第10話「ありがとう」
[SIDE:赤猫]
その少女は、とても脆い子だった。
その身は恐怖で染まり、見るもの全てに怯えていた。だけど、その子は誰よりも強い子だった。
いつからだろう。彼女の目がここじゃないどこかに向けられているような気がした。それは、ほんの些細な変化で、奴隷を玩具としか思っていないご主人様には、きっと分からないだろう。
でも、私は確かに感じたんだ。
恐れも怯えもありながら、ただ一つのことに取り憑かれたように目を向ける意思を。陰で一人吐きながら、必死に足掻こうとするその意志を。
一見するとその姿は、狂気に満ちたものかもしれない。だけど、狂気の中にいる私の目には、その姿は、とても眩い希望の光に映った。
彼女なら、諦めてしまった私たちには決して出来なかったことを、してくれるんじゃないか。そんな、淡い期待を抱いてしまった。
パキン、と何かが壊れる音が屋敷に響き渡る。
その音を耳にして、私の意識もようやくはっきりとしてきた。私は目の前で起きたことに混乱しながら、返り血と自身の血で真っ赤になった狐に問いかける。
「ねえ、狐。ご主人様は・・・その、死んだ、の?」
狐は、静かに頷いた。
・・・死んだ。ご主人様が死んだ。狐が、私にとっての光が、ご主人様を殺した。私たちをずっと苦しめてきたあのご主人様を、殺したんだ。
「じゃあ、私たちはもう・・・自由、なの?」
別の奴隷が呟いた。ご主人様が死んだということは、隷属魔法や奴隷刻印の効果は切れるはずだ。もしかしたら、さっきのパキンという音は、それらが壊れた音なのかもしれない。
私たちを長い間縛り続けてきた枷が、外れたんだ。
「・・・やった。やったやったやった!」
「ご主人様、本当に死んだの!?」
「やっと、やっと解放されたんだ!」
「信じられない!」
「もうあの拷問を受けなくていいんだ!」
「私たちは、自由だ!!」
屋敷は、奴隷たちの歓声に包まれた。
私も湧き上がる喜びから、声を上げそうになった。だけど、狐の表情が目に留まった。
何故だろう。あのご主人様がいなくなったのに・・・彼女の顔は、とても曇っていた。
◇◇◇
[SIDE:狐]
リボルトが死んだことにより、屋敷は喜びに包まれた。だけど、私はそんな気分になれなかった。ずっと憎んでいた男を殺せたというのに、この虚しさは何だろう。
さっきから、ちっとも心が満たされない。
「・・・私は・・・・・・」
人を殺した。
その感覚が、鮮明に残っている。血が、叫びが、全身に焼き付いた。
・・・私は今、リボルトと同じことをした。いや、やっただけなら構わない。ずっとリボルトを殺したいと思っていたから。でも、でも・・・
────私は、楽しんでしまった。
相手を痛めつけることに、幸福感を抱いてしまった。悶え苦しむリボルトを見て、どうしようもないくらいに感情が昂った。もっと壊したい。もっと傷つけたい。そう、思ってしまった。
そしてはたと気がついたんだ。
今の私は、まるで拷問をしている時のリボルトのようではないか、と。
私はもう、狂ってしまった。改めてその事実は、私の弱い心には堪えた。
「すごいよ狐!」
だから、そんな事言わないで。私は暴力を楽しんだ。それは、復讐だから? ご主人様が相手だったから?
────わからない。もしかしたら、私はもう、リボルトのように暴力そのものを楽しむ奴になってしまったのかもしれない。
もし、この感情がリボルトだけでなく、他の人達にも向けられてしまうようになったら・・・私は、彼女たちを傷つけてしまうかもしれない。そしたら、彼女たちを再び苦しめることになる。
それだけは、絶対ダメだ。
「・・・狐? ねえ、ちょっと。どこ行くの?」
無言で立ち去ろうとする私に、赤猫さんが声をかけた。
「みんな、すぐに逃げた方がいい。このままだとまた人間に捕まっちゃう。でも、もう縛りもないし、みんなで協力すれば逃げられると思う」
「な、何言ってるのよ。あなたも、一緒に・・・」
「私は、駄目なの」
みんなを、殺しちゃうかもしれない。
それだけは嫌だ。そんなこと、したくない。だけど、リボルトを殺した時の私は、まるで私じゃないみたいだった。
一番嫌な事のはずなのに、そんな事をしないと言いきれない。それが、酷く怖いの。
今も人間に対する憎悪が溢れて止まない。いや、人間にだけじゃない。見るもの全てが醜く思えて、壊してしまいたくなる。そうでもしないと、いられない。
それほどまでに、この二年は私を歪めてしまったんだ。
「さよなら」
「ま、待って!」
私の腕を、赤猫さんが掴んだ。振り返ると、彼女は真剣な眼差しで、真っ直ぐこちらを見ていた。
「あなたがどこに行こうと、それはあなたの自由よ。だって、私たちを縛るものはもう何もないんだから。だけど、最後に一つだけいいかしら?」
「なに?」
「・・・私の名前は、セレネア。あなたの名前は、何ていうの?」
─────名前。名前、か。
そういえば、私には名前があった。だけど奴隷になったことで、その名前を奪われた。だから奴隷たちはいつも、互いを種族名や特徴で呼びあっていた。けれど、私たちはもう奴隷じゃない。
もう、本当の名前を口にしていいんだ。私の、人間だった頃の名前を。
『あ、唯葉ちゃん! おはよう!』
『おはよう唯葉。今日は遅刻しなかったみたいだね』
『影宮おはよー』
『唯葉さんおはよう』
それは、二年前の記憶。だけど、もうずっと前のことように思える。
あの時の私は、狐の耳も尻尾もない、普通の人間だった。獣人になったばかりの頃は、その姿に戻りたいと何度も願ったものだ。
だけど、今はもうそうは思えない。
前にも同じことを考えたけれど、私はもう、自分を人間とは思えないし、人間を同族とも思えない。
今の私にとって人間は、憎悪の対象でしかない。私を捕まえた兵士たちや、私を売った奴隷商人、私に罵詈雑言を浴びせ、時には暴行も行った街の人々、そのどれもが憎くて仕方ない。
私を傷つけた、人間が憎い。
たとえかつての親友たちでも、私はもう昔のように接することは出来ないだろう。なぜなら、彼らは人間だから。
そしてそれは、過去の私も同じだ。もう、人間だった頃の私は、私じゃない。人間の時の名前はもう、名乗りたくない。
今ここにいるのは、人間の影宮唯葉でも、奴隷の狐でもない。醜い化け物の獣人だ。
だから私は、赤猫さん─────セレネアさんに、告げた。新たに付けた、私の名前を。
「私の名前は、カゲハ」
昔の名前を少しもじっただけだ。だけど、同じじゃない。
今日から、これが私の名前だ。
すると、まとまりなく騒いでいた少女たちが集まり、そして、メイドらしい美しい所作で頭を下げた。
「「ありがとう! カゲハ!」」
「・・・っ」
なんだろう、この気持ちは。
────この屋敷に来て・・・いや、この不条理にまみれた地獄のような異世界に来て、私は初めて、誰かから感謝された。
そんな優しい目を向けられたのは、久しぶりだ。
だからだろうか。・・・ほんの少しだけ、笑みが零れた気がした。
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