いながらも手を差し出す。
「え? あ、その……」
息が上がるほどはまだ走っていない桃香の頬がほんのり染まる。
「いや、その……今はそうじゃなくて、鞄渡して」
「あ! そっか……そうだよね」
断然、と言っていいほど速い隼人に重荷を集めた方がいいという判断。
「ありがと」
「全然平気だから、急ごう」
「うん」
「間に、あった」
前方の扉から滑り込んだ教室で桃香の席に直行し鞄を置く。
「あ、ありがと……ぉ」
まだまだ余力のある隼人に対して完全に息も絶え絶え、といった風の桃香が少し遅れて入って来る。
「気にしない気にしない」
二人きりだったさっきまでよりは素っ気ないようになるよう意識しながら。
出来れば周りにも、具体的にはそれぞれがそれぞれで興味津々な模様で、簡潔に言えばすごく楽しそうな視線を送ってきているメンバーにもそうして貰いたい意思が伝わるとよかった、のだが。
「それは無理でしょう?」
「気になる気になる」
「噂の二人が一緒に教室に駆け込んでくるんだもんね」
「甘々~」
意図の方は伝わっていないこともない模様だったものの、汲んでくれるつもりは全く無さそうだった。
「桃香、そこんとこどうなの?」
「息が上がっているのを無理に喋らせないでもらえると」
「お、ジェントル」
「それにもう先生来るよ」
「確かに」
本当にギリギリなので自分の席に急ぐ隼人の後ろで。
「よし、一限目終了のチャイムがゴングってことね」
あちらは意気を上げている様子だった。
早退でもしようかな、なんて軽い冗談を独り言で口にするも。
「何も言わない方が悪い方に話が広がると思うよ」
おはよう、と片手を上げた友也に指摘される。
「隼人たちは色々と想像の余地がありすぎるからね」
「……勘弁してください」
そういう訳なので。
始まった英語の授業に対して身が入る筈がなく、隼人は答弁の内容を吟味するのに終始することになる。
一緒に来たことに対してなら、もう小学校が同じことは知られているので家が近いと言ってしまえばいいと思う。
隣同士というのは出来れば避けたいところだ、特に部屋がああいう構造だというのは絶対に知られてはいけない。
指摘通り女性陣の想像が膨らむ余地が有り過ぎる。
「では、ここから、綾瀬」
「はい」
五十音順最初というのは少し損だな、と単純な感想を抱く。
すらすらと英文を読んでいく桃香の声をBGMとしながら割と切実な考え事は進んでいく。
遅れたのは少々言葉の綾が色々あったけど、単純にちょっと忘れ物でもしたということで良いだろう。多少の嘘は方便というやつ。
桃香の鞄を持っていたのは、それはもうあの状況なら当たり前で良いだろう。
あとは、今日だけでなくここ数日懸念している案件があるが……。
「よし、次は逆順で吉野」
「……いっ?」
桃香が終わり注釈に移っているな、というところまでは聞いていたが流石に注意が散漫すぎた。
今現在授業で行っているページはわかるものの、教師の指している行がどこなのかがわからない。
教室の反対側で桃香が口パクをしているのは見えるが、伝わるのは頑張ってくれているということだけ。
「……っと Bob alive at」
幸い、前の席で肘を付いて半身を傾けながら勝利が広げた教科書に不自然に立てていたペンの先から危機を回避することが出来た。
チャイムの後で礼を述べると「そういうのは綾瀬とやれ」と言われた。
「だって、一緒に行きたかったからだよ?」
想定とは外れるものだけれど。
勝利に礼を述べるのもつかの間、美春たちに捕まり「さあさあさあ」と花梨の席に連行され、桃香と並ぶ格好にさせられた。
そこでは当然、まず最初になぜ一緒に登校したかを聞かれ、隼人が用意した答えを述べようとした矢先にこれである。
「「おおー」」
「「いえーぃ」」
拍手をする花梨と絵里奈、美春と琴美はハイタッチをし、さらに周りの女子からは黄色い声……一部の男子からは怨嗟。
居心地が悪いとかを通り越して小さく消えてしまいたい思いだったが、一時間前の友也の指摘もあるし、何よりこのまま桃香を放置するのは危険に思えた。
「それって、やっぱり、約束してたの?」
「ううん、今日はわたしから誘ったんだけど……そうだね、明日からは約束にしよっか?」
