死にたがりや
まさか、列車に轢かれたのだろうか。それにしては血痕がない。線路の真ん中に倒れているのだから、轢かれたとすれば無事では済まされないだろう。
「だ、大丈夫……?」
とりあえず、声をかけてみることにした。
「……」
返答がない。もしかしたら意識がないのかもしれない。そう思って、肩を揺さぶろうと手を伸ばす。
すると、鋭い声が辺りに響いた。
「触らないで」
僕は伸ばしかけた手を慌てて引っ込めた。
声を上げた少女はうーんと伸びをしてから、線路の真ん中で仰向けになった。
「……」
年の頃は十代後半くらいだろうか。
腰まで届きそうなボサボサの長い黒髪。服は黒っぽいTシャツにジーンズ姿、その辺りで転げ回ったのか泥だらけ。やけに均整のとれた顔立ちは彫りが深く、鼻筋はすっと通っており、懐中電灯に照らされた肌はまるで真珠のように白いが、目元には寝不足なのかクマができていた。化粧気は一切なく、頬には押しつけられた礫の跡がくっきりと残っていた。
少女はうっすらと目を開けて、さも迷惑そうにこちらを見ていた。長い睫毛に覆われた隙間から、瞳が覗く。
「ちょっとそれ、眩しいから止めてくれる」
少女はゆるゆると右手を挙げて、光を遮った。
「ああ、ごめん」
不機嫌そうな声に、僕は慌てて洋燈を遠ざけた。
「それで、私に何か用かしら?」
薄暗い中でぼんやりと浮かび上がる少女の顔には表情がなかった。無気力というか、あるべきはずの生気が飛び去ってしまったようで、それはまるで精巧に細工が施された古い人形みたいだった。
「ホームから線路を覗き込んだら、何か見えて……」
「それで」
「何かなって近づいたら、君が倒れていて……」
「だから何?」
「えっと……だから助けにきたんだけど」
「いい迷惑だわ。放っておいてちょうだい」
「え?」
予想だにしない反応だった。では、少女は倒れていたわけではなく、自分の意思で線路に寝転がっていただけだというのか。
「私ね、死にたいの」
少女は確かにそう言った。思わず、耳を疑った。
「え、死にたい?」
「そうよ」
「えっと……なんで、こんな場所に寝転んでいるの?」
「見て分からないの? 列車に轢かれるのを待っているのよ」
少女の言葉通りなら、全く暢気なものだ。
最初の列車が来るのは夜明けだ。あと何時間あると思っているのだろう。それまで、延々と線路に寝転んで待つというのか。ずいぶんと気ままな、死にたがりだった。
「まだ列車が来るまで、かなり時間があるけど……」
「知っているわ」
「地べたに寝転がっていると寒くない?」
「そうね」
「列車が来るまでさ、あっちに座っていようよ」
「あのね。私、死にたいの。なんで、あんたとお喋りしないといけないわけ?」
なんでって……。そんなこと決まっている。
助けたいからだ。
誰かが死のうとしているのに、それを見ているだけなんて、僕にはできなかった。それに、死ぬのはもう見たくない。
ぶらぶらと揺れる右脚、悲痛混じりの嘶き、全てを呑み込まんばかりの馬蹄の音。すぐそばまで迫っていた死は情など一切無く、冷酷で無慈悲だった。
例え人間でも、そんな悲しいことを、もう一度見るのは耐えられない。きっと分かっていないんだ。死ぬことがどれだけ恐ろしいことか、残された者がどれだけの悲しみを背負うか。
でも、そんなことは口にしなかった。ぐっと堪えて、僕はホームに戻る提案を続けた。
「列車が来るまででいいんだ。ほら、時間になったら線路に行けばいいだろう」
「あんた、ちょっとしつこいわね。どうして、私に構うのよ。私の何が分かるっていうのよ。軽々し
く声をかけるんじゃないわよ」
「それは……」
言葉に詰まる。先ほど呑んだ酒が見せる幻影なのか、砂塵の最期の光景が濁流のように頭の中を、耳の奥を、視界をかき乱す。
「あんたみたいな人、偽善っていうのよ。声をかけて、助けようとして、救った気になっている。ヒーローにでもなった気かしら? あんたなんて、誰も救えやしないわ」
救えない。その言葉が鋭く突き刺さった。
「うるせえよ」
濁流が一気に胸に押し寄せてきて、思わず悪態を吐いてしまった。とっさに、僕は口を押さえた。本当に死なれたら後味が悪いどころの話ではない。
しかし、少女は僕の言葉なんて歯牙にも掛けず、寝そべっていた線路から身体を起こした。スカートに付いた砂を払いのけて、ゆっくりと立ち上がる。
小さな体躯が僕の前に立った。少女は背筋をぴんと伸ばしても、僕の鳩尾辺りまでしか背丈がなかった。
「あんた名前は?」
「来夢」
「来夢?」
少女は顎に右手を当てて、しばし考える素振りを見せた。やがて、首を振ると再び僕の方を見た。
「……えっと、君の名前は?」
「もうすぐ死ぬから、名乗る必要は無いわ」
「それは……そんなのだめだよ」
「とにかく、放っておいて」
少女はそう冷たく言い放つと、ぷいと顔を背けてしまった。理不尽だと思ったが、どうしようもない。このままだと、少女は自分の命を絶ってしまうだろう。それだけはどうしても避けたかった。目の前で誰かが死ぬのは、もうまっぴらごめんだ。
僕にできることはなんだろうか。
口下手だから、説得なんてできない。できるとしたら手を伸ばすこと。それくらいしか僕には思いつかなかった。
僕は勇気を出して、無防備な少女の手を左手で掴んだ。柔らかい掌を想像していたのに、表面は固くてざらざらとしていた。指の付け根にはマメの感触もあった。
「なッ、離しなさいよ」
黒い双眸が驚きを露わにして少女は叫んだ。
「嫌だ」
「誰か呼ぶわよ。大声で叫ぶわよ」
「呼べばいい。そうしたら、君は死ねない。それで、十分だ」
「うるさい。あんたバカなの? 私は死ぬの。もう、うんざりなの。ほっといてよ。死なせてよ。こ
こなら、静かに死ねると思ったのに。どうして邪魔をするの?」
少女は暴れた。僕が握った手を振り解こうと必死にもがいていた。
その姿が、やっぱり砂塵と重なる。砂塵は自分の身を挺して僕を守ろうともがいていたのに、少女は死のうともがいている。こんな女、救う価値なんてない。列車に轢かれてしまえばいい。
そう思った。
けれども、そのとき、頭の中であの声が聞こえた。
「生きろ」
砂塵の声。自らの死を悟っても、誰かのために尽くした砂塵。砂塵は僕を助けた。ならば僕にもできるだろうか。少女を掴んだ手が震える。
気づけば、叫んでいた。
「生きろよ! お前は……死ぬのが怖いんだ。本当は死にたくないって、心の底から――」
「うるさいッ!」
叩かれたことに気が付いたのは、体勢を崩して無様に地面へ倒れこんだ後だった。頬を押さえて反射的に瞑った目を開けると、視線を感じた。
見上げると、唇をぎゅっと引き結ぶ少女がこちらを睨んでいた。
この物語は『インフルエンサーノベリスト』橋本利一の提供によってお届けしております。インフルエンサーノベリストとは自分に影響力を与える物語を自分で書く、影響力は伝播するからきっとあなたにも届くはずをキャッチフレーズとして執筆活動を発信する小説家という意味です。