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プルスウルトラ  作者: 橋本利一
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ちょっとした失敗

 ハクの担当は僕だったが、実質的には陽奈が世話をしていた。僕はというと、陽奈にひっついて、ハクの体温を計ったり、脚に腫れがないか、出産の兆候が来ていないかなど、筆記や目視で行えるものばかりしていた。


 放牧場の監視も僕の仕事だった。特に陽奈が学校に行き、叔父さんが他の牧場の応援に行っているときなどは、ひとりきりで、放牧地に座り込んで暢気に草を食む馬たちの様子を眺めていた。


 仕事を始めて一週間が経ち、大方の仕事が分かってきた頃だった。昼下がりに、放牧地を囲む牧柵の一つに背を預けて、どっかと座り込み、降り注ぐ陽光を浴びていると、どこからともなく睡魔が忍び寄ってきた。最初のうちはこれも仕事だと、耐えていたのだが、のんびりと寝そべっている馬を見ていると、どうにもこうにも眠くなる。


 どうせ、誰も見ていないのだ。咎める者なんていない。そんな気持ちから、睡魔に身を任せ、船をこぐ。良い感じでまどろんできた矢先、小刻みな馬蹄の音が聞こえてきた。そして、唐突に顔をぺろんとやられる。うぎゃあと吠えて、飛び起きると、ハクの鼻面が目の前にあった。もぞもぞと蠢く鼻面はべちゃりと湿っているので、体調は良さそうだった。


「な、なんだよ」


 少し不機嫌そうな声を出してみる。


「……」


 まあ、当然答えるわけがない。ハクは顔を遠ざけて、しばらく僕の方をじとっと見ていたが、やがてくるりと反転して歩き出した。バカにしているのかと思ったが、ハクは少し歩いただけで立ち止まり、また僕の方を見た。


 ついてこいということなのだろうか。僕は仕方なく、重い腰を上げて立ち上がるとハクについて行った。ハクは僕が歩き出したのを確認すると、振り返ることなく歩き出した。馬の視界は広い。真後ろ以外、全てが視界に入る。だから、振り返らずとも、僕の姿はばっちり見えているだろう。


 広大な放牧地を縦断し、境である牧柵が見えてくる頃になって、ようやくハクは立ち止まった。馬の自然な歩みに付いていくのは、なかなか大変で、小走りを強いられていた僕は、息を荒げていた。


「ヒヒーン」


 ハクが嘶く。そして、ぐるりと旋回して僕の背後に回り込むと、鼻面で僕の背中を押した。


「うわ、ちょ、止めろよ」


 ハクに促されるまま、二、三歩歩くと、僕はようやく気づいた。


 羊蹄山の麓に広がる原生林の境に沿うようにして、取り付けられていた牧柵が壊れていた。放牧地の区切りを意味するものだ。野生の動物に悪戯されたのか、劣化していたのか、地面に打ち付けられていた杭はぽっきりと折れて、散乱していた。


 肝を冷やした。もしも、ここから馬が脱走すれば、取り返しの付かない事態になる。僕は泡を食って走り出した。広い放牧地に放した馬を数えるためだ。今日は十頭ばかり放していた。陽奈ならば、馬のお気に入りの場所を知っているので、容易に見つけることができるが、僕は地道に足を使って探すしかない。


「くそ、どうしてこんな時に」


 昼寝をしようとしたバチでも当たったのかもしれない。


 全速力で駆けずり回りながら、馬の無事を確認していく。放牧地は運動をさせるために起伏に富んだ丘陵地帯に作られている。なので、遠くまで見通すことができないのだ。ようやく九頭目まで、数え終わった頃には、すっかり疲れ切っていた。肩を上下させて、荒い呼吸を繰り返す。久々に全力で走ったせいか、肺の奥が痛んだ。馬たちはひとりで焦る僕のことなんて気にもせず、のんびりとくつろいでいた。


 あと一頭。そいつを見つけたら、牧柵を修理して……と考えていたところで、思い出した。ハクを勘定に入れてなかったのだ。ハクを含めて丁度十頭。良かったと安堵したところで、嫌なことも一緒に思い出した。ハクを壊れた牧柵のところに置きっぱなしにしてきたのだ。


