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プルスウルトラ  作者: 橋本利一
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僕はまた逃げるのか

 空には濃紺の海が満ちていた。大海に浮かぶ星々が白く熱を帯びたように輝いている。

 僕はリュックサックを背負って、ゆっくりと歩き始めた。

 くすんだ赤色のトタン屋根に、四角い煙突。種類の違う廃材を継ぎ合わせて作った斑模様の外壁。叔父さんが一人で作り上げた二階建ての母屋は、威圧するように僕を見下ろしていたが、その前を素通りする僕を咎めることはできなかった。

 

 牧場の敷地から村路へと出る。

 振り返ると、『石井牧場』と書かれた看板がうっすらと暗闇に浮かび上がっていた。


「寒いな」


 季節は長い冬が終わったばかりだ。村路の端には土を被って赤茶けた雪がまだ残っている。慌てて出てきたので、コートを忘れたことに気がついた。とても、どこかへ出かけるような格好ではなかった。


 それでも僕は前を向いて、黙々と歩き続けた。明日を迎えるのが怖かった。仔っこを一頭つぶすのが見るに堪えなかったのだ。ハクに対する申しわけなさと、臆病さがぐるぐると頭の中を駆け巡り、眠れない蒲団を撥ねのけて外へ飛び出していた。


 逃げるのだ。


 牧場を出てからというもの、中身がごっそりと抜け落ちてしまったかのように、全身がとにかく軽かった。踏み出す足が速くなる。なんせ、軽いのだ。飛び上がれば、空高く浮かび上がり、覆い尽くす星々に手を触れることができるかもしれない。


 走り出す。


 一歩、一歩、確実に地面を蹴りつけ、少しでも早く前に進む。優秀なサラブレットのように……。しかし、少しばかり走っただけで、息が上がる。身体は明らかに鈍っていた。心臓が痛いほど脈を打ち、足が千切れそうになる。しかし、まだ走れる。どこまでも走れる。


 そう思った矢先――遠くの方で蛍光灯の灯りに包まれた寂れた駅舎の影が見えた。


『羊蹄駅』


 雪のように白い樹皮を持つ白樺を、真っ二つにして拵えた看板が駅舎の前に立っていた。

 木造の駅舎は、僕が生まれるよりも遙か昔に建てられたものであり、あちこちにガタがきていた。瓦葺きの三角屋根は、瓦がいくつか脱落して内板が剥き出しになっていて、建物を支える柱は動物に囓られた痕や、雪の重みに耐えきれず曲がっているものもあった。


 僕は軋む引き戸を開けて中に入った。不用心にも、鍵は掛かっていない。

 どこ行きの切符を買おうか迷ったものの、窓口には駅員がいなかった。こんな遅い時間なら仕方あるまい。お金なら後で車掌にでも払えばいい。


 無人の改札を通り抜け、狭いホームに降り立つ。

 天井の蛍光灯から降り注ぐ灯りが駅前まで広がっているのが見えた。雑貨や食料を扱う商店が二、三軒ある程度だ。

 僕は柱に掛かっていた時計に目をやった。まだ日付が変わったばかりだ。最初の列車が来るまではたっぷりと時間があった。


「待つか」


 僕はひとりごちると、懐中電灯をそっと地面に置いた。


 ふと、時計が掛けられた柱の下に、古新聞が積まれているのが目に留まった。読み物であるのと同時に、ちり紙の役目も果たしているのだろう。僕は暇つぶしに、何部か手に取って目を通した。不揃いの日付は、真新しいものもあれば、黄ばんだ古いものもあった。それらは一様に、馬産地ならではの情報を報じていた。


『直線一気のごぼう抜き!』


『鞭なんていらない。大楽勝』


 僕は一面にさらりと目を通しただけで、紙面を捲った。他の面も同じようにすると、今度は日付が新しい新聞を手に取る。こちらの新聞は一面が騎手の顔写真。長い黒髪を後ろ手で馬の尻尾のように結って、綻びがないように油か何かで撫でつけている。顔立ちは整っていて、濃い口紅や右上がりに描かれた眉が、他者を威圧するかのような攻撃性を宿している。あの殿上紫都だ。紫都は大きなレースを勝ったのか、満面の笑みを浮かべている。写真の横には煽り文句が立ち並ぶ。


