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プルスウルトラ  作者: 橋本利一
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ハクとの距離

 夜。僕は蒲団の上で目を開けた。上着を羽織り、軋む母屋の廊下を摺り足で歩き、サンダルを引っかけて外へ出た。空を見上げると、膨らみかけた月が半円を描いていた。もう少しで満月になる。月が満ちると、引力の関係からか産気づく馬が多いと言われている。


 僕は懐中電灯で足下を照らしながら、厩舎へと歩いて行った。厩舎には鍵がかかっていた。真新しい南京錠で、鍵は陽奈が持っていたが、昼間にこっそりとくすねておいたのだ。鍵を開けて中に入ると、視線を感じた。馬は夜目が効く、僕のこともよく見えていることだろう。馬たちは騒ぎもせず、おとなしくしていた。僕だと分かっているのだろう。


 僕はハクの馬房の前で立ち止まった。馬房の檻に懐中電灯を近づけて、中を覗き込むと、座り込んでこちらを何事かと見やるハクと目が合った。


「失礼するよ」


 僕は小さくそう言うと、檻を開けて馬房の中に入った。ハクは立ち上がろうとせず、ただ僕を見ていた。でも、僕が何をやろうとしているのかは分かったらしく、ピンク色のモコモコとした馬服を着た馬体を動かして、干し草が積み上がった場所を空けてくれた。


「今日から一緒に寝ようと思うんだ」


「……」


「邪魔はしないよ」


 ハクは何も答えなかった。僕はそれだけ言うと、懐中電灯の灯りを消して、干し草の上に寝転んだ。干し草と獣臭とボロの臭いがした。瞳を閉じる。蒲団より寝心地は悪かったが、嫌な気分ではなかった。


 それからというもの、夜になる度に僕はハクの馬房に潜り込んだ。僕はいつも同じ場所で身体を丸めた。心の距離を縮めたい。しかし、人間ですらなかなか縮まるものではない。

けれども、物理的な距離ならば縮めることはできる。


「なあ、ハク。砂塵のこと、本当にすまないと思ってるんだ」


 何日目かの夜に僕は、ハクの方に背を向けて寝転んだまま言った。


「……」


「僕のせいなんだ。勝ちを急いだせいで、判断を誤ったんだ」


 言葉が通じるわけがない。ハクは馬なのだから。けれども、陽奈は言った。ハクは特別な馬だと。ならば、通じるのかも知れない。


「許してほしいなんて思ってない。だけど、何かしたいんだ。どうにかして罪滅ぼしがしたいと思っている。ハク、僕は一体何をすればいいだろう」


「ひひーん」


 ハクが嘶きを上げた。ばさりと尻尾が動く。怒っているのだろうか。僕はそっと視線を後ろにやってみた。窓から零れた月明かりの下でハクは蹲り、馬房の壁を見ていた。尻尾がまたばさりと動く。狭い馬房の中だ。尻尾は僕の身体に覆い被さっていた。そしてそれはまるで僕の身体を撫でるように動く。


「ひひーん」


 また嘶いた。言葉ではない。けれども、その嘶きは心の奥底に響いた。


 僕は寝返りを打ち、ハクの背中の方へ顔を向けて目を閉じた。そして、右手をそっとその背中にくっつけた。


「ハク、おはよう」


 声をかけて、馬房の檻を開けて、鼻筋を撫でてやる。それから、陽奈の指示の下に調合した朝飼いの桶を目の前に置いてやる。ハクは唇をめくり、「ひひーん」と嘶くと、顔を桶に突っ込む。


「よしよし、偉いこだ」


 ハクの首筋を撫でていると、母屋から起きてきた陽奈が、呆けたような顔つきで僕の方を見ていた。


「あれれー? 仲良しじゃん。どうかしたの?」


「どうもこうもない。仲良しは悪いことか?」


「ぜんぜん、悪くないよ。むしろいいことだもん。でも、でも、急すぎない?」


「ふん、僕は天才だからな」


「あ、それ陽奈の台詞だ!」


 陽奈が頬を膨らませながら、地団駄を踏む。僕はその間にハクの馬房の中へするりと潜り込み、馬体の具合を確認する。


 胎は日に日に膨らみ、ついにはハクの背中の倍くらいになっていた。馬房は僕が寝転べるくらい余裕がある場所を使っているので、胎が仕えて外に出られないなんてことはないのだが、大きさが尋常ではない。


「なあ、陽奈。繁殖はこんなに大きくなるのか?」


 腕を組み、まだむくれている陽奈に声をかける。


「むう……ハクの仔っこは大きく出やすいからな。でも……今回のはちょっとばかし大きすぎるなあ……うーん、実はさ、お父ぉが話をしていたのをこっそりと聞いたんだけど……」


