ほろ酔い
右の頬がひりひりと痛む。
氷袋か何かで冷やせば、ある程度はマシなのだろうが、無人駅にそんなものはない。
少女は僕を叩いてから、一言も喋らなかった。けれども、線路からホームに戻ることは了承してくれたらしく、僕の後ろを歩いてきた。
少女の背丈くらいあるホームに上がるときには、手を貸そうと思ったが、少女は軽々と上った。華奢な見た目に反して、運動能力は案外高いのかもしれない。
僕は頬を冷やそうと、リュックサックから手拭いを取りだして、改札のそばで見かけた古びた井戸へと向かった。井戸は円柱状に丸石を積み上げて作られたもので、底の方には綺麗な地下水が貯まっている。僕は縄を引いて釣瓶を引き上げた。
酔いはすっかり覚めていたが、掌を器にして水を飲んだ。良い具合に冷えている。口元を乾いた手拭いで拭ってから、水に浸した。濡れた手拭いを右の頬に当てると、ぴりりとした痛みが走る。これは皮膚が切れているかもしれない。
僕は手拭いを頬に当てながら少女の元へ戻った。彼女はホームの縁に腰を掛けて、僕が先ほどやっていたように、足をぶらぶらさせていた。
「隣いいかな」
「…………」
「さっきは言い過ぎちゃってごめんね」
「…………」
沈黙は覚悟していた。もしかしたら、明け方まで何も会話をせずに別れることになるかもしれない。けれども、僕にできることはここまでだった。コンクリートの地面は、昼に蓄えた太陽のぬくもりをとっくに逃がし、冷徹な冷たさだけを座る者に伝えていた。しばらくすると、少女は両肘に手をやって小刻みに摩り始めた。小さな体躯を更に小さくして、肩を震わせている。
「どうしたの?」
「…………」
「もしかして、寒いの?」
「別に、寒くないわ」
つっけんどんに少女は言ったが、顔色は先ほどよりも悪く、青ざめて見える。あんな場所に寝転んでいたのだから、自業自得と言えばそれまでだが、放っておくのはあまりにも不憫だった。どうしたものかと考えていると、まだ半分ほど中身が入っている酒瓶に目を留めた。
「ほら、呑みなよ。少しは身体が温まるよ」
僕は酒瓶を掴むと少女の方に突きだした。
「あんたお酒を呑んでいたのね。どうりで酒臭いわけだわ」
少女は鼻頭に皺を作る。
「いいじゃないか。寒い日には少し呑むと温まるよ。嫌なことも忘れられるし」
「嫌なこと?」
少女の目が僅かに見開く。
「うん、ぐいっと呑むと楽しい気分になるんだ」
少女は訝しげに酒瓶を見やると、首を傾げた。
「でも、私、お酒なんて呑んだことないわ」
「そっか、ちょっと呑むだけでも違うんだけどな」
僕はそう言ってコルクを抜き取り、呑んで見せようとした。
「あ、ちょっと待ちなさい」
飲み口が僕の唇に触れるか触れないかのところで、少女は慌てたようにぱっと手を伸ばして、僕の手から酒瓶を奪い取った。そして、口を付けて一気に呷る。ごぼりと音を立てて、残っていた液体はみるみる内に減っていく。
慌てて酒瓶を取り上げると、中身はほとんど残っていなかった。火を近づけると容易に着火するほどの強い酒だ。
「ケホッ…ケホッ……うう、何よこれ。まずいじゃない」
「呑み過ぎだよ。ほんの一口で良かったのに」
「そんなの知らないわよ。あんたが呑めって言ったんでしょ」
僕を非難して、少女は立ち上がろうとしたが、くらりと重心を崩してよろけてしまう。
「ちょ……ちょっと、立てないじゃない。どういうことよ」
「呑みすぎて、酔いが回っているんだよ」
「私、お水が飲みたいの。あんたが持ってきて。空っぽの水筒が鞄の中にあるから」