ね? と可愛らしく小首を傾げた桃香を素直にそう思えたならどれだけよかったか。
前言、もといさっきまでの思考を撤回して、やっぱり早退も選択肢だったと先に立たなかった後悔をする。
「それでいいかな? はや「そうだな、今日は危なかったから『はや』めに出よう」
もう一度舌の根が渇かないうちに掌をひっくり返す。やはりこの場に居ないと危なかった。
未だに幼馴染の女の子から名前を縮めた「ちゃん」付けで呼ばれていることが発覚する事態に比べれば大概のことは些細だった、男子高校生の心情的に。
それに比べれば毎日一緒に登校するのを証人多数で約束することなど些細……。
「いや、そうじゃない」
口の中で呟くものの盛り上がる周囲の前では後の祭り、ここまで来て撤回すれば逆に身が危ないであろう。
ならせめて当初の目的だけは達成しようと、出来れば何らかのサインを送りたいが衆人環境の中では無理がある。
「そうそう、桃香が吉野君と一緒がいいのはよーくわかったんだけど、どうしてあんなギリギリだったの?」
「やっぱり甘々で時間経つの忘れてた?」
「だって、それは、は「まあ、慣れてないから予想よりは時間がかかったかな」
桃香を褒めること、にというのは勿論伏せて。
「ふーん」
「ほー」
口硬い、と何人かからの視線に言われているが返す返す全部言わなければいけない理由はない。
「じゃあ、明日から二人は公園で待ち合わせ、とか?」
「公園? おと「遠回りになるからこっちから迎えに行く」
「おー、吉野君男前」
「ひゅーひゅー」
「あーら、じゃあ、桃香のお母さんたちには何ってご挨拶するの?」
「? だって「それは朝の挨拶くらいしていくよ」
普段なら短くないかと思う五分休みが今回は有難い筈なのに、何故だか異様に長く感じられた。
「明日からは、迎えに来てくれるんだよね?」
「遠回りにならないように」
一軒だけだけど、と窓辺の桃香が笑う。
「はやちゃんがおはようございますしていってくれたら、お母さんたちよろこぶよ」
「うん……」
お隣にはとても可愛がられた記憶があるし、帰って来た時も大変喜んでもらえた。
「それと、あと」
桃香の視線がこちらを伺うものに少し変わった。
「はやちゃん、はもうやめた方が良かったよね」
「まあ、その、もう子供じゃないのは見ての通りだし」
どこで気付いてくれた? と尋ねると。
「うーん……四時間目の授業中」
それもちょっと遅くないか、とも思うが伝わって幸いだった。
「それにこっちも咄嗟に出そうになって危ないので」
「わたしは……まだももちゃんでも、平気だよ?」
「こっちが駄目……というか、瀧澤さんたちに囲まれてる時でもそれで平気なのか?」
うーん……と考え込む桃香。
「時と場合によっては恥ずかしいかも」
「……時と場合にしか依らないのか」
妙に感心しながら桃香に言うも、桃香は比較的真面目に理由を説明してくる。
「呼んでもらえるのはうれしいから、そっちが勝つかな」
桃香はそれじゃあ、と隼人を促した。
「じゃあ、わたしのこと、呼んでみて?」
「え? こっちから?」
「うん、言い出しっぺさん」
楽しそうな笑顔で隼人の方を指さされる。
困るのは、隼人。
現状が困っているという認識だけが強くて全く解決策にまで至っていなかった。
「え、ええと……あや「おこるよ? はやちゃん」
さっきの今で、さすがにこれは全面的に自分が悪い自覚があった。
「も、も、も……」
「すもももももも?」
にこにこと、こちらを待っている。
その期待がどういう種類の答えを待っているのか……どうにもわからず、シンプルな方向に行った。
「桃香」
「もう、一回」
再考するように求められたか、と一瞬思ったが。
「そのままで、もう一回呼んで」
目を閉じて耳に意識を遣る様子を見せている桃香の口元の笑みは満足そうだった。
「桃香」
「うん」
普通過ぎていいのか、と少々の心配をしたが桃香が答える。
「大人な声になったはやくんに呼ばれると、ちょっと特別だね」
ならよかった、とあまりに自然に変えられたので通り過ぎかけた。
「今、何って?」
「えへ……わたしもちょっと特別な感じがほしいから」
「ね、はやくん」