『重賞は取り飽きた。狙うはダービー』


『若手なんて、もう言わせない。全ての騎手が過去になる』


 僕は次々と新聞を手に取り、斜め読みをしていく。日付はどんどん新しいものになって、ついには先週発行されたばかりのものになった。


『どうした殿上騎手!? 暴れ馬御せず、最下位に沈む』


『天才の名折れ。無様な落馬』


 写真は豆粒ほどの大きさの紫都が、地面に這いつくばっている様子が写し出されている。

可哀想とか、大丈夫だろうかという気持ちはなかった。心の奥底で感じたのは成功者の失墜を喜ぶ悪い気持ち。


 ざまあみやがれ。


 僕もレースではよく落ちる騎手だった。逃げる戦法が得意だったので、他の騎手に目印にされて、追い抜きざまに馬体がぶつかり合って、吹き飛ばされることが多々あった。真剣勝負にはよくあることだったが、僕が落ちても誰も見向きもしないし、新聞に載ることすらない。


 あとで、馬主と調教師にこっぴどく叱られるだけだった。


 ちょっとくらい僕と同じ気持ちを味わえば良いんだ。


 そう思ったが、そんな自分がとても嫌な人間に思えてきて、僕は新聞を元の場所に戻した。

 それから、背負っていたリュックサックを下ろし、中から酒瓶を取り出した。分厚い瓶底には琥珀色の液体がまだ半分ほど残っている。叔父さんが厩舎に隠している奴を勝手にかっぱらってきたのだ。


 僕は、線路の方に足を投げ出して、ホームの縁に腰掛けた。ぶらぶらと足を揺らすと、追いかけるように影の足も揺れた。

 僕は酒瓶の飲み口から栓を抜き取り、そのまま口を付けて、中身を呷った。喉の奥が焼けるように熱くなって思わず咽せかえる。おいしくない。それでも僕はごぶり、ごぶりと呷った。喉を通り抜ける液体の感覚は慣れてしまうと、なかなか悪くなかった。酒は喉で呑むもんだと語っていた叔父さんの言葉を思い出す。


 しばらくすると、頭の中がぼんやりとしてくる。何にも考えなくも、楽で気持ちいい時間がやってくる。


「やってらんねえよなァ」


 酒を呑んだ叔父さんの口癖をぼやきつつ、酔いに踊らされて、きょろきょろと視線を動かし、足下を通る線路に目をやる。線路は、ホームの先端から僅かばかりもいかないところで、ふっつりと途切れて闇の向こうに消えていた。


 ふと、何かが見えた気がした。目を凝らすと、蛍光灯の明かりがじんわりと広がる境から一瞬だけ何かが見えた気がした。


 何だろうか。


 普段なら見向きもしないのに、酔いが回っているせいか、どうにも気になってしまった。列車もまだ延々とくる気配がない。


 行ってみるか。


 酒瓶を置いて、懐中電灯に手を伸ばし、僕は線路に降りた。積み上げられた礫の山を蹴り飛ばしながら、ホームの先端まで歩いていく。


 洋燈の灯りが、錆び付いたレール、腐りかけた古い枕木を照らし出す。


 この先、どこまで行っても同じ光景が続くのだろう。そう思うと、このままずっと歩いていきたい。そんな衝動に駆られた。レールの上に足を乗せて、両手を広げ、まるで綱渡りをする曲芸師のように歩く。酔いが回って足下がおぼつかず、レールを踏み外し、何度も礫の山に足を突っ込んだ。


 それでも、前へ進む。


 なんだか、ちょっとした冒険をしている気分になった。


 歌でも歌いたい気分だ。弾む酒臭い吐息に調子っ外れの鼻歌を混じらせる。


 しかし、近づくにつれて、嫌な気分が胸の奥から迫り上がってきた。呑みすぎて気持ち悪いとか、そういうのではない。


 僕はレールから降りて、歩く速度を落とした。そして、立ち止まる。


「嘘……だろ」


 懐中電灯から零れ落ちた光が、枕木にばさりと広がる長い黒髪を照らし出していた。


 冷汗が背中を流れ、全身がさざめき立つ。冷たい血がぞわりと身体を駆け巡り、酔いを覚ましていく。

 

 それは紛れもなく、人間の少女だった。

 この物語は『インフルエンサーノベリスト』橋本利一の提供によってお届けしております。インフルエンサーノベリストとは自分に影響力を与える物語を自分で書く、影響力は伝播するからきっとあなたにも届くはずをキャッチフレーズとして執筆活動を発信する小説家という意味です。

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