そう命令されて、僕は井戸の方まで水を汲みに行った。戻ってくると、まだ少し中身が残っていたはずの酒瓶はいつの間にか空っぽになっていた。
「まさか、全部呑んだのか?」
「……」
少女は何も言わずに、上半身をぐねんぐねんと前後に揺らし、視点も朧気だった。こんな状態になった叔父さんを山ほど介抱したことはあるが、はっきり言って面倒くさい。やっぱり、寒いまま放って置いた方が良かったかもしれない。
僕は仕方なく少女の隣に腰を下ろし、水を飲ませた。水筒を手渡したところで、自力では満足に口元まで運べない。仕方なく、水筒を口元まで運んでやる。まるで、生まれたばかりの仔っこに、母馬から絞った乳を哺乳瓶で与えてやっている感覚だった。
「あんた、なしてこんな場所におると?」
おいしそうに水を飲み終え、僕の方にしなだれかかりながら、少女はぽつりと言った。
一瞬、人が変わったのかと思った。かっちりとした東京の言葉はどこへやら、訛りの強い古くさい言葉が小さな唇から零れ出す。上品そうな都会生まれに見えて、生まれは東京からうんと離れた田舎なのかもしれない。
「逃げだしてきたんだ」
「どこからよぉ」
「牧場から」
「あんた、牧夫なん?」
「うん……まあ、今はね」
僕が頷くと、少女は酒で濁った黒い瞳を空に向けた。
「そっかぁ、あんたも逃げ出してきたんか。うちと同じやん」
少女はそう言うと、上体をゆるりと起こして、ぼさぼさの黒髪を手で後ろにまとめて、ぎゅっと引っ張り上げた。
「あっ」
思わず声がでた。つい先ほど新聞で見た顔。僕の最後の騎乗日になったあの日、つっけんどんな物言いで馬上から命令してきたあの……。
「殿上……紫都」
「やっぱり、髪の毛を……っひく。解いちゃうと分からんもんよね」
紫都は束ねた髪から手を放すと、僕の方にぐにいと顔を寄せた。そのまま少しずつ僕の方へ倒れかかってくる。
「さっきは暗ぁて、あんまよぉ見えんかったけど、あんた。もしかして、前に会ったことない?」
ほんのりと朱に染まった紫都の顔が鼻先にあった。ここまで近づいても、紫都の顔は整って見える。特に酒で濡れた唇は妙に艶やかで、さながら虫を誘う花びらのようだった。思わず、僕は生唾をごくりと飲み込んだ。
「……ないよ。今日初めて会った」
嘘を吐いたのはちょっとした意地だ。落ちこぼれた僕だって知られたくなかった。
「嘘よう。絶対見たことあるって……えっと……」
紫都はしばらく考えるそぶりを見せてから、ぽんと掌を打った。
「あっ! 騎手やったやろ。名前――はたしか……遊馬来夢」
「人違いだよ」
「んふふふ。あんた、名字はなんち言うん?」
「あ、遊馬」
「ほら、あっとうやん。もう、隠さんでもええやんけ」
紫都はケラケラと朗らかに笑いながら、僕の肩をバシバシと叩いた。
「隠すつもりなんて、ないし」
言い訳っぽく、そうぼやくと、紫都は笑うのを止めて、僕の方を見た。
「なんで、騎手辞めたん」
「それは……」
「言えんの?」
「そんなことないよ」
僕は逃げ道を探していた。まだ、右手が動かないことは誰にも話していない。なぜなら、そういう目で見られるのが嫌だったからだ。こっそりリハビリを重ねて、華やかにカムバックしてやるつもりだった。
この物語は『インフルエンサーノベリスト』橋本利一の提供によってお届けしております。インフルエンサーノベリストとは自分に影響力を与える物語を自分で書く、影響力は伝播するからきっとあなたにも届くはずをキャッチフレーズとして執筆活動を発信する小説家という意味です。