チノちゃんと抹茶金時
突き抜けるような青空が広がる、ある暑い暑い夏の昼下がり。
八月に入って初めの水曜日。チノとローランは、喫茶店を一度閉めて、荷車を引いて注文された食材の配達に向かっていた。
荷台の中には木箱一杯に積まれた炭酸水や葡萄酒、麻袋に入った小豆などが積まれていて、チノは丁度その空いているスペースに、大の字になって寝転がっていた。
「あついーあついー、パパ、まだ着かないでしか?」
少しでも身体の熱を逃がそうと、二本の尻尾や足をパタパタ揺らすチノに、前方で荷台を引いているローランは、首に掛けられた白いタオルで汗を拭ってから苦笑した。
「もう少しの辛抱だチノ。この坂道を登ったら…………ッハ、目的の旅館だ」
そう言ってローランは足を踏み出し、また一歩目的地に近づく。
長い坂道を登り切った先に見えてきたのが、藍色の綺麗な瓦屋根が目立つ、趣のある旅館だった。旅館の入り口までは綺麗に磨かれた敷石がひかれており、チノはその敷石の上をピョンピョン、と跳ねて進んでゆく。
「すみませーん、『鈴猫堂』(すずねこどう)の者ですがー」
「ものですがー!」
そう入り口で声を掛けて中の様子を窺う。暫くすると、キッチリ着こなしたスーツの上に、旅館の名前のロゴが入った深緑の羽織を身に纏った男性が現れた。
「いらっしゃいませ、ご予約のお客様でしょうか?」
男がそう言って履物を用意し、荷物を預かろうとするので、ローランは慌てる。
「ち、違う違う!俺達は旅館の女将に頼まれて、注文の品を配達――――――」
と、そこで、スッと細い影が自分達の前に現れ、荷物を預かろうとしていた従業員の男性は慌てて頭を下げる。
「皆下がって。そちらはわっちのお客様じゃ」
「あ!あの時のおねーさん!」
声のする方を見ると、以前の艶やかな紅葉柄の着物とは違い、白い落ち着いた着物に、蒼い帯を纏った女性がやって来た。
燃えるような紅い髪を、金色の簪で綺麗に纏めたその女性は、以前、チノがお使いの途中に出会った九尾の狐、妃月神楽その人であった。
「ふふ、久しぶりじゃなあ、チノちゃん。息災だったかや?」
「元気だったでし!」
神楽はそう言って、ニコニコと笑いながら、少しかがんでチノの頭を優しく撫でる。それからチノの隣に佇むローランを見上げると、
「ぬしも、この暑い中こんな坂の上まで大変だったじゃろうて。客室を一つ用意したから、荷物の確認が終わるまで、そこでゆるりと過ごしてくりゃれ」
と声を掛けた。
「ああ、これはすみません。ありがとうございます、お邪魔します」
そうしてチノとローランは、従業員の男性に案内され、青々とした真新しい畳が敷かれた、小さな客室に通された。
漆が塗られているためか、艶のある木製の机上には、入れたての緑茶が、ホカホカと湯気を立てている。
「――――――うん、旨い。さすがは老舗旅館、 『天狐楽館』の茶だな。良い茶葉を使っている」
「このお茶、緑色なのに、甘くてとっても飲みやすいでし!」
「ははは、俺が煎れる東方の茶は、どうしてかいつも渋くなるから、チノにはこのくらいまろやかなのが、飲みやすくて良いかもしれないな」
「うん、チノ、このお茶気に入ったでし!」
と、二人が美味しい東洋茶に舌鼓を打っていると、カラリと客室の襖が開いて、九本のふわふわとした黄金色の尻尾を携えた神楽が再び現れた。
「お待たせしました。ローランさん、チノさん。本日は遠いところから、わざわざ当旅館の為に御足労頂きまして、誠にありがとうございます。
ほんの気持ちですが、こちら、納品して頂いた小豆で作らせて頂いた、当旅館自慢の新メニューでございますわ。どうぞ、心ゆくまで楽しんでくりゃれ」
そう言って、朱色の盆から机に運ばれたのは――――――
「ふあぁぁぁぁぁ…………!!」
目の前に置かれた『新メニュー』に、チノは大きなココア色の瞳を、更に大きく見開いてキラキラと輝かせる。
涼しげな金魚の模様が入ったガラスの器に盛られているのは、キラキラと輝くきめ細やかな氷の粒達。それらが合わさって見事な山を作り、その頂上には濃厚な香りの抹茶シロップがふんだんにかけられている。
また、器の下の方には、先程チノ達が一生懸命運んできた小豆が茹でられ、真白くもちもちとした白玉と一緒に、ちょこんとお上品に添えられていた。
「こちら、当旅館の新メニュー、『抹茶金時』でございます――――――ぬし達が運んできてくれた良質な小豆のお陰で、今年も納得のいくメニューが作れたでの。どうぞ、お召し上がりくださいませ」
「此方こそ、いつも当喫茶店をご贔屓下さり、ありがとうございます。頂きます」
「わーい!いただきます!でし!」
そう言ってチノは、小さな手でアイスピックのように、添えられた銀スプーンを掴む。
できるだけ溢してしまわないように気をつけながら、新緑に染められた氷の山を一さじ掬い、それをそーっと口の中へ運んだ。
「んー!!甘くて、ちべたくて、すっごくおいしいでし!」
「本当だ。白玉も、もちもちしてて歯ごたえが良いし、何より氷の質が良い。うーむ、これは流石、妃月女将だな」
「ふふふ、お褒め頂きありがとうじゃ」
そうして、甘くて、冷たくて、夢のように美味しい抹茶金時を食べ終わる頃。チノは、たまにはこんなお使いも悪くないなと思っていた。
――――――チノ達が無事納品を終え、お礼の抹茶金時をご馳走になっている間に、来たときには天辺にあったお日様がすっかり傾いて、いつの間にか旅館の外は、茜色に染まっていた。
「それじゃあ、此方が今回の納品の代金じゃ。また何かあったらよろしくしてくりゃれ。――――チノちゃん」
「はいでし、おかみさん―――――おかみさん?」
その時。チノを見つめる女将、神楽の紅い瞳は、温かな慈愛と、そして――――確かな寂しさに揺れていた。
神楽は声を掛けたきり何も言わないまま、チノの前にしゃがみ込んで目線を合わせ、綺麗な真白い、柔らかくて温かな手で、 優しくチノの頭を撫でる。
―――――嗚呼、もしかしたら。もしかしたら女将さんは昔、子どもが居たんじゃないのかしら? ―――――
そう、チノは帰りの荷台の上で、独り物想いにふける。
そっと目を閉じた目蓋の裏で、遠い昔。女将さんと同じような、優しくて懐かしい誰かの温もりを、少しだけ想い出せるような気がした。