 頼む、逃げださないでくれよ。そう祈りつつ、牧柵が壊れていた場所に戻ると、ハクは牧柵が壊れた箇所を塞ぐようにして立ち、首を地面に伸ばして草を食んでいた。


「塞いでいてくれたのか?」


 思わずそんな風に訊ねてしまった。


「……」


 ハクはやっぱり素知らぬ顔だ。陽奈が話しかけたときは反応を示すくせに、僕にはとんと無口だ。わかっているのかもしれない。僕はハクの大切な息子を殺したのだ。許さないと思っているのかもしれない。


 僕はそれでも感謝の気持ちを伝えるために、「ありがとうな」と呟きながらしっかりと首筋を撫でてやった。


 ハクの尻尾が少しだけ揺れた――いや、そんな気がしただけかもしれない。


 母屋に材料を取りに戻り、牧柵の応急処置をしている間もハクはずっと僕の方を見ながら、身じろぎせずにその場に立ち尽くしていた。


 二週間が過ぎた。ルーティンのように繰り返される牧場仕事に、なんとなく身体が慣れ始めていた頃合いだった。療養中にサボっていた早起きもすっかりと習慣として取り戻し、毎朝日の出と共に朝飼いの準備を進めていた。


 医者に行って、ギプスを外してもらった。剥き出しになった右腕は垢まみれで、酷く臭った。右腕を慎重に観察すると、生々しい傷跡があったが、しっかりと縫合されて塞がっていた。もう一週間もすれば、抜糸できるらしい。ひとまず安心だ。しかし、再び騎乗するためにはリハビリをして、筋肉を元に戻さなければならない。


 そんなことをぼんやりと考えながら、隣の農家さんから無料で分けてもらった、規格外のニンジンをナイフで半分に落とす。そのままあげても良いのだが、人間と同じで小さくした方が、胃の負担も少ないのだという。最初は左手だけで刃物を扱うのに苦労したものだが、ギプスを取れた今は右手も僅かに使えるようになったので、いささか楽に切り分けることができた。それを陽奈に渡すと、ニン

ジンを持つ手をハクの馬房の方へ伸ばした。


「ハクぅ。ニンジンだよぉ」


「ヒヒーン」


 ハクは実に嬉しそうに嘶いた。普段はしっかりとしている目がとろーんとなっているし、尻尾なんてばっさばっさと揺れている。


「ほら、来夢兄ぃもあげてみなよ」


 陽奈に言われて、もう半分のニンジンを手に取り、ハクの前に持って行くと、ハクは知らん顔したまま、僕の方を見つめている。


「そうか、腹一杯なのかな」


 僕は頬を引きつらせながら、ニンジンを引っ込めた。むっとした。明らかに僕を拒絶している。やり場のない気持ちを左手に込めて、そのまま地面にたたきつけようとした。振り上げた左手を陽奈に止められる。


「そういう乱暴な態度は駄目だからな。ほら、ハクはいつも来夢兄ぃのことを見ているぞ。来夢兄ぃはよく言ってたよな。僕は馬の動きをちゃんと見る。って、馬も同じだからな。馬も人をよーく見ているよ」


 陽奈は両手を筒のように丸めて、双眼鏡のように覗きこんだ。そういえば、陽奈にそんな話をしたことがあるのを思い出した。


「ちぇ、記憶力だけはいいんだな」


「陽奈は天才だからな」


 僕はニンジンを手にしたまま、辛抱強く待った。こちらに向けてくるハクの視線をしっかりと受け止め、逆にこちらからも熱い視線を向けてみた。五分ほどして、ハクは根負けしたのか、僕の左手に乗ったニンジンの臭いを嗅いで口に運んだ。


「やった。食べたぞ」


「やったな。来夢兄ぃ」


 陽奈は右手を出し、僕は左手を出してハイタッチを交わす。その隙を狙われて、またハクに顔を舐められた。


「うげえ、くせえよ」


 顔を歪ませながら、用意していた手拭いでハクの唾液を拭き取る。ハクは知らん顔だ。


「きっと、にらめっこに負けたのが悔しいんだな。でも、来夢兄ぃはにらめっこ強いからなあ。いっつも時計とにらめっこしていたの、陽奈見てたもん」


 そういえば、騎手学校時代に自分だけの特技が欲しくて、毎日時計ばっかりみて、正確な体内時計を作ろうとしていたっけ。


 ふと、考えが浮かんだ。それは、ハクとの距離を縮めるための秘策だった。

 この物語は『インフルエンサーノベリスト』橋本利一の提供によってお届けしております。インフルエンサーノベリストとは自分に影響力を与える物語を自分で書く、影響力は伝播するからきっとあなたにも届くはずをキャッチフレーズとして執筆活動を発信する小説家という意味です。

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