 陽奈はそこで、声の大きさを少しだけ落とした。


「実はハクの仔っこ。双子かもしれないって」


「双子?」


 僕が少し大きな声を出したせいで、ハクが飼い桶から顔を上げた。


「うん。獣医さんがこの間来て、おっ父ぉに話してたからな。間違いない。双子だから、片方つぶさなきゃって」


「つぶす?」


「双子は競走馬として大成しない。馬産家の間じゃ有名な話だぞ」


 僕はハクの馬房から飛び出した。そして、陽奈に詰めよる。


「なんだよ、それ。おかしいだろ。双子だからつぶすって。双子で成功している人なんていっぱいいるじゃないか」


「落ち着いて来夢兄ぃ。ちょっと怖いぞ」


 陽奈は慌てながら、僕の両腕を掴んだ。


「落ち着いてられるかァ! つぶすなんて許さない。絶対にだめだ!」


 心の奥底に引っ込んでいたと思っていた癇癪がやってきた。頭に浮かんだのは車椅子に乗って出席した砂塵の葬式だった。本来ならば、馬の葬式はやらない。本来、きちんと埋葬されることもそう多くはない。なぜならば、成績を残せなかった多くの馬は、引退後に食肉工場に運ばれて肉になる。そして、残滓はごみとして処分されるのだ。


 引退後に乗馬として管理するだけでも莫大な金がかかる。それを維持できる馬主はそう多くはない。


 それでも、叔父さんは強く葬式を挙げることを希望した。砂塵のために、そして何より僕のために葬式をあげるのだと言った。叔父さんはそういう人だ。そんな叔父さんが双子をつぶすなんて言うわけがないと思った。


 僕は陽奈の手を振り払い、厩舎から駆けだした。向かうのは叔父さんのところだ。止めさせるつもりだった。


「来夢。どうした?」


 叔父さんは母屋の前で春に蒔く牧草の種を選別していた。大きなタライに水を張り、種を入れて底へ沈んだものだけを選り分けていた。


「叔父さん。ハクの仔っこをつぶすってどういうことだよ」


「はぁ? 誰に聞いたんだそんな話」


「陽奈が獣医さんと話しているのを聞いたんだって」


 僕がそう言うと、叔父さんは唇を真一文字に引き結んで、うーんと唸った。それから、両手で器を作り、水面に浮かんだ種を水ごとすくい上げて、地面に捨てた。


「来夢。双子は危険が伴うんだ。出産のリスクは跳ね上がる。それに、双子は互いに競争能力を吸い合うなんて言われている。だから、少しでも危険因子は下げておきたいんだ」


「そんなの僕らの都合だろう」


「俺たちは馬のおかげで飯を食っている。だからな、ちゃんと考えなくちゃいかん」


 叔父さんはタライの水を少しずつ流していき、選り分けた種を外に置かれた大きいテーブルに薄く広げていく。


「この種もそうだ。ずっしりと中身が詰まったものを選んでいる。すかすかの中身がないものを選んでも芽はでないし、育っても栄養のあるものにはならん。栄養のあるものじゃないと良い馬は育たん。そうだろう?」


「おかしいよ。馬を牧草の種と同じにするのか? 叔父さんは前に言っていたじゃないか。馬と人はそう変わらないって忘れたのか?」


 僕が一気に捲し立てると、叔父さんは作業の手を止めて、こちらを睨んだ。


「全く、お前は余計なことまで覚えているな。確かに、そんなことを言ったかもしれん。でも、それはそれ。これはこれだ」


「でも……」


「ハクのことを考えろ。ハクの負担を少しでも減らせるのなら、つぶすのは最善の手だと思う。それに、オーナーは俺だ。お前が口を出す問題じゃない」


 叔父さんはそう言うと、話は仕舞いだと言わんばかりに立ち上がり、ポケットから取り出した布巾で濡れた手を拭いた。


「明日の朝やろうと思う。獣医に、もうぎりぎりだと言われていたんだ。来夢は立ち会うか?」


 そう訊ねられても、僕はすぐに首を縦に振ることは出来なかった。


「そうか。まあ、一頭は残すんだ。そう深刻な顔をするな」

 

 叔父さんはそう言って、僕の頭にぽんと手をやると、母屋の方へ歩き去って行った。

 この物語は『インフルエンサーノベリスト』橋本利一の提供によってお届けしております。インフルエンサーノベリストとは自分に影響力を与える物語を自分で書く、影響力は伝播するからきっとあなたにも届くはずをキャッチフレーズとして執筆活動を発信する小説家という意味